聖書はドラマである

聖書はドラマである
京都春期特別集会 1980年6月8日
小池辰雄


【見出し】
●神のドラマ ●心が砕けるか、砕けないか ●出ウル・出エジプト ●有機体的でドラマチックな神学 ●神の根源語を受けとる ●十字架の土台に聖霊が ●即如の世界 ●聖霊の幕屋・キリストの幕屋・神の幕屋 ●祈り


●神のドラマ
よくお出かけくださいました。私はしゃべりだすと、私の話は非論理的な話で、話自身がドラマですから、ノートなんかとろうとしたってダメなんです。今日、私の話を初めて聞く方は相当いらっしゃると思いますが。
ユダヤ人は「聖書」と言わない。「律法・預言者および諸書」、ヘブライ語で「トーラー・ネビーム・ウー・ケスビーム」という。キリスト教ではこれを「旧約聖書」という。ユダヤ人は「律法」の民です。これはハッキリしている。この旧約の宗教の一番精神的、霊的中心はこの「預言者」です。この預言者の中で一番最高峰でありまた深淵のごときものはイザヤ書です。イザヤ書は全66章ですが──ちょうど聖書は66巻です──旧約聖書の中でもし一巻を選ぶとすれば、私は文句なしにイザヤ書を選びます。これが第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと三代にわたって書かれている。これは多分、師弟関係でしょう。これは歴史ですから。
大体、「キリスト教」という。私は50年間、教師をしていますけれども、「教」の字が嫌いです、「キリスト教」というのは。それで私は
「キリスト道」
と言っている。日本人は本来、道の民ではないですか。茶道、華道、柔道、剣道、書道、画道、みんなこれは道で、術ではない。日本人はそういう素晴らしい精神的な伝統を持っているのに、なぜそれをいい加減にするか。キリストは、
「我は道なり」(ヨハネ14・6)
と言われた。あれは定冠詞が付いていて、
「我こそは道なり」
というんだ、キリストは。だから、私は「キリスト道」という。『キリスト道』〔曠愛新書第6号、1967/4刊〕という新書版の本も書きましたけれども。
この「道」ということ。天道、地路という。神さまの道は「天道」です。天道をいかにして歩くかというと、我々は地上において「地路」として歩く。一人びとりが本当に道を歩く時には――これは道ではない――各人の足でもって歩くから、それは「路」という。自分は道であるなんて思ってはいかん。ただし、天道は一人びとりにおいてのっぴきならない路となります。天道を本当に地において自ら行ずるならば、それが本当の「路」なんです。路でなければ、これは行じているわけにいかない。
神さまの歴史は創世記から黙示録まで、これは道、天道なんです。
これは私が作った図ですけれども――これは時間線、上が絶対界です。歴史だけれども、聖書の歴史はいわゆる歴史ではない。これは神の啓示史です。絶対界がこの相対界に切りかかってくるところの、絶対次元が相対次元の世界に切りかかってくるところの、そういうドラマです。相対界はここに三角形で書いた。詩篇84篇にこの世のことを「悪の幕屋」といっている。〔「10なんじの大庭にすまう一日は千日にもまされり われ悪の幕屋におらんよりは 寧ろわが神のいえの門守とならんことを欲うなり」(詩篇84・10)〕
これは文化文明の世界。文化文明の世界はその質からいうと、サタンの配下になっている、大方の現世は。もともとそうではなかったんだけれども、パラダイス・ロスト〔楽園喪失〕になってしまった。ここがパラダイスですから。これは天国。このパラダイスが下の方に逆三角になって落ちてきた。これを救おうとしているドラマなんです、聖書のドラマというのは。我々はこのドラマを劇場で観ているような気持ではダメです。
「自分がドラマの中の一員とならないかぎり、絶対に聖書は読めない」
と、ハッキリ言っておきます。いわゆる「聖書研究」はいくらでもやって結構ですよ、悪くはない。けれども、いわゆる聖書研究でもって、ギリシア語ができようがヘブライ語ができようが、「それの方が聖書はなおよく分かる」なんて思って、錯覚をきたしているのがいますけれども、そんなことではない。皆さんは日本語で一向に差し支えない。問題はそのドラマの中に自分を入れること。聖書の中に自分を投じて、サマリヤの女とキリストが語っていらっしゃれば、自分がサマリヤの女となって聞いていなければダメなんです。
「そうですか、そういう女がいましたか」
なんて、そうじゃない。自分がサマリヤの女となって、今、現にキリストにぶつかって、
「参りました!」
と。そのドラマで自分が降参するまでは、このドラマの中に本当の意味で入れない。入ったような顔しているけれども。
「聖書が分かりましたの、分かりませんの」
と、普通、そんなことを言って、一生懸命で釈義学なんてやっている。私は何もけなすのではないけれども、それはみんな観念の世界です。観念の真理はあるでしょう。けれども、観念の真理では、聖書はどうにもならん。
たとえば、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書は全聖書のアルファにしてオメガ、始めにして終わりです。毎日必ず読んで、福音書のキリストにぶつかって下さい。「読む」というのは、本当は読むのではない。聞く、つかまれる、引っ張り回される。福音書でキリストにでっくわすでしょ。そうすると、キリストという人はケタが違う。キリストは、
「私を見た者は父なる神を見たのである」(ヨハネ14・9)
と言われる。今の若い人が、
「有神論だ、無神論だ、多神論だ。なんだかんだ」
とやっている。そんなものでいくら結論が出たって、どの結論が出たってどうにもならん。この福音書に来て、キリストにぶつかって、
「ここに神が顕れている!」
と。神はキリストにおいてこのドラマの主人公をつくっている。聖書のドラマの主人公はこのイエス・キリストですから。著者は神自身、キリストはその主人公です。
「旧約聖書は、我について証(あかし)するなり」(ヨハネ5・39)
と、キリストは言っておられる。宗教改革者マルティン・ルター〔Martin Luther 1483/11/10~1546/2/18〕はこの旧約聖書のエホバの神さまを「デァ ヘル」(der Herr 主)とドイツ語で書いている。それはルッターはその中にすぐキリストを思って読んでいた。さすがにルッターです。
キリストにこの福音書でぶつかって、その一言でも我々は実行できない。一番先の言葉は何ですか。
「幸いなるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」(マタイ5・3)
という。誰が及第できますか、本当に「心の貧しい」ということが我々は言えるか。みんな〔富んでいる〕自我がある。キリストは自分を告白していらっしゃるんです。彼自身が本当に心が貧しかった。自分を何ものともしなかった。だから、私はキリストのことを、
「自分を何ものともしない」
というから、
「無者」
と言っている。まだ誰もそんなことを言わないらしいね。自分が無者なんだ。何もない。ある青年がイエスに、
「善き先生」
と呼んだら、
