南無キリスト

南無キリスト
キリスト道講演会(YWCAにて) 1976年10月23日
小池辰雄


【目次】
●宗教とは「結び返し」 ●キリスト道 ●南無キリスト ●法然の『一枚起請文』 ●親鸞の『歎異抄』 ●「ひと」は「霊止」 ●棟方志功の「板極道」 ●「幸いなるかな、霊の貧しき者」 ●「天国即ち聖霊の我なんじのうちにあり」 ●満月を抱く三日月 ●キリストと一如 ●「汝はわが神なれば我をひきかえしたまえ」 ●天極のキリストに引きつけられて ●祈り
●宗教とは「結び返し」


よくお出掛けくださいました。
一般に、宗教といいますと、今の若い人たちはみんな敬遠してしまう。「まぁそれだけはよしておこう」というわけで。
私は教育の面でも、D中学・高校の教育の根本方針に、西郷南洲の「敬天愛人」の
「敬天」
という言葉を掲げている。日本は、もしこのままでいけば、精神的にはたしかに滅びに向かっている。さきほど、藤井武先生の「日本よ、滅びよ」という逆説的な詩を読まれましたが、愛すればこそのあのような言葉だった。小学校から大学にいたるまで、一番責任の重いのが教育者とそれから両親です。
私は今の民主主義なんて大嫌いだ。本当のデモクラシーは、リンカーンも言ったように
「アンダー・ゴッド」「神の下において」
ということ。この「アンダー・ゴッド」「神の下に」ということを忘れている。リンカーンにしろ、グラッドストーンにしろ、ビスマルクにしろ、偉大な政治家はみな本当にその世界を身につけていました。
政治家にかぎらず、人間の営みは何であろうとも、必ず根底には、人間の営みであるかぎり、魂の世界が一番根源であるはずです。その魂の世界をいい加減にして何のかんのやっているのが現状である。この二十世紀は――ノストラダムスではないけれども、1999年とか何年でもいいですよ――地震よりも恐ろしいのは、戦争そのものよりも恐ろしいのは、人間の心であります。
「宗教」「レリギオ」とは、ご存じのとおり、「結び返し」という言葉です。「再び結ぶ」ということ。神・仏と結び返しをしなければならないというのが、この「宗教」という言葉です。これをそっちのけにしてしまっているから、もう「教育」なんていったってダメですよ。何か宗教のことを言うと、「それは特殊なことだ」と思う。特殊ではない。いちばん普遍的な、いちばん根源的なことです。
今日来ていただいた方々はぜひとも、そのことの本当の自覚をもって、身をもって証していただきたいと思います。でなければ、本当の生き甲斐がないですよ。我々は死に定められた存在だが、そのような死は既に突破している。そういう事態、本当の永遠の生命の世界です。
日本人は素晴らしい民族だと思う。何をやらせても世界的なものをつくっている。ところが、一つ足りない。キリストが、
「一つを欠く」
と、あの富める青年に言われました。その青年は非常に立派で、品行方正、学術優等。だけれども、一つを欠く。この「一つ」が即ち、本当の意味における宗教心です。
これはもう冗談じゃない。せっかく今日いらっしゃったのですから、ぜひとも、
「瞬間をつかまえる者は本当の人間である」
とゲーテが言いましたが、どうぞ、そのような永遠の瞬間を、瞬間において永遠をつかんでいただきたい。
●キリスト道
西洋的な思惟は「正・反・合」の三角形をもって表すことができる。ところが、いかなる三角形も必ず円周に接して円の中に入る。即ち、三角形を包むものは円であります。東洋は円的である。西洋は三角形で、「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」(正・反・合)といって分析総合している。東洋は、直観、内観、全体的な全的把握です。この相が円です。
西洋でも、今いったゲーテというのは、ドイツ人の中でも超ドイツ的な人間です。彼は円的な世界を本当に知っていた。「エンテレケイア」という言葉がゲーテは好きだ。これは「エン テロス エケイン」というギリシア語からくるんですが、「満ち満ちて、充満して持つ」ということ。こういう姿が即ち「円現」です。
「キリスト教」と一般に言ってますが、キリスト教もマホメット教も仏教もヒンズー教もみんなこれは東洋です。そういう意味で、我々東洋人はいちばん深く宗教の世界を持ちうるんです。日本が、 画竜点睛で――画家が竜の絵を描いて最後に目玉を書く。目玉が命です――我々日本人でこれに目覚めた者は、画竜点睛をこれからしなければならない。
今日の講演会の名称に、「キリスト道講演会」と書いた。日本人はもともと道の民です。華道、弓道、剣道、柔道、書道、画道と、みなこれ道です。身につける真理は、道という。頭で考えている真理は道ではない。そういう、せっかく古来からいい角度を持っているのに、なぜ捨てるんですか。なぜそれを自覚しないんですか。日本人は歴史をもっと尊重しなくてはいかん。日本の歴史を本当にもういっぺんしっかりと読み返して、その精神史を学ばなくては。私はドイツで15年前に日本精神史の講義をやってきました。
道ということ。老子も、
「大道すたれて仁義あり」
と言った。仁義とは素晴らしいかと思ったら、「大道すたれて」と言った。この大道は同時に無道である。
飛行機を見ていると、あれは無道です。ひとつも軌道が、レールがない。私は人間でなければ鳥になりたい。実に自由自在に立体的に動けるからね。
無限です。無限無量な、自由自在な道。それが道なんです。「これが道だ」なんて限定できるような道は道ではない。キリストという道はそういう道です。「これこれである」なんて、キリストのことをいくら説明しても、神学的に組織神学なんてやっても、ダメなんだ。
私は、組織神学というのはそもそも間違いだと思うから、そのうちに「劇的神学」なんていう本を書くかもしれない。ドラマですよ。
「聖書はドラマである」
と、私は前から言っている。教訓の本ではありませんと。
シェイクスピアのドラマもこの聖書一巻のドラマにはかなわない。シェイクスピアであろうと、ダンテであろうと、ゲーテであろうと、ドストエフスキーであろうと、ユゴーであろうと、ぜんぶ源泉は聖書からきている。その聖書を読まないでいて、「西洋文化がどうのこうの」と言っている。絵画の世界でも、音楽の世界でもそうですよ。みんなそこから来ているんですよ。東洋のものだったら、仏教の世界の一流のものを読む必要がある。私も多少かじっていますけれども。何といっても、このキリスト道、仏道、これは世界の歴史を根底において支えているものであります。
●南無キリスト
私はこの福音の角度から全部のみこんでしまう。仏道の方の言葉も好きですから、
「南無キリスト」
なんていう表現をしている。素晴らしい言葉です、この「南無」という言葉は。「南無」というのは梵語で「ナマス」という言葉からきているそうです。意味は要するに、根源の中に帰り入ること、帰命すること、その言いつけに帰すること、それに帰り全託していくこと。これが「南無」です。
「南無阿弥陀仏」
という。親鸞・法然は素晴らしいですね。日蓮の
「南無妙法蓮華経」
もそうですけれども。大変なもんです、この言葉は。
「阿弥陀仏」というのは、「アミターバ」(無量光)とか、「アミターユス」(無量寿)という言葉を含んでいるそうです。無量の光、無量の永遠の生命。無量寿無量光の仏、覚者、それを本当に身につけているひと。それに帰入する。
無量寿無量光の覚者は「如来」ですね。「如来(にょらい)」という言葉もおもしろい言葉です。「如去(にょこ)」という言葉もある。来るが如く、去るが如くという。「タターガタ」という。これは、真如の世界。真理の世界を、真理をありのままに受けとっている、そういった真現実。そういった気持であるそうです。ところが、「タターアガタ」といって「ア」が入ると、これは真理からこの世にやって来た者、真理をこの相対界において具現している者というような意味だそうです。両方持っているからおもしろいですね。
これを福音の、キリストの世界でいうと、「ロゴス・クリストス」、ロゴスなるキリストがさっきの「タターガタ」です。「タターアガタ」となると、「サルクス・クリストス」「受肉のキリスト」、地上に来られたキリストです。
天界のロゴスのキリスト、霊そのものであるキリスト。
「アブラハムよりわれは前(さき)にありしなり」
と言った。だから、キリストは「如来」と言ったって構わない。だから、「南無阿弥陀仏」というのは、キリストのことを言ったって構わない。おもしろいですね。こんなことを言ったのは他にいないかも知れませんけれども。
無量寿無量光を身につけているキリストに帰入する、帰り入る。これが「原点に還(かえ)れ」という私の、我々の今度の標語です。
私はドイツでも、「あなたはカトリックか、プロテスタントか」と聞かれると、
「私はカトリックでもプロテスタントでもありません。使徒的であります。キリスト直結であります」
と言うと、びっくりしているんだ。そういうことをハッキリ言うものだからね、キチガイかと思われる。
キリスト教の歴史はペンテコステから、聖霊の降臨から始まっている。その聖霊の降臨の事態を身に体しないで、体験しないで、何がキリスト教か、何がクリスチャンかといいたい。パウロが言っているじゃないですか。
「御霊を宿さざる者はキリスト者にあらず」
と。私はキリスト者でなかった時代がずいぶん長かったな。それはウソじゃなかったけれども、観念信仰で、観念的なんだ。頭で、まだ心でくらいのところだ。本当に魂の底からとはちょっとちがう。これは御霊を体験してからハッキリ言えるんです。
そういう事態であります。だから、仏の世界でもそうですよ。如来の霊に加持された一流の坊さんたち、法然、親鸞、道元、日蓮、白隠、みんなそうです。だから、ああいうひとたちの本を読むと、すーすーわかるんです。言葉は難しいから、言葉は勉強する面もあるけれども、中味がわかってしまうんですよ。同質のものを持っているから。
私に言わせると、キリストの無量寿無量光でもってみんな見えてくる。これは本当です。だから、みんな呑んでしまう。それは楽しくてしょうがない。何を読んでもそこから真理がつかめるからね。
「何々イズム」とか、「何々主義」なんてやっているうちはダメですよ。「何々派」とか「何々党」とか。それはそれぞれ真理性はあるでしょう。しかし、必ず限界を持っている。無限界無量の世界はそんなものではない。概念で限定できるような世界ではない。それを持っていなければ、本当の意味における主義も、本当の意味においてそれが使えない。そういうことになぜ、学問の世界で気がついてくれないか。絶学の学の世界に入らないから。
それで、この「南無」はわかりましたね。
「南無キリスト」