「なぜ、私のことを善いと言うか。神さまの他に善いものはあるか」(マルコ10・18)
と。ああいう言葉に、ピシャッとぶつかって、参らなければダメですよ。「そうですか」ではない、
「参りました!」
と降参しなくては。皆さんは、今この会場はドラマですから、その中に本当に入って下さいよ。私は語りながら入るし、あなた方は聞きながら入ってくれなくては。
「今日の講演会はよかったの、わるかったの」
なんて、そんなことではないから。今は命懸けの集会です。人間の魂はそういった絶対的な何ものかに触れるまではどうにもならないように出来ている。そんな素晴らしいものなんです、我々一人びとりの魂は。
「全世界とも替えられない」(マタイ16・26)
とキリストは言われたではないですか。……(異言)……ごめん、異言がでました。
あなた方一人びとりはみな顔が違うでしょ。天下一品なんだ、誰でも。何もひとを羨むことはない。一人びとりが天下一品。神さまは類型的にはお造りにならない。個人がそうだし、社会や団体がそうだし。教会がいくらあったっていいよ。国がいくつあってもいい。いろんなイデオロギーがあったって構わない。それを、すぐ自分を絶対化して──神における絶対という、この神ということを忘れて、それを抜きにして──絶対にしているから、これが困ったものだ。そうすると、すぐ自分のイデオロギーに折伏(しゃくぶく)しなければならないと、喧嘩している。イデオロギーで平和なんか絶対にこないから、20世紀は危ないよ。
●心が砕けるか、砕けないか
私はこないだ讃美歌を15ばかり作ってしまった。そこにこういう讃美歌がある。「神を無みして」(1979/12/16作)の第6、7節、
6.幼児(おさなご)どもに国境(くにさいかい)なし/イデオロギーの限界(かぎり)を悟り/人間(ひと)に帰りて手を握り合え
7.人はもと霊止(ひと) 神仏(かみほとけ)なり/万象帰一 物心一如/万(よろ)ずの人よ 相抱(いだ)けよや
「人」とは「霊止(ひと)」、霊が止(とど)まる、神霊が止まっているのを「ひと」という。『大言海』(辞典)に書いてあります。昔の日本人はやっぱりえらいよ。「ひと」とは、神霊の止まっているのを「霊止(ひと)」というので、神霊が止まっていない、アズ・イフ(かの如き)の人間がたくさんいるわけだ。私もかつてそうだった。
「人はもと霊止(ひと) 神仏(かみほとけ)なり」
という。
「衆生(しゅじょう)悉く仏性(ぶっしょう)あり」
という。仏教だって「仏性」という。神性です。もともと人は「神の似姿」に造られている。本質的には神に同質的に造られていた。特にその点では、禅宗なんかは悟りの世界で入ろうと一生懸命でやっている。
「万象帰一 物心一如 万(よろ)ずの人よ 相抱(いだ)けよや」
と。
“Seid umschlungen Millionen! Diesen Kuß der ganzen Welt! Brüder – überm Sternenzelt muß ein lieber Vater wohnen.”
「幾百万の人々よ、相抱けよや! この接吻を普(あまね)く世界に及ぼせよ! はらからよ、──星の幕屋の彼方には愛のみ神ぞ住み給う。」
と。ベートーヴェン〔ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンLudwig van Beethoven、1770/12/16~1827/3/26〕と、シラー〔ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー Johann Christoph Friedrich von Schiller 1759/11/10~1805/5/9〕の有名な「第九シンフォニー」にもあるじゃないですか。あれを本当にその気になって歌っているのかな。年末になるとちょっと歌ったら調子がいいくらいなものではダメですよ。あれはシラー、ベートーヴェンが祈って大讃歌をやっているわけだ。とにかく、魂のこもってないようなものはみんなダメです、何をするにも。讃美歌一つ歌うにも本当に魂をこめて歌わなければ。「まずい、うまい」ではない。
そういう讃美歌が自然に出来てしまう。私は大体これを一晩で作ってしまう。一晩と言ったって、まず一時間か二時間だね、もっと早いかもしれない。湧いてくるから。
私たちは、キリストという生きた道を本当に地道に歩いて、イエス・キリストに福音書でぶつかって、そして、
「参りました!」
と降参すると、キリストに捕まる。そうすると、その力が入ってくる。だけれども、
「降参したけれども、また降参しそこなってしまった」
とかね、まぁいろいろだよ、人間というのは。ちょうどペテロみたいでね、非常にキリストに褒められたかと思ったら、
「サタンよ、退け!」
なんてやられてみたり。私たち自身がペテロなんだ。波のようなんだ。
けれどもまた、「結構だね」と言うこともある。キリストの十字架の横に十字架が二つあった。片一方のやつは非常に傲慢なやつで、
「お前は神の子なら、俺たちを救ったらいいだろう」
なんて。もう片一方は、
「どうも私は散々悪いことをしました。これは当然です。せめても御国にいらっしゃる時、私を覚えて下さい」
「お前は今日、私と一緒にパラダイスだ」(ルカ23・43)
とキリストは言った。人類を二つに分ける基準は、
「心が砕けるか、砕けないか」
のこれだけです。我々はみんな傲慢なんです、自我があるから、我執があるから。
この砕けということ。これはイザヤ書53章でそれを預言している〔「5彼はわれらの愆のために傷けられ われらの不義のために碎かれ みづから懲罰をうけてわれらに平安をあたう そのうたれし痍によりてわれらは癒されたり〕(イザヤ53・5)〕。イザヤ書53章はキリストの預言でこんな文字が一体あるかという、ナザレのイエスを知っているような文字です。彼が砕かれたことによって、我々の不義は赦された。我々の罪を負われた。
「十字架の砕け」
と申し上げるのがそのことです。一時的には私たちは砕けたり、降参したりしますけれども、本当の降参、本当の砕けは全部、キリストが十字架で引き受けてしまった。
「私を見ろ、お前にこの砕けをやるよ、この降参をやるよ」
と。神さまに降参しているんだ、キリストは。神さまの前に本当に平伏している。
「汝の御意を、どうぞ成して下さい。私ではありません」(ルカ22・42)
と。今の若い人は、とかく
「信仰なんて、意気地がない」
なんて思う。冗談いうなと。こんな電気の光が太陽の光にかなうか。無限の桁違いの光は、力は、生命はキリストが持っている。それに連結しないで勢いよくやっていても、始めは青年だから勢いがいいけれども、それは放物線みたいに終いには下方に落ちてしまう。私は76歳だけれども、上昇カーブだから。肉体は衰えるかもしれませんよ。けれども、
「内なるものは日々新なり」
とパウロが言っているとおりです。私は御霊を受けるまでは、結核の療養所なんて行くと、「伝染病が移るか」なんて思って、消毒したりマスクしたりした。けれども、この御霊が来てしまったら、こっちから〔御霊の生命が〕流れるから、相手が癩病人だろうと何だろうと、もう全然何ともなくなってしまった。使徒行伝的な不思議な事が質的には起きてくるからしょうがない。こないだも二年間耳鳴りがしてどうにもならないという人がいた。