というのは、キリストに帰入すること。「南無阿弥陀仏」と同じことです。「アミダブツ」をただ「キリスト」と、私は福音の世界だから、そう言っているだけのはなし。キリストとお釈迦さんは天界で喧嘩(けんか)なんかしてませんよ。
そこで、信仰の事態は、「信仰、信仰」なんていう言葉が耳についてしまって、これが躓きになっている。「ああ信仰か、まぁその信仰だけはよそう」なんて。
●法然の『一枚起請文』
法然という人は、菩提の境地に入ろうとするけれども、どうしても煩悩が妨げになって、煩悩は形にそう影のごとくにどうにもならんといって苦しんだ。彼は死ぬ二日前に、自分のいただいたところの――仏教での福音の世界だ――仏道の世界を短い文章にまとめて──ちょうど遺言です──サヨナラしたわけだ。それは『一枚起請文』です。
「唐土我が朝に諸々の知者たちの沙汰し申さるる観念の念仏にも非ず。また学問をして念の心を悟りて申す念仏にも非ず。」
そういった観念信仰ではない、観念念仏ではないぞと。
「ただ往生極楽の為には南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには、別の子細候わず。」
素晴らしい言葉ですね、断然たる言葉です。
「南無阿弥陀仏だけでたくさんだ。南無阿弥陀仏を唱えれば一点の疑いもない」
と。ただ法然さんは、これを最後には一日に何万回と唱えた。しかし、なぜあんなに何万回も唱えられたかは別問題ですけれども。いっぺんでもいいんだよ。「南無阿弥陀仏」という名号ひとつでいい。その他に一切はいらん。
「本願」という言葉があとに出てきます。いろんなことを深くやったような顔をしているけれども、それは
「二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候べし。」
「二尊」というのは釈迦と如来です。私はこの「本願」という言葉が大好きで、どしどし使っている。それは本願道といってもいい。私の『無者キリスト』(著作集第1巻)の中にも「本願道」という詩をのせてある。仏教には素晴らしい表現がたくさんある。如来の願い、上からくるところの願い。これは外れっこないんです、本願というのは。キリストが、
「汝の御意(みこころ)を成させたまえ」
と言った。「汝の御意」が本願なんです。
「私の意ではありません。あなたの願いが、あなたの意(こころ)がどうぞ成ってください」
と。といって傍観しているのではない。これは提身している。自分を神さまの前に投げ出している。神の前に自分の意志、自分の願いを捨てて、
「汝の願いだけである」
と言って、神さまの願いを本当に受けとって、自分をぶっつぶしてしていたのが、このイエスというかたです。
「自分は何ものでもない」
というから、私は「無者」と言う。キリストは、
「私は何も教えているのではない。私は何もできないよ」
と、ヨハネ伝でハッキリと言ってらっしゃる。神の子イエスが、
「私は何もできない。何も言えない」
と言っている。
「われ何ごともなしあたわず。神さまがさせているだけだ」
と。だから、神さまに自分を投げ入れている。帰入している。帰命帰依している。キリストは「南無」なんだ。キリスト自身が
「南無神さま」
だ。「南無神さま」で生きていたんだ、キリストは。神の本願に全託して、これはもう凄いですよ。これは「ゼロ=無限大」の世界ですから。無即無限無量。この無は虚無の無ではない。私が無い無ですから。
その角度を法然はやったわけです。本願です。
「自分が南無阿弥陀仏と言えるのも、実は本願のもよおしによっているのだ」
と。上からのもよおしで言わされている。この信心のこころも上からいただいた、賜りたる信心で、自分で信じようとして信じているのではないと。
どうですか。太陽は地球の周囲を回っている、と思ったらそうではなかった。地球が太陽の周囲を回っているのであるという、コペルニクス的転回。信仰の世界がこのコペルニクス的転回をするまではダメなんです。
「祈り」というのは、何かお願いすることではない。祈りというのは、乗り込むんです。祈入する。祈りはいる。「己を捨てろ」というけれども、どこに捨てるんですか。神仏の中に己を捨てればいい。神仏の中に。
祈りはいる。投げ入れる。投身する。投げ身する。その角度がこの法然の信の世界です。そのお弟子の親鸞がそれをもうひとつ深めた。法然はなかなか、しかし、悩みもあったが、彼は立派な性格でもあったようだね。けれども、親鸞というのはなかなか多情多感で、躓いたり転んだりしたらしい。ところが、この親鸞が本当に法然をもの凄く受けとりました。
法然についてこういう話がある。夜明けに、法然が「南無阿弥陀仏」とやっているものだから、正信坊(親鸞)がそっと遣戸(やりど)を開けて、その姿を見ようと思った。そうしたら、法然の身体が赫奕(かくえき)として光っていたという。法然から光が射してきた。如来の霊がハッキリ入っている。福音でいえば、聖霊が宿っているわけだ。「南無阿弥陀仏」専心になっていた法然から光が射していた。
また、九条兼実(かねざね)が、あるとき法然が帰っていらっしゃる姿をフッと後から見た。そうしたらば、法然上人が虚空の白蓮華を踏んで歩いておられた。即ち、法然の周りに蓮の華が咲いているのが見えたという。仁王さんの周りに火が、霊火が発する。身辺に霊火が発することがある。その人が歩いていくと、何かしらんが熱いです。そういうことを見た。
また、ある人が法然から数珠(じゅず)を受けとって、それを竹の釘に掛けた。そうしたら、その部屋が何かしらんけれども光ってきた。数珠にまで法然の仏の霊が移っているわけです。
これは、パウロのそういう事態が使徒行伝の中にありますね。獄舎の中で繋がれていた鎖が解けてしまったりすることがある。あそこのところに「地震」と書いてあるね、あれは地震ではない、霊震(れいしん)です。パウロに宿っているところのキリストの霊によって震動が起きる。私はそれを霊震と言います。そんなことは註解書に書いてないよ。私はだいたい霊的な男ではないけれども、何だかしらんが、御霊が来てからパッパッと受けとれるから不思議でしょうがない。
そういうようなわけで、法然さんが何かではない。法然を通して貫いて、そのように如来の霊が動いているということです。
●親鸞の『歎異抄』
親鸞が『歎異抄』という本を書きました。これはマルチン・ルターの『クリスチャンの自由』と双璧のような本です。もちろん、パウロのガラテヤ書は最高ですけれども、しかし、この親鸞の歎異抄というのは素晴らしい本だね。世界のこの頃の最大の神学者であるカール・バルトが歎異抄の独訳を読んで、彼の『教会教義学』という本の中で――大変な本ですよ、あの全集は読みきれやしない。ドイツ人はエネルギッシュだね――驚いているんです。その脚注のところに書いてある。親鸞の歎異抄を読んでびっくりした、「こんな素晴らしい信仰が東洋にあるか」と。
これにはもう普通のクリスチャンはとてもかなわないです、もちろん。「仏教は十字架がない」なんてね、そういうような観念でもってすぐわってしまう。そういうのはダメですよ。この歎異抄から一つ、二つ――これはもう本当に珠玉の文字だ――引用してみると、
「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。」
念仏して、浄土に行くか地獄に行くかは総じてもって存知しないと。これは法然の先をいっている。
「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」
自分は地獄に行ったって、何も文句はないと。徹底的な自己認識です。「認識」なんていうものではない。自分を吐き捨てるような気持です。ダンテが地獄を遍歴しましたね。彼はあの地獄の鬼どもにおいて徹底的に自己認識したわけだ。そのような、
「私はどうにもならない、しょうがないやつだから、念仏によってどうなるかなんてことも思っていない」
というような言葉だね。けれども、
「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。」
弥陀の本願が本ものなら、私は自分でどうなってもいいが、本願にだけは一切を委ねると。「絶対矛盾の自己同一」という言葉があるが、そういうようなところです。
「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」
有名な言葉ですね。こんなのを中学や高等学校の生徒に言うと、躓きになにから言いませんよ。「それじゃ俺はうんと悪いことをしよう」なんて。こういう名刀のような言葉は、うっかり使うと怪我する。
「念仏者は無碍(むげ)の一道なり。」
念仏は、もう何がどうなっても、ただこれ一道である、念仏のこの一つだけだと。その念仏も、「南無阿弥陀仏」というのは言わしめられ、唱えしめられている念仏です。「黙(もだ)さんとしても黙すことあたわず」と言って発してくるような念仏です。
キリスト教の方にも「主の祈り」というのがある。そうすると、教会やなんかでしょっちゅうやっているわ。
「天にまします我らの父よ……」
と。私は全部暗記してない。ドイツのルター教会で、私はみんなが言うのに言わないから、「お前はなぜ言わないか」と牧師が聞くから、「私はそういう形式的なことはいやなんです。自分で祈る時にその中の一句でも出てくればそれでいい」と答えた。およそ偽りは何にもならん。偽りの祈りは天には届かない。
「弥陀の御もよおしにあずかって念仏をしているので、それで自分の念仏にやってくる人たちがあるけれども、私は自分で弟子をつくっているのでも何でもない」
というようなことで、親鸞はまさに個なんです。一個、孤軍。けれども、そこに万軍が味方してくる。天にも地にもだんだん、光の在る所に魚が集まってくるようなわけです。
「如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。」
信心は如来から賜ったものなのに、自分で信じたような顔したらとんでもないはなしだと。本当にぬけているんです。これがやはり親鸞も本当に無者であります。何もない。賜りたるものだと言っている。
この天の一極、天極。一極絶対という世界。天極は、磁石は北極にあるね。磁性を帯びると北極の方に向かっていく。聖霊を帯びると、天極に向かうわけです。滑っても転んでも、天極に向かって前進して行かざるを得ない。
だから、
「念仏は無碍の一道なり」
というのは、念仏せしめられているその本願に引きつけられて、一道を突っ走らざるを得ないというのが、やはりこの親鸞の境地なんです。
凄い言葉があるね、
「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」
この念仏の一念で八十億劫の重罪が消えてしまうというんです。