「そうですか、ちょっとそこに坐ってください」
と、私は〔祈って按手して〕30秒ですよ、
「はいっ」
と。もう治ってしまった。上から来ますからね。
「どうしたんでしょう!?」
と言うんだ、その人は。どうしたもヘッタクレもない。キリストがなさった。
キリストの直弟子たちは、ペテロでもヨハネでもパウロでも――パウロは直弟子ではないけれども、復活のキリストに本当の直弟子にされてしまった――この十字架でもってすっ飛ばされて、そこにはどうしてもこの聖霊が来ざるを得ない。……
「われキリストと共に十字架せられたり。われ生く、されどわれにあらず。キリストわがうちに在りて生き給うなり」(ガラテヤ2・20)
とは何ですか。思って言っているんですか、パウロは。思っているのではない。
「御霊のキリストが、キリストの御霊が、私の中に本当に来てござる」
と。コリント後書11章のあの多くの苦難を突破できたのは正に聖霊の力なんです。
今のキリスト教は気がぬけてしまっているから、もう私は出てしまって孤軍です。私はひとり、孤軍だけれども、天に万軍がいる。天軍でもいい。万軍のエホバです。孤軍万軍という。パウロさんや、ペテロさんや、使徒たちが私の味方で上にいて、応援してくれるから、ちっともさびしくない。もう賑やかでしょうがない。本当ですよ。それで、
「パウロさん!」
と言うと、答えてくれるよ、もちろん。キリストを通して言いますよ、もちろん私はイエスを通して。私みたいな者は、あなた方と相対的に比較してみたって、私は一番ダメな野郎です、泣き虫の弱虫の。だから、中学時代の私を知っている人は、
「どうして小池はあんなになってしまったのか、キチガイではないか?」
なんて言う。
「神のためには狂えりなり」
とパウロが言っているとおり。ドラマ中のドラマを体現した者はパウロなんです。
●出ウル・出エジプト
イスラエルの民のアブラハムはウルを出ましたね、出ウルです。行く所を知らずして出て行った。神さまの言葉に従って、神さまの力によって。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、いわゆる始祖たち。ヤコブはイスラエル。あの創世記はおもしろいね、いくら読んでも。読んで下さいよ。ヤコブも非常にドラマチックな生涯を送った。
ヨセフは兄貴どもに妬まれて、外にやられて、エジプトに売られてしまった。ところが、このヨセフがエジプトで偉いことになった。宰相にまでなった。そして、飢饉がきて、兄さんどもがお父さんの命令を受けてエジプトにやって来た。それで「悪かった」とあやまった。ヨセフは、
「あなた方ではない。神さまが私をここに遣わしたんだ」
と言う。全部、神の言、力によって彼らは動いていた。これがこの信仰史なんです。それから約300年後、紀元前1275年あたりに、モーセが出エジプトをやった。これが大変なことです。モーセは、
「私にはそんなことはできません」
と。その通り、モーセにはできっこない。けれども、神さまは
「私がお前と一緒にいる。これが印だ。行け!」
「はい! そうですか」
とモーセは言う、「はい」と。
この頃の若い人たちは「はい」となかなか言わないので困る──私たちは小さい時から「はい」ということをハッキリ言わせられた──「でも」なんて言って、デモ行進ばっかりやっている、「でも、こうじゃありませんか」なんて。
「はい」と言うのが、これが信仰なんです。神を信ずるとは、神に対して「然(しか)り」と言い、己に対して「否(いな)」と言うことです。プラスとマイナス、これは放電する。霊的に放電する。自分を生かしているうちはダメですよ、自分を否定していかなければ。これは否定道です。信仰は否定道なんです。否定道のドラマなんです。イエス自身がそうだった。
「わが意(こころ)ではない。あなたの御意(みこころ)をどうぞ成して下さい」(ルカ22・42)
と、傍観していない。「どうぞ成して下さい」と言って、挺身している。自分を明け渡している。
「どうぞ、私をお使い下さい」
と。神さまは主だから、キリストは神さまの僕。「エホバの僕」というあのイザヤ書の預言をキリストは自ら行ぜられた。存在的にはキリストは「僕」である。本質的には「子」である。子にして僕である。ただ「神の子だ」なんて、いい気になっているのではない。本当に僕でなければ、神の子にはなれない。神の意志を百パーセントに受けとって行った。
それで、十字架なんか本当は背負いたくなかったんだ、キリストは。彼は神さまの意志を全部、全く行じて体現しましたから。「義人」とは神の意志を、神の命令を全部「はい」と言って行ずる者を義人という。そういう
「義人はひとりだになし」
とパウロが言っているとおり、詩篇53篇にもあるとおり。義人というのは、何か正義とかいうのではない。神さまを「然り」と言って動くのを「義」という。これはもう聖書を貫いている。創世記から黙示録まで。義というのは非常に力強い、内容の凄い言葉です。観念ではないですよ。みんな観念化してしまうから困る。キリストの歩き方はみな義なんです。神さまに従っている。自分が本当に自分の意志に死んでしまう。
ところが、相手が神さまですから、この僕が本当の「自由」を持つ。絶対的な自由を持つ。自己に囚われてないからね。自己に囚われているかぎり、いくら「自由、自由」なんて言っても、そんなものはちっとも自由ではない。そういうのは勝手気ままというんです。「民主主義」なんていっても、これは勝手気まま主義だ、日本人が普通言っている民主主義は。民主の上に神主がないから。神主(しんしゅ)というのがないから。それで「民主、民主」なんて、神さまが抜けているから。ダメですよ、そんな民主は。
「宗教は人の最も重要なる関心事である」
と、多分、ミルトン〔ジョン・ミルトン John Milton 1608/12/9~1674/11/10〕の言った言葉です。
今、日本は非常におかしな事態になっている。こんな民主主義だったら、引っくり返るね。私は教育界にいたけれども、ダメだな。日本人の在り方の、やっぱり一番の責任者は教育者です。私もそういう教育の責任を担ってきましたけれども、失敗だらけです。結果は出てこない。結果が出てこなくてもしょうがないよ、言うだけのことは言ってきたつもりだけれども。だから、時々あとから、
「やっぱり、先生の言ったことは本当だ」
なんて言ってくるのがあるけれども。
「レリギオ(Religio)」「宗教(Religion)」というのは、再び結ぶという「再結」。宗教というのは本来「再結」という意味です。再結は人の最も重要なる関心事である。「コンサーン(concern)」「関心事」の「関心」はまだ薄かったことに昨日気がついた。心より身の方がいい。「関身事」、身に関わる事なんです。
キリストは洗足をされたとき(ヨハネ13・5)、
「お前の足をきれいにしよう」
なんていって、やっているのではない。キリストは黙って洗って下さる。それが関わりなんです。身に関わってきた。存在に関わってきた。宗教は全存在に関わることである。「コンサーン」「インタレッセ(Interesse)」というのは全存在的な関わりのことです。