福音書に出てくる十字架上の片一方の盗賊は一生涯悪いことをしたらしい。
「私は十字架にかけられたって仕方がない。せめても、キリストさま、あなたが天界にいらっしゃる時に覚えてください」
と、本当に平伏して言った。
「お前は今日、私と一緒にパラダイスだ」
とキリストは言われた。即ち、一念が一生涯のマイナスを吹き消してしまった。キリストは真っ先にその盗賊と一緒に天界に行かれた。もう片一方の盗賊は心が砕けない。「お前は神の子なら、俺たちを救ったらいいだろう」なんてやっている。これは地獄行き。その二人の盗賊が表わしている。心が本当に砕けるか、傍若無神で傍ら神無き如く動いているか。人類は、「魂が砕けるか、砕けないか」の二つに分けられます。キリストがマタイ伝25章で分けていらっしゃるようなところもそれと似ている。人種ではないですよ。
●「ひと」は「霊止」
本来、「ひと」は「霊止(ひと)」と書く。『大言海』に「霊が止(とど)まる」と書いてある。昔の人はやはり偉い。昔に帰りなさい、古典に。原点に還れと。科学の世界は、どんどん進歩して原子力時代だ。しかし、この原子力がとんでもない爆発したら、もう世界はおしまい。それくらい凄いんだよ、月に行ってみたり、火星や木星を探検してみたり。えらい進歩です。
ところが、魂の世界はどうしたんですか。完全にお留守になっている。お留守どころではない。だんだん悪霊が入ってきた。そして、サタンの霊によってこの原子力を使ったら、どういうことになるか。魂が恐ろしいです。武器が恐ろしいのではない、魂が恐ろしい。
そこで、我々は魂の世界の原始力の世界に入る。原始の世界、始めの世界に。元に帰れという。お釈迦さん、キリストに帰れと。なぜ、釈迦やキリストをなにか特別扱いにするんですか。救いを要しない人がいるんですか、世の中に。「私は救いを要しない」なんていうことが言えるのはキチガイだな。
だったら、ぜんぶ宗教人ではないですか。宗教を必要としているんじゃないですか。なぜ、日本人は――「日本人は」なんて言ったってしょうがない――教育者がわるいんだ。私は教育者だから、同じ仲間の悪口を言ってしょうがないけれども。「教育」の「教」の字がおかしいよ。教える資格はないんだ、我々は。
神の根源の力、生命力、その力の中味は、愛です、慈悲です、仁です──何と言おうといい──この愛は最高の、最大の力を持っている。
「敵を愛せよ」
とキリストが言われた。
「十字架上で敵をゆるした」
と、さっきの讃美歌にもあった。そのつもりで歌っていましたか、皆さん。私はあそこにきて声が詰まってしまって声が出なくなった。
そういう根源の力。
「福音は言葉にあらず、力なり」
とパウロが言いました。これはキリストの力をいただているから。コリント後書11章のところにもの凄く患難のことが列記されてある。あれだけの患難に遭ったらパウロは本当は仆れてしまっているんです。けれども、パウロはその患難を乗り切っている。彼の使命の果てるまで、殉教の死を遂げるまで。
私はもう72歳だけれども、年齢のことなんか超越してますよ。本当にありがたくてしょうがない。そのうちに百歳を突破してやろうなんて。まぁそんなことを言ってね、「先生はあんなことを言ったけれども、75歳で仆れてしまった」なんて(笑)。いつたおれてもいいんです。私はもうハレルヤ。この『無者キリスト』は私の遺言ですから。
●棟方志功の「板極道」
漢字は世界最高の文字です。漢字を尊んでくださいよ。略してはいかんですよ、よくこの頃略すけれども。略すと、姓名判断の方でもよくないですから(笑)。
「無」という字は本来、「天蓋の下に廿(にじゅう)廿の四十の林」と書く。四十の林の木が数えられるかと。だから、「無」は即ち「無数」を表しているという。シナ人は非常に哲学者、哲人です。無という字は無即無限無量、無数を表している。「無い」のではない。数えられ無い。「数えられ」という字を抜かしてしまったものだから、「無い、無い」といっている。あなた方は本当の世界に入ってくださいよ、バカらしいから。そんないい加減な相対的なところで満足しないでね。
こないだ棟方志功の「板極道(ばんごくどう)」という展覧会があった。おもしろいね、あの人物は。彼は、「自分は極道者である」と。ただ板だけを相手にしている。版画です。鑿でもって描いているところの姿はまるでキチガイみたいだね。絵の世界で、「絵バカ」と自分のことを言っている。その他は何も知らん、もう絵だけだと。
『徒然草(つれづれぐさ)』にも兼好法師が言っている。
「ただ一つのことに没頭しろ。その他のことを何のかんのやっていたってダメだ。何と非難されたっていいから、打ち込め」
と。日本の教育が、だいたいいろんな科目が多すぎてしょうがないよ。そして、平均点が何点だの、偏差値がどうだのと。そういうのを非常に問題にしたりする。どういうんですかね、これ。もっとたくさんいろいろな種類の学校を建てて──小さくていい、小さい方がいい――そして、みんな自分のいただいた天賦をよく自覚して、そいつに向かって邁進する。だいたい、ドイツはそういう角度になっている。手仕事人がドイツでは非常に多い。健全です。何でもかんでも大学に行きはしないよ。日本みたいなこんな有名無実のレッテル大学の多いのはどういうことかね。
棟方志功は「板極道」といって打ち込んだ。我々も究極のものに本当に打ち込むと、その中心がある。この中心がしっかりできるとそれから――これは無だから、台風の目と同じだから、中心には何もない。ただし――無限無量な力が宿って、これが台風のように回転しながら動いてくる。
私は台風が好きだ。ただあれは非常にいろんな害をするから悪いけれども、台風そのものの姿はいい。そういう台風的な存在となる。けれども、私は台風ばかりを願っているのではないよ。無風の時は無風も好きだ。
だいたい、風というのは――風、気、霊――これはみんな同じ字です、ギリシア語でもヘブライ語でも。地水火風という。この風は気でもいい。この四大というのは素晴らしい。地水火風を本当に冥想したら、もう素晴らしい宗教の世界に入ってしまう。
あなた方はこの空気に囲まれているではないですか。そして、空気を無意識に吸っているではないですか。こんな素晴らしいものがあるですか、空気みたいな。いちばん大事なのはこの空気、気ですよ。この室をぜんぶ密封してしまって、有限の空気になったら、我々は窒息してしまう。沈んだ潜水艦みたいに。けれども、窓が少し開いている。それで無限界と一緒だから、この有限の中に無限があるわけです。我々のこの有限的な相対的な存在の中に、絶対的な無限なものを入れるのがこの宗教の世界なんです。それでなければ、本当の生命はこないんです。
この気がその姿を表している。誰か空気が見えますか。見えない。けれども、空気を吸っているから、「ああ、空気はあるな」と。即ち、身にじかじかと受けとって、血液が浄化されている。この大気が既に我々の霊の世界をハッキリと象徴的に具体的に表している。
「霊によりて生まるる者はいずこよりきたりいずこへ往くを知らず。風の如し」
とキリストが言っているとおりです。
●「幸いなるかな、霊の貧しき者」
今度はハッキリ福音の世界から言います。
「幸いなるかな、霊の貧しき者。天国はその人のものなり」
という、この一句を本当につかまえたならば、私はキリストのあとの言葉が、福音書がぜんぶ分かってしまった。キリストくらい霊の貧しいひとはなかった。あれほどの素晴らしい霊的な人物がどうして霊が貧しいかと。絶対矛盾の自己同一だ。
ということは、本当に神の霊を、自分を投げ出して、受けとっていらっしゃったからです。聖霊が充満しているキリストなんです。けれども、彼はその聖霊を決して私しない。神のものと自覚している。
私したらサタンになりますよ。サタンは霊的なやつだから。だから、悪鬼にとらえられているやつが一番先にキリストのことが分かったんです、これは神の子だということが。霊の世界は霊をわきまえるから。悪霊がかえってキリストが分かる。普通の人にはわからない。マルコ伝5章に書いてある。
だから、
「幸いなるかな、霊の貧しき者。天国はその人のものなり」
と。キリストにとっては、天国は即ち神さま。神が自分の中にはいった。だから、
「我を見し者は父を見し者なり。私を見た者は神さまを見たのだよ」
と言われた。
よく、若い人が「神は在るの無いの」と、何を寝ぼけたことを言っているか。それが一神論になろうが、他神論になろうが、汎神論になろうが、そんな論でもって片付くような世界ではありません。私は「ディスカッション」なんてものは大嫌いだ。ディスカッションして何か結論が出るかと思っている。それは観念的な結論は出るかもしれない。本当の結論はそんなところからはこない。自分でもって本当に絶対界に体当たりするまでは。話し合いでなんかつくような世界ではない。
●「天国即ち聖霊の我なんじのうちにあり」
けれども、キリストはそうであっても、私はキリストの真似は――「イミタチオ・クリスティ」という言葉があるけれども――「キリストにならいて」なんてことはできない。
あの本も、あれは本の名前がちょっと間違えたね、「キリストにならいて」なんて。なにかキリストを真似するように聞こえるが、あの本を読めばそうではない。もっと一如の世界を語っている。
「幸いなるかな、わが十字架によって、汝、霊の貧しくされた者よ」
と、私には響いてきた。
「私は、お前を私の十字架ですっかり贖った。過去も現在も未来も、お前というダメなやつはぜんぶ引き受けたよ」
というのがキリストの十字架です。それに対して何と答えるか。「はいっ」のほかに答えようがないではないですか。平伏して「はい」と言うことのほかは。「もう少し聖書を勉強してから、もう少し人を愛してから」なんていうのではない。
「わが十字架によって、完全に無私、無の世界に、霊が貧しくされた者よ」
乞食になって何もない。無一物だ。無一物無尽蔵という言葉があるとおり。そうしたら、
「天国即ち、聖霊の我なんじのうちにあり」
と響いてきた。これは私が聖霊を受けた第二番目の体験です。これが決定的なところなんです。私は畳の上に平伏してしまった。そうしたら、これがもう鍵で、キリストの言葉はこの角度から全部読めてきた。
我々に不可能なことばかり言ってますよ、キリストは。
「けれども、私の力でもって、お前はそこを乗り切れる。私の力を受けろ」
と。だから、水を割らないでキリストは言われる。最後には、
「父の全きがごとく全かれ」
と言う。どうしてくれるんですか、これ。我々罪びとに向かって、
「父の全きがごとく全かれ」
「父の慈悲なるごとく、慈悲なれ」
なんて。なぜ、キリストはあんな激しい言葉を言って、しかも説明をしないで知らん顔しているか。これは、イエスは自分の身をみんな与えているからです。自分を与えて、