実は、学問でもいろんな仕事でも結局は全存在的な関わりなんですよ。ただ頭ではない。ただ手でもない。その全存在的な関わりの一番根底となるものは、実は神さまを相手にすることです。
仏教なら、如来の世界です。いいよ、如来だって。京都は偉大な坊さんを輩出したところだ。どっちにしろ本ものになって下さい。
「キリスト教は、あの十字架なんてものは、私はあまり好きではないから、仏教で行きます」
なんて。ああ結構です。私は宗派争いなんか絶対にしない。向こうでキリストとお釈迦さんはなにも喧嘩してませんから。
ただ、私にはやりきれないです、このキリストは宇宙的なひとだから。カトリックでもプロテスタントでも何々教会でもいいですよ。問題はそこで
「本ものをつかんでいるか」
ということだけなんです。礼拝の仕方とか信仰箇条とか、どうだっていいですよ、そんなものは。みんな相対的なものだから。
「問題はその相対の奥に絶対があるか、絶対なものがきているか。キリストが本当に生きているか、御霊がきているか」
と、結局、聖霊です。
私はいろんなものを読みますよ、ドイツ語のものも何でも、神学書も読んでいる──今度は私は『無の神学』(著作集第3巻 1982/5刊)を書くけれども──どうしても抜けているんです、一つ、聖霊の事態が本当に。彼らは体験していないから。「について」語っているうちはダメなんです、「の中から」ものを言わなければ。「について」いくら百点満点の答案を書いたってダメなんです、その中からでなくては。
本当はもう書けないんです、白紙で出したらいいんだ、本当の答案は。そこに無限の文字がある。それくらいの絶言絶慮なんです、最後は。もう何とも表現できないです、イエスというひとは。だから、私は『無の神学』を書いたら、ちょっとこれ正直、世界におそらくないものが出来上がるのではないかと思っています。
「まぁ何だ、こんなデタラメなことを言って」
なんて。デタラメでも何もない。本当はデタラメではない。
●有機体的でドラマチックな神学
出エジプトをして、モーセが神さまから律法をもらいました。モーセの律法。あれは「十誡」というけれども、「十言」なんです。十の言葉。誡命ではない。神の断言命法です。
「汝、殺すなかれ」
ではない。
「汝は殺人はせじ、殺人はせず」
というヘブライ語です。やっとこの頃、学者も気がついてきたようだけれども、私は本当はもっと前から気がついていた。「殺人はせず」と神さまから信じかかっているんです。
大体、「信仰」なんていうけれども、あの「信」は本当は上からきている。イスラエルの民を信じこんできている。「信ずる」ことと「愛する」こととは一つなんです。「信愛」という言葉があるように。それに応えないから、それが「不信」なんです。
律法なんて本当は命令ではない。信じかかって、
「私がお前の神さまだから、お前は悪いことはしないね」
「はいっ」
と。そういうところなんです。それを、悪いことをするから困ったもんだ。
先生は生徒に「勉強しろ」と言わずに、
「よく勉強するね」
と言うと、勉強していないやつは、
「これは悪かった、勉強しよう」
と思う。「勉強しろ」と言うと、「少し怠けてやろう」ということになる。
「律法は罪を刺激する」
とパウロが言っているとおり。
そういう信の世界、上から来ている信です。上から来ている信、上から来ている愛、これを仏教的にいうと「本願」です。本願がかかっている。私は親鸞の『歎異抄』は大好きだね。凄いね『歎異抄』というのは。こないだまで生きていた、世界の最大の神学者バルト〔カール・バルト Karl Barth 1886/5/10~1968/1/10〕があの『歎異抄』を独訳で読んで、びっくりしている。
「東洋にはこんな素晴らしい信仰があるか」
と。日本人は一番凄い信仰が持てるような素質を持っていますよ。キリスト教神学もある程度生き詰まっている。「組織神学」ではないですよ。「有機体的でドラマチックな神学」「オルガーニッシェ ウント ドラマーテッシェ テオロギー」(organische und dramatische Theologie)なんてまだ誰も言わないけれども。そういうようなもので在らざるを得ない。神さまの真理なんてものは、私たちが組織立てることができるかと言うんだ。
今、私は何を皆さんに言おうとしているかというと、「出、出、出」とあるでしょ。「出る」んです、みんな。それからこの旧約の歴史はずっときまして、イスラエルの国は、士師時代のあとで、サウロ・タビデ・ソロモンという三代の単立王朝時代があって、ソロモンから後は二つのイスラエルとユダの国に、南北朝に分かれました。そして、紀元前721年にアッシリヤにイスラエルが亡ぼされ、586年あるいは587年にユダがバビロニヤに亡ぼされる。イスラエルとユダの国が滅びたのは、不信に対する神さまの審判なんです。その審判の手下となったのが、アッシリヤとバビロニヤの国です。どっちも悪い国なんだけれども仕方がない。神さまがそれを使った。イスラエルもユダも滅びてしまって、バビロニヤ捕囚となって、50年捕囚されてから、ペルシヤ王のクロスが捕囚された人たちをエルサレムに帰した。これが出バビロニヤです。出エジプトは奴隷状態、艱難から解放された。こっちは罪の罰を受けた、それからの解放です。出エジプトと出バビロニヤというのは、そういったような歴史的な意味を持っている。
そして、出バビロニヤの時に出たのが、さっき申し上げたイザヤ、特に第二イザヤ。それから、イスラエルは神殿宗教時代が555年からずっとくる。そしてキリストのところまでくるわけですけれども、非常に律法的な祭儀的な宗教になってしまった。そこで、硬化現象が起きた頃にイエスが現れたわけです。
イエスが現れる時に、その前に洗礼のヨハネが現れて、みんなに
「悔改めろ、今の在り方はとんでもない」
と。イエスもやって来た。ヨハネは、
「なぜ、あんたは私のところ来ますか? あんたは私から洗礼を受けるような人ではない」
「いや、そうじゃない。私は今、正しいことをやるんだから」(マタイ3・15)
と、キリストは洗礼を受けながら、我々の罪の悔改めを自分で引き受けて下さった。そして、水から上がってきたらば、聖霊が鳩の如く臨んで来た。彼にとってはこの受洗は、悔改めと聖霊のバプテスマを一つにしてやってしまった。イエスはもともと神の子ですから、もともと霊的な人物には相違ない。ハッキリとそこでもって御霊の権威をもって動き出したら、サタンの誘惑が来て、それと一騎討ちして勝った。これもキリストは――聖霊が彼に充満していましたが――自分は霊的な男だといって霊を私しない。どこまでも神さまを崇めながら、神において戦った。これがキリストの戦いの勝利のわけです。そして、伝道を始めて、ケタ違いのことをマタイ・マル・ルカ・ヨハネの福音書で言ってらっしゃるわけだ。またその業(わざ)は――あれは奇跡ではないですよ、キリストのなさっていることは――全部、霊法が、霊的法則が、活ける霊法が働いている。
「生命(いのち)の御霊(みたま)の法(のり)」