「この私を受けとってごらん。そうしたらこの言葉が本当にお前の生命になるぞ」
ということです、全部。
●満月を抱く三日月
私はまだ三日月くらいなものだ。不完全きわまる。「全き」は十五夜の満月。三日月は十五夜までまだ十二日ある。72歳で三日月だから、あと300年くらい生きなければ満月にならない。そうではないんです、三日月で結構なんです、私は。ところが、三日月、上弦の月は完全性をもっている。完全性をこの三日月はもっている。未完成の完成という姿なんです、この三日月は。
聖霊は全き霊ですから。この聖霊という霊を、キリストの霊を、みなさんはいただいたら、これはもうハッキリします。現実の私は死にいたるまで罪びとにすぎない。ダメな野郎です。けれども、その奥にダメでないものが来ている。これが必ず満月、十五夜の月になる約束がされている。この十五夜の月、望月は、天界にいったらそういうことになります。皆さんはそうですよ。
それではみんな同じかと。決して然らず。みな満月性をいただきながら、それぞれあなた方の顔はみんな違うように、神・仏を表すその現し方はみんなそれぞれ絶対性を持っています。人真似はひとつもいらん。
交響楽というのはどうですか。みな太鼓だったらどうなるんですか。みな笛だったらどうなるんですか。さまざまな楽器がひとつの弦もゆるがせにできないで、それで大交響楽となる。名コンダクターは、なにかちょっと間違うと、パッとそれがわかるわけでしょ。
皆さんが、一人びとりが本当に絶対なるものを受けとって、そして、あなた方の絶対的な賜った特質が宗教的な根源から──何をやっていてもいいですよ、「宗教」の「宗」の字もひとつもいらん──必ずそれが本当の意味において根源のものを現す。それが本当の証です。これが大調和をなす。百花繚乱である。交響楽のベートーベンもバッハもヘンデルもかなわん。
この福音の世界は、仏道の世界は、本当の世界はそうですよ。仏道の人たちも本当に新しく仏教の世界で第二の――第二だか第三だかしらないけれども――第二の鎌倉時代を起こしてください。私は仏教の人に、「キリスト教になれ」なんて決して言わない。仏道で結構です。私は福音の角度からものを言うけれども、なにも喧嘩して言っているのではない。
●キリストと一如
もう広大無辺でね、何と言いますかね、このこころは。あの栄西という禅宗の僧に、
「心は何と偉大なものか」
という素晴らしい言葉がある。日月まで動かすようなことが書いてある。
日本人は、太平洋を池にしているではないですか。私は小池というけれども、太平洋という大池を持っている。もっと気宇が壮大にならなければダメですよ。
太平洋というでっかい方に向かって秀吉が行かなかったから大間違い。朝鮮や満州の方へ行ってしまった。大海の方に乗り出していけばよかった。そこはさすがにイギリスはよかったね。
この福音の世界は本当に無限無量ですから、キリストというのは。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのこのキリストにぶつかって、そして本当にしがみついてくださいよ。それから降参してくださいよ。
キリストは神の懐の中にいた。我々はこのキリストの懐の中に入る。中道、中の道。本当の中道なんです。「中」というのは「なか」という意味です。左でも右でもない。本当のその中に在ること。
「われキリストのうちに、キリストわがうちに」
「われ汝のうちに、汝わがうちに」
というようなその表現をパウロはその書簡の中で百回以上やっている。パウロは本当に
「われキリストと共に十字架せらたり。もはやわれ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生き給うなり」(ガラテヤ2・20)
と。もうキリストと一つです。一如の世界に入っている。
なぜ、一般のキリスト教会はこういう「一如」という言葉をハッキリと使えないんですか。「それは神秘主義だ」と、また「主義」なんて言っている。宗教の世界は神秘でないんですか。本当の現実中の現実なんですよ、この「一」「一如」というのは。
「ここに水がある」なんて、外から対象的に見ているよりも、私はこの水を飲んで、水と一如になった。なんと素晴らしいかな。眺めてたってしょうがないですよ、これは飲まなくては。「H2Oである」なんて分かったってしょうがないよ、これは飲まなくては。
何でも、全存在で受けとっていないものはみんな本ものにならない。論より証拠。事実は、どんなに説明しようが、ごまかしようが、魂の世界の本ものの世界はごまかしがきかないですから。
もう「聖書研究会」なんてものはよしましょう。聖書身読会、身体で読む──「身読」とは日蓮の言葉です──それは読んでいるうちにグーッと生命が来てしまう。電車の中でもどこでも。
電車の中で目をつぶる。「目をつぶる」というのは「ミネイン」という言葉です。「神秘」「神秘になる」ということは「目をつぶる」ということ。「閉じる」という言葉です、「ミネイン」というのは。「ミスティーク」(神秘)というのはもともと「閉じる、中に閉じ込める」ということ。
「汝ら、部屋に入って戸を閉じて祈れ」
とキリストが言われた。電車の中でも目を閉じれば、目という扉を閉じれば、周りが何であろうと、ちゃんとその世界に入れる。降りる頃にはもう力が入っている。本当ですよ。