とパウロがローマ書8章2節で言っているとおり。聖霊と神の言の権化たるところのキリストが伝道をハッキリなさって、そして、
「お前たちを本当は救ってやりたいんだけれども、救うわけにいかんよ。今、私のすることにお前たちは躓く。わからない。けれども、今にお前たちを本当に集めるぞ。人をすなどる人にしてやるぞ」
と。あのキリストのやっていることは全部、徴ですよ。本当の神の国の本質の徴をみんなやっている。
「ユダヤ人は徴(しるし)を求める」
というが、キリストは本当の徴を現した。ただし、徴を徴とすると御利益(ごりやく)になる。
「病を癒された、ありがたい」
といって、それだけに気持が傾いていると、それは御利益宗教です。それを通してキリストに本当に捕まるか。キリストとの交わりの生活を始めるか。そこなんです、問題は。現象は、「それはおかしい」というのも観念になってしまう。今度は、現象に囚われると御利益宗教になる。本当の福音はそこを通って根源の現実の中に入っていくことです。どうせ私たちの現実は相対的な現実で、滑ったり転んだり、いろいろに歪んでいるんだ、人間の社会というのは。それ自身すぐ良くはなりはしない。けれども、その奥に本当に神に在って祈っていることは、根源の現実で聴かれている。必ず歴史の終わりにそれが、あるいは天界に現れる。
そういうことで、
「私はお前たちに与えたいんだが、まだ与えるわけにいかない。我に受くべきバプテスマあり。この火燃えたらんにはまた何をか要せん」(ルカ12・49)
と。「この火燃えたらんには」というのは聖霊の火のことです。「受くべきバプテスマ」というのは十字架のことです。
「十字架の贖罪の大業を終わったら、お前たちの罪は完全に私は引き受けるから、もう心配するな。お前たちの過去も現在も未来も、地上の生涯のこんな相対的なものは、自分なんてものは見るな」
と。……(内村鑑三の話省略)……皆さんも、私のドラマチックな話の中で、ドラマチックになりましたか。
それで、祈って待っていたら、臨んできたのが使徒行伝2章に出ているところの聖霊の降臨です。そうしたら、「何かおかしいな?」と言うやつがいる。
「おかしいのではないよ」
とペテロがハッキリ言った。地上にいたキリストと直結していたペテロと、キリストが十字架を通って天界から約束の霊を与えて下さったこのペテロとは、ガラリ変わってしまった。……乞食が「何かくれるか」と思ったら、ペテロは
「そうじゃないよ、私には何もないけれども、私の中にあるものを与える。キリストの御名にあって歩め」(使徒行伝3・6)
と。そして、この跛者が立ってしまったら、今度は、ペテロを神さまみたいにしてみんなが拝もうとしたから、
「私の信仰でも、私の敬虔でもない。そんなものがこの跛者を立たしたのではない。ナザレのイエス・キリストがなしたんだ」
と彼は言った。その前にペテロは、
「我を見よ」
と言いながら今度は、
「なぜ、私を見るか」
と言った。「我を見よ」というのは、
「わがうちなるキリストを見よ」
ということ。そして今度は、人間ペテロを見たから、
「なぜ、私を見るか。見方がちがうぞ」
と。あれが本当の信仰の世界です。
●神の根源語を受けとる
使徒行伝は、私はいわゆる無教会時代にはわからないんだ、不思議なことばかり書いてあって。けれども、この聖霊がきたら、なるほどこれはみんな本もので、もう文字が呻いている。皆さん、ギリシア語でもヘブライ語でも日本語でも、何語でもないですよ。神の根源語を、響きを受けとるまではダメなんです、この聖書は。いろいろな万国の言葉の奥に――何語訳があったっていいよ――けれども、この神の根源語を受けとることです。
「音楽は世界語」
〔「音楽は世界語であり翻訳の必要がない。そこにおいては魂が魂に話し掛けている。」バッハ〕
というでしょ。そのように神の根源語が聖書の奥にある。これはたまたまヘブライ語だ。
「ギリシア語が聖書の原文だ」
なんて、そうじゃないよ。それは相対的には原文かもしれない。けれども、キリストや弟子たちが語ったのはヘブライ語の方言のアラミ語だからね。それをギリシア語にただ直して書いただけの話。だから、あれは間違えたね、
「死者は死者をして葬らしめよ」(マタイ8・22)
というのは。何かいろいろ理屈をつけて解釈しているよ。あれはそうじゃないんだ。
「死者〔ミッタ〕は葬儀屋〔マッタ〕にまかせよ。お前は神の国を伝えよ」
と。「ミッタ(死者)」と「マッタ(葬儀屋)」とを間違えて、しまったということになった。……。アラミ語の奥の、神さまの本当の根源語の響きをつかむ。仏教の偉大な坊さんもやっぱりそういう角度からお経を読んでいた。華厳経とか法華経なんていうのは素晴らしいらしいね、もっと私は勉強したいんだけれども。
いいですか、少し誤訳なんかあったっていいんですよ。私は大胆な訳を、そのうちに時間でもあったら、やりたいと思っているくらいだ。私の『詩篇』〔著作集第4巻『詩篇珠玉集』1980/1刊〕はかなりその角度からやっているつもりですけれども。
マルチン・ルターが言ったですよ。あんなに「神の言」ということを尊重したルッターが、あるところで何と言っているかというと、
「聖書の言葉は壊れたかけらみたいだ。神さまの言葉はこんなものに載りきれはしないんだ」
と、面白いことを言っている。さすがにルッターだと思った。プロテスタントは、神の「御言、御言」と言って、金科玉条にしている。それは、
「儀文は殺し、霊は活かす」
の、「儀文」にしてしまっている。観念信仰だと、そういうことになる。
ところが、聖霊がくると、決して主観ではない。もうもの凄くその奥が読める。
「そうだ、お前はよく読んでくれた」
と、パウロは言ってますよ、上で。パウロだって私は七面倒くさくしょうがない。相当ユダヤ的な論理があるからね、あそこのところには。
それで、聖霊が来て、彼らが本当の救いの世界に入った。もう死んでも死なないところに来た。ところが、パウロはそのペンテコステの中にいないんだ。信じている者を逆に迫害していた。サウロはユダヤ教のチャンピオンで、パリサイ中のパリサイだから。律法を拳拳服膺して、
「律法の義については責むべきところなし」
と威張っていたやつだから。ところが、この復活のキリストがダマスコ途上で彼を引っくり返した。これが本当にドラマなんです。これくらい個人的な引っくり返りの凄いドラマはないですよ、パウロ以上の。そうでしょ。あの使徒行伝9章を読んで、いい加減に読めないですよ、このパウロさんが引っくり返されるところは。復活のキリストに、
「何ぞ、我を迫害するか!」
とやられた。もう三日三晩、目が見えず、耳が聞こえず、ものが言えず。連れて行かれて、アナニヤによって――ちゃんともうアナニヤに示されている――按手された。
今、「按手礼」というのがあるけれども、ダメですよ、牧師さんが本当に聖霊を受けていなければ按手なんかしてはいけないんだ、本当は。特別集会で私が手を按くと、引っくり返ったりするからね。ガラリ変わる。
「いやぁ、これは本当だ!」
という。
私はいきなり天界から受けとったんです、祈っているうちに。手島さんもそう。だから、1950年11月3日、これは私のペンテコステ。もう全身がしびれた。そして私は坐っていたのが、どれくらいか知らんけれども、グーッと空中に上がってしまった。帰りの汽車の中で聖書を読んだら、まぁ今まで一体何を読んでいたかと。ベールが取れてしまったからね。ええ。本当ですよ。皆さん、頭で読んでいたらダメですよ、からだで読んで下さいよ、からだで。
日蓮さんが佐渡に流される前に言ったではないですか。
「頭で法華経を読むのは沢山いる。心で読むのは少ないが、お前は身(からだ)で読めよ」
と言った。さすがは日蓮です。法華経が日蓮には化体しているから、彼が
「南無妙法蓮華経!」
称えば、龍之口で斬ろうとしたやつがぶったおれてしまう。もう本当ですよ。その通り。禅宗の坊さんでも、衣鉢を奪おうとしたら、取ろうとした手が動けなくなった。禅宗の第五祖になったあの米つき小僧は凄いやつだ。
●十字架の土台に聖霊が
今は、原子力というのが物理の世界にあるけれども、キリストの「原始力」を、原始(はじめ)の力をいただいて下さいよ。これは聖霊なんです。十字架は、キリストが
「我は門なり」(ヨハネ10・9)
というから、私は門構えに十の字を、「門」の中に「十」を書く──そういう漢字はないよ、私が作ったんだから──キリストが「我は門なり」と仰ったから、必ずそこに「十」の字を書く。そういう活字がないからしょうがないけれども。十字架という門に体当たりする。
「門を叩け」
と言うから、からだで叩くんですよ、手で叩いたってダメです。体(からだ)で叩いてぶっ倒れると、門が開ける。「いや実は開かれていた」というくらいなもんです。そして、狭き門を通って先へ進むと、その先は無限無量に広い、詩篇23篇のごときところ、
「緑の牧場、憩いの汀(みぎわ)」
に来る。それはもう聖霊の世界です。
本当に十字架を瞑想してその中に自分を投げ込めば──あるがままの自分を本当に投げ込んでごらんなさい──聖霊は来るから。今、あなた方はここで聞きながらでも、いくらでも来ます。私はある教会でしゃべっていたら、5、6人がしびれてしまったよ。びっくりしてしまってね、「どうしたんだろう?」と。しゃべっているうちに、しびれてしまった。御霊の力がはたらいているから。
どうも、今のキリスト教界も、仏教の世界でも、本当の根源の現実からずれてしまっているから、これは元へ戻さなければダメです。元に帰ることが本当の前進なんです、原始に帰ることが。カトリックだの、プロテスタントだのと、どっちでもいいよ、そんなことは。使徒たちと同質の世界に帰らなくては。だから、私は
「使徒的信仰」
とハッキリ言っている。これは私が主観でもってものを言っていたら、そんな力はありはしないです。第一、皆さんに申し訳ないですよ、偽りになるから。
パウロはダマスコ途上で引っくり返されて、自分は今まで自分を義としていたが、
「己を義としていたのはとんでもない、今度はキリストの義をいただきます」
ということになった。キリストは本当に律法以上の世界に入って――実は律法は隠れたる福音であったが──露(あらわ)なる福音としてキリストが現して下さった。そのイエス・キリストにパウロは直結した。だから、
「私はキリストのうちに、キリストは私のうちに」
と、彼の書簡の中に164回書いてあるそうだよ。
「われ汝の中に、汝わが中に」
という、この角度です。
「信仰」の「仰」の字は「交」と書かなくてはダメです。「信交」です。そしてキリストの中に信入する、信じ入る。祈り入る、祈入する。帰入、帰り入る。「帰入帰依」という言葉があるが、「南無阿弥陀仏」の「南無」という字はそういう意味だ。だから、私は
「南無キリスト」
とも言う。キリストの中に自分を南無する、帰入する。仏教には素晴らしい言葉があるから、私はどんどん使う。仏教であろうと、何教であろうと、およそ偽りでないものは全部、包摂してしまうですよ、福音は。
「何だ、あれは混淆宗教(シンクレティズム syncretism)ではないか!?」
なんて。冗談言うなと。キリストは、宇宙的なキリストの福音は、全部これを包摂していく。もの凄いです。
「父の全きが如く全かれ」
というのはそういう世界です。
「無限なれ、無量なれ、無即無限無量なれ」
と。キリストの十字架でもって、私はもう自分なんて無くなってしまったからね、無者なんだ。キリストの無者なんだ。恩寵の無者ですよ。自分で悟って無者なんかになったのではない。相変わらず人間小池はダメだよ、しょうがない野郎だ、罪びとに過ぎませんよ。けれども、この罪びとの奥に無者という、もうひとつ奥の根源の現実をいただいている。そうしたら、そこの無者というところには無限無量者というものが同時に来ている。十字架と聖霊は分けるわけにいかないんです。これをハッキリ言っている本がほとんどないね。
もし出来るなら、キリストはいきなりペテロたちに聖霊を与えたわけですよ。ところが、
「私がこの十字架にかかって贖罪をするまでは、お前たちに聖霊をやるわけにいかないんだ」
と。だから、十字架が土台じゃないですか。本当の土台を受けとったら、聖霊は来ざるを得ないじゃないですか。
祈らなければダメですよ。「祈る」というのは自分を投げ入れることです。何かお願いすることではないですよ、祈りというのは。投げ入れてから、いくらでもお願いして下さい。大事なのは、まずキリストの中に自分を投げ入れなければダメです。どんな苦しいことにでっくわし、生き詰まっても、その対象をいきなり祈ってはダメ。まずキリストの中に入って下さい。そうしたら、その困ったことに対するもの凄い力が逆に出てくる、「どうにでもなれ」と。開示して下さるんです。だから、
「今日は、精神状態がちょっとうまくない、スランプだ、からだの具合が悪い」
とかいう時には、私の集会に来なさいよ、来たら治ってしまうから。「治る」というのは、現象的に治すのではない。魂の世界から根源的に治る。もったいないですよ、キリストは無条件にあなた方にもの凄いものを与えようとしているのに、
「そればっかりは要りません」
とやっているのだから。そして、いわゆる文化文明でもってやっているのだから。しまいにはくたびれてしまって、何かにぶつかると、やけくそになったりする。決まっているんだよな。どんな偉そうな人でも、おしまいはダメですよ、それは本当に。……(異言)……困るです、私は異言が出て。
「いや、その頃は異言もあったでしょう。その頃はそういう使徒行伝みたいなことがあったでしょうが、今はそうではない」
なんて、何を言っているかと、今の牧師さんたちは。今も生きてありたもうキリストはどこが違うんですか。
もう世界は、こんなことをしていたら本当に、神に背いていたら、それはいつか
「羔(こひつじ)の怒り」
が来るよ、黙示録に書いてある通り。恐ろしいよ、この黙示録のお終いの方は。今は一番本当は読まなくていかんのは黙示録なんです、この20世紀は。大政治家ならば、本当の大宗教家が、この大信仰をその政治家が持ったならば――カーターはちょっと神経質だね、キリスト教ならもっと凄くやらなくては、そしてブレジネフと握手したらいいよ──
「もうよそうじゃないか、本当に」
と。我々は同じ人間で、お互いに有無相通じて、それぞれのイデオロギーも尊重しながら、「ああ、結構です」と。イデオロギーであろうと、学問であろうと、何でも本当にそれを行使することのできるのは、この御霊の現実に入って、神の智慧の中に入った人です。
これはパウロが本当にした。まぁパウロなんてのは本当に凄いやつです。だから、キリストはパウロを引っくり返したんです。劇的な大転回をさせた。キリストを除いては、パウロだけの人は本当に世界中になかったですよ。大変なやつです、このパウロというのは、この手紙は。彼はもう手紙の中で叫んでいる。叫び呻いている。
とにかく、ソ連が恐いのでも何でもない。原子爆弾が恐いのでも何でもない。人間の心なんです。サタンに囚われているところの人間の心が悪魔の手下になっている。
「剣(つるぎ)を執(と)れば 剣に亡ぶ」
と。これも私の讃美歌にある〔「神を無みして」(1979/12/16作)〕。
「時は来(きた)れり 大和島根の/民の在り方 神に問われん。
心おごれる 昭和元禄/混濁の世は いずこへゆくや。」
これは讃美歌だよ、「きけよやひびく」の歌調でうたえる〔「時は来れり」1979/12/7 作〕。
●即如の世界
皆さん、本当にね、即如の世界に入らなかったら、もう信仰はやめた方がいいくらいですよ。即如、一如、これはみんな仏教の言葉です。いい言葉だね。
「われキリストのうちに、キリストわがうちに」
というこの世界は御霊において初めて本ものになる。何でもないですよ、本当に十字架に平伏しなさい。そして、自分がすっ飛ばされることを本当に受けとってごらんなさいよ、
「もう、自分なんか問題ではない」
と。もうウワーッと来るから、聖霊が。そうしたら、
「何かしらんが、これは変わった、ちがう。相対的人間小池は相変わらずダメな野郎だけれども、絶対的なものが上から来ている」
と。これはルッターが、
「義人にして罪びとである」
という、二律背反のことを言った。矛盾構造です。そのとおり。けれども、その義人がこの罪びとをどこまでも引っ張り回しながら進んでいく。これはキリストの力、聖霊の力だから、しょうがないです、誰が何と言おうと。
「絶対矛盾の自己同一」〔註:西田幾多郎が1939年に発表した論文のタイトル〕
という。さっきのは否定道であり、また矛盾道である。キリストは「道」と言うけれども、その道の内容は凄いんだから。道というと、もうひとつ、逆理道ということが言える。何ですか、その逆理道とは。
「右の手のすることを左の手に知らすな」(マタイ6・3)
という。どういうことですか。右、左という相対的なものがあるが、ありながら、「右だけ」という。これを逆理という。左はもう意識の中にない。白隠の「隻手(せきしゅ)の音」という。両手を打てば〔拍手の〕音が出る。片一方の手だけで、この隻手の音が聞こえるかと。
「闇の夜に鳴かぬ烏(からす)の声きけば生まれぬさきの父をしぞ思う」
という。闇の夜に鳴かぬ烏の声が聞こえるか、それを聞けばと。
「語らず言わずその声聞こえざるにその響きは全地にあまねし」
という詩篇19篇にあるではないですか。霊の耳をもって聞き、霊の目をもって見る。ありがたいですよ、聖霊の智慧は。
コリント前書の1章は素晴らしいところだ。さすがにパウロです。
「無き〔が如き〕者を」(コリント前1・27)
とあそこにある。「タ メー オンタ」という字。「無き者」にこそ働くんです、キリストは。その無き者は、「なかなか成れません」ではないですよ。十字架が私たちを無き者にして下さった。私の無い者にして下さったんだから、十字架というこの恩寵が。
「みんな引き受けたよ」
「そうですか」
と。もうそれで、……(異言)……それでもう私たちは御霊が来てしまってしょうがないじゃないですか。どうしてそれを百パーセントに受けとらないんですか。何考えているんですか。
私なんかね、まぁ50歳になってやっとその境地に入ったんだけれども、今ここで聞いている20や30代の人たちは遠慮なくその世界に入りなさいよ。凄いことになるから。勉強をしようが、仕事をしようが、もう創造的な人になる。何をしても。女の方でもそうですよ、裁縫をしようが、台所をしようが。神は創造の神ではないですか。湧いてきてしょうがない。
日本人は素質がいいんだよ。なかなかいい素質を持っている。惜しいのは、最後の一番深いところだけ欠いている。これは本当に惜しい。何ですか、今はマンガが氾濫して、コマーシャリズムに引っ張り回されてしまっている。テレビのチャンネルは12チャンネルまであって、あんなのを見ていたら、一日中何もできやしない。次から次へと面白くできているものだから。野球王国でね、勝ったの負けたのと。本当にこれは自覚しないとね。
文部省なんてのは、司法省と同じように別格にしなければダメです。政党が変わるごとに文部大臣が変わって、どうするんですか、日本の教育は。本当に哲学的宗教的な人物を文部大臣にしなければ。……(天野貞祐氏(1884/9/30~1980/3/6)の話省略)……
●聖霊の幕屋・キリストの幕屋・神の幕屋
「幕屋」ということを言い出したのは私なんですが、「教会」でも何でもいいですよ。
a、b、cの三角形、これは複数の一番簡単な人数です。
「二、三人わが名によりて集まるところに我もあり」(マタイ18・20)
という。「我はあり」なんだ、あれは。この〔底面abcの〕三角錐体の大黒柱〔垂線〕は、神・キリストという大黒柱。そうすると、この空間の中には聖霊が満ちている。これが本当の教会です。私は「召団」と言ったり、「幕屋」と言ったりしているけれども、「教会」だって何だっていいです。「キルヘ(Kirche)」とか「チャーチ(church)」というのはもともと「主のもの」(エクレシヤ)という意味だ。「主のもの」というような、本当に聖霊が宿っていなければ、本当の教会ではない。ブルンナー〔エミール・ブルンナー Emil Brunner 1889/12/23~1966/4/6〕という神学者が書いた『教会の誤解』というのはとてもいい本です。一般の教会の悪口になるものだから、教会の人はあまり読まないようだけれども、ダメですよ。
「ああ、いいことを言ってくれたな」
と言って、敬意を表しなくては。
この「悪の幕屋」の全体が本当に「御霊の幕屋」に引っくり返らなくてはダメだけれども、これはほとんど望みなし。けれども、このキリストの十字架でもって、この世はとにかく支えられている。天界へ往く時には何も持っていくわけにいかない。十字架の門を通って行かなくては。
「我は十字架せられたり。もはや生きるにあらず、キリストわがうちにありて生きるなり」(ガラテヤ2・20)
と告白される、御霊の世界に入るとここへ、天界に入っていく。
しかし、天界にはどういう人が行くか知りませんよ。キリストの「キ」の字も知らない人も、神さまから見ると、行ける。私なんかキリストに、
「ちょっとお前はさきに地獄へ行ってから来い」
と言われるかもしれない(笑)。誰も人のことは分からん。自分自身のことも分からん。とにかくしかし、救われていることの確かさは、十字架と聖霊を受けたことにおいてある。しかし、私の相対的人間小池の実存を問われたら、神さまは、
「もうちょっと後(あと)煉獄に入ってから、入れてやる」
と、そんなことかもしれない。「前(まえ)煉獄」というのは、キリスト以前を前煉獄という――こんな言葉は私が勝手に作った――キリストが出てからのが後煉獄という。どっちにしろ、こっちにはこの門を通って行かなければ行けない。これは「仮天国」です、パラダイスは。最後の審判がきてから、これが「神の幕屋」の、黙示録21章以後の「新天新地」、永遠の「神の国」へ。これは図表ですから、図表でこう表したわけです。その時に、下の方で「第二の死」がくる。これは本地獄だから。ここに入れられたお終いだ。こっちは仮地獄だ。
いいですか。次の世界に行った人がこっちだか、あっちだか知らないけれども、祈ってやることが大事なんです、特に命日には。自殺なんかした人はやっぱりその時刻に出てくるだろ。あの霊の世界は妙なものだね。丑三つ時に幽霊が現れたりする。幽霊が現れたら、恐がってはいかんですよ、
「どうなさいましたか?」
と(笑)。そして祈ってあげる。そうすると消えていくから。私は本当にそれを一遍やりたいんだけれども(笑)。本当ですよ。そういうわけで、もう恐いものはないんです。……天界と地界は続いていますから、いつもキリストにある祈りでもって、向こう側に行った人のために祈る。心配ではないですよ、祈ってあげる。そうすると、こちら(天界)でだんだん上へ上がっていく。それから成長していくんです、霊体を着せられて。もう私はそのことをある事実でもってちゃんと知っている。だから、決して悲しんではいかんですよ。その次のことをここで祈る。だから、祈りというのは大変な世界です。電波よりかもっと霊波の世界だから。
それで、いろんな教会がたくさんありますが、それが「聖霊の幕屋」という本質を持てば、これが本当の全体としてキリストのからだとしての「キリストの幕屋」です。それがやがて「神の幕屋」でもって最後にできる。聖霊の幕屋、キリストの幕屋、神の幕屋という、こういう歴史的な展開をしていきます。
預言者はそれぞれ音信をいただいて、彼らは本当に実存そのものをもって預言していった。その預言が全部、キリストに集中します。ガリラヤ湖のようなキリストに全部、この預言は、彼らの言葉は期せずしてキリストに集中しています。それからキリストから今度は使徒たちを通って流れる。キリストというガリラヤ湖は大変な湖です。それで、限りなく私たちから生命の泉が湧き出ていく。
こういう話がある。エジプトのザイスという所に、ある日お師匠さんと弟子が行った。そこに白布に覆われた大きな象があった。
「一体この象は何か?」
と弟子が聞いたら、お師匠さんが
「それは真理だ」
と言う。弟子は、
「そうか、その真理という象を私は見たいな」
と。けれども、お師匠さんは言った、
「神自らがこのベールを脱がせて人に示すまでは、これを取ってはいかん。もし自分でそれを取ったら、どういうことになるか知らんよ」
と。ところが、その夜になって、この弟子は象を見たくてしょうがないものだから、そっと取って覗いた。そしたら、翌朝、彼はそこに倒れて死んでいた。そういう話がある。ということは、何を表しているかというと、
「本当の真理は啓示による」
ということです。上からの示し、上からの掴みかかり。聖書の世界はそういう啓示の世界なんです。啓示の宗教である。その啓示の一番の中心はイエス・キリストが神の啓示の一番の中心です。その啓示が歴史的に来ているのがこの預言者たち。それからキリストのあとの使徒たち。それから歴代の今日に至るまでの本当のクリスチャンたち。
「我は真理なり」
とキリストが言われたのは、正に啓示の真理なんです。神の露(あらわ)なる真理。福音書に来て、
「こんなことがありますか?」
ではない。降参して下さいよ。そうしたら、キリストにつかまれるから。もうたまらんですよ、ええ。「分かるの分からないの」なんていう世界ではないということに早く気がついて下さい。おしまい。
●祈り
では祈ります。聖書という驚くべき生ける文字、このドラマを通して、私たちにじかじかに今迫って下さった主さま、感謝いたします。私たちは何でも全身をもってぶつかっていかなければ、本ものにならないことを知ります。どうぞ、 頭でも手足でもなければ、全身をもってあなたにぶつかって、イエス・キリストの特に中心であるところのマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書に本当に読み入ります。また、祈り入ります。自分を投げ入れます。そして、あなたにぶっ倒されることによって本当に立たされることを信じます。
あなたは本当にどうにもならない私たちのために十字架にかかって下さいました。
「もう何も心配要らん」
と。ありがとうございます。そして、本当にパウロと共に私はあなたの十字架に十字架せられて、もはや生きておりません。しかしながら、あなたが泥だらけの私たちの中に入って、そしてこれを活かし、光を与え、内側から本当に生命を与え、愛を与え、一切に対して驚くべき力を与えて下さることを感謝いたします。
「敵を愛せよ」
と。愛せます。何となれば、あなたの力が、あなたの愛がそれをするからです。私たちの祈りは決して空しくないことを知ります。
「本当に生き甲斐があるということは、あなたをいただいて生きることである」
ということをいよいよ身をもって一日一日と体現していくことができますように願い奉ります。どんな運命環境にあっても、いやいろんなことに遭えばあうほど、逆に力が入っていき、本当にこれが驚くべきあなたの道であることを知ります。もはや相対的な判断は乗り越えて、なんと素晴らしい根源の現実か。あなたを讃え奉ります。
「御国を来らせ給え」
とは、既に御国は来ているからです。
「幸いなるかな、汝、わが十字架によって霊が本当に貧しくされた者よ、天国即ち聖霊の我、なんじのうちにあり」
と、あなたは言って下さるから感謝であります。
すべてあなたの御言は驚くべき恩恵の言葉として、私たちはこれを受けとってその現実に入って参ります。もはや死んでも死なないような生命が私たちの中に来て、これを人に与え、苦しめる者、悲しめる者、求める者、悩める者に、これを分かち与えて行かざるを得ません。一人びとりが本当の伝道者です。どうぞ、この道を伝えるところにあなたの生命が限りなく流れてくることをいよいよ体験していくことができますように願い奉ります。
今日来られたこの兄弟姉妹たちはみなそれぞれいろいろな課題を持ち、またいろいろな人をその友人や家族に持っていますが、どうぞ、一人びとりが本当に根源的に変えられることによって、驚くべきことがそこに展開することができますように、願い奉ります。
この日本の国のいろいろな問題も実は、問題の問題は、あなたを本当に受けとらないということにありました。教育の根底は宗教にあることに気がつかなければなりませんでした。どうぞ、それらのことに対する、まことの
「生命より生命へ、力より力へ、讃美より讃美へ、栄光より栄光へ」
と、あなたを証していくことができますように切に願い奉ります。
今、尽くしませんが、心からの感謝と讃美と祈りと、ここに集まれる兄弟姉妹たちの一人びとりのそれと共に、イエス・キリストの御名により捧げ奉る。アーメン。

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