この頃は、「シルバーシート」なんてあるけれども、腰掛けさせてくれないから仕方がない。立っている。悪いね、この頃の若いのは。あのシルバーシートなんてのは、老人や弱い人が腰掛けるようになっているんじゃないですか。それをみんな平気で腰掛けている。もう日本はこんなことではダメだよね。ドイツ人が驚いていました、「どういうことですか、日本の若い人は」と。
もう本当に人ごとではない。我々ひとりが、一人びとりが、一人が日本を背負えるんです、この霊の世界では。男でも女でも、老いたるも若きも。それだけの原始力が入ってくるんです。皆さんもうそうなったら、まるで宇宙を散歩しているような気持になる。羽はないけれども、ちゃんと飛んでます、聖霊の翼で。
●「汝はわが神なれば我をひきかえしたまえ」
標題に「原点に還(かえ)らん」と書きましたね。「帰る」ということ。エレミヤという預言者がエレミヤ記31章18節に、
「ヤーヴェーよ、汝はわが神なれば我をひき転(かえ)したまえ、然れば我転(かえ)るべし」
とある。「ヤーヴェー」というのはイスラエルの神さまの名前。「ヤーヴェー」というのは「実存者」という意味です。モーセに神さまが現れて、
「われは有りて在るものなり」
と言ったと出エジプト記3章に書いてある。みんなそう訳している。けれども、私は訳がちがう。
「我は在りて在らしむるものなり」
と私は訳している。文法的には少し超越している。太陽が在ることが地球を在らしめている。これが恵みの「在る」ことなんです。恵みをもって在ることは他をして在らしめている在り方。「神さまが在る」ということは、こっちが信ずると信じないとにかかわらず、我々は在らしめられている。
「あの駄々っ子のやつがあんなことを言ってるが、まぁまぁゆるしてやろう」
といって、神さまの方ではゆるしていらっしゃるんだよな。
そういう「ヤーヴェー」「在りて在らしめる実存者」。それだけでも、皆さん冥想してください。自分が地球になって太陽に引っ張り回されているような気持になってごらんなさいよ。太陽のエネルギーというものはもの凄いものだね、見えないけれども。もうそれだけだって、ぶっ倒れてしまうよ。それをアナロギヤで神さまのエネルギーに替えてごらん。ぶっ倒れるから。「そのようにして私は在らしめられているか」といって、全身が涙にならないんですか。
「ヤーヴェーよ、汝はわが神なれば我をひきかえしたまえ。
汝はわが神であるから、私をかえしてください。
されば我かえるべし」
と書いてある。自分の方からは、しりもちついてしまって帰れませんが、どうぞ私のところに帰ってきてくださいと。これが本願に対する願いなんです。本願に対するところの本当の願い。
小さい子どもがぶっ倒れて、「お母ちゃん、お母ちゃん」と、立てないで叫んでいるのと同じことです。ああいう姿に真理を見なければダメですよ。画家だったら、そういうところを描かなくては。もう具体的な真理はそこらにこぼれている。リンゴが落ちるところを見て、万有引力に気がついたニュートンもそう。
「求めよ、されば与えられん」
というのは、
「私はやりたくてしょうがないんだから、求めなさい」
とキリストは言っているんですよ。求めの力で与えられるのではない。
「こちらは、与えようとしているんだよ。叩きなさい、私の方から開こうとしているんだよ。全身で体当たりして来なさい」
と。十字架という門はそういう門です。だから、
「私をひき返してください。そうしたら私は帰ります」
と。本当にヤーヴェーの神に対するエレミヤという人は全身をもって信頼している。
「もうあなたにとっ捕まってしまってどうにもならん。しかし、私がものを言うと、みんなに迫害されるから、もういやだ。このへんで止めようと思うけれども、わが骨のうちに汝の言葉が焼き尽くす火のごとくに宿るので、黙(もだ)すに絶えがたくて私は言わざるを得ない」
と言っている。
「我は酒に酔える如くに神の言葉に酔っている」
という。酒の好きな人はどうぞ、神の言葉に酔うこともやってくださいよ。全部、絶対の次元に切り替えるんです。
これは漱石さんの明治39年の、ある人への手紙の一節です。
「天下に己(おのれ)以外のものを信頼するより儚(はかな)きはあらず。しかも己ほど頼みにならぬものはない」
と。困ってしまったね。
「他に頼むということほどバカげた儚いことはないが、それでは、俺は自分自身に頼もうと思ったが、またこれほど儚いこともない」
となったら、どうしてくれるんですか。そこで、漱石は
「則天去私」
ということになった。天に則して私を去る。今の若い人の頭だったら、「我を去ったら我はどうなるか」なんて、すぐそういう平面論理で考える。こういう気合がわからないんだ、気合が。彼の終わりの方の作品にはそれが少しでている。まぁ惜しかったですね、漱石さんももうひとつ。けれども、漱石文学が素晴らしいのは、とにかくその方向へ向かって彼は探索していたわけです。
●天極のキリストに引きつけられて
「天極道(てんごくどう)」は天極の道、天の極道、その二つの意味をもっている。天極(てんきょく)はキリスト。仏教でいえば如来。如来の、キリストの、キリストという絶対極。これに――太陽だよな――引っ張り回されて動いているところ道、これは自在の道です。
天の極道を――極道(ごくどう)というのはしょうがないやつ、私みたいなしょうがないやつであるけれども──これは天をいただいている極道者である。だから、「天極道」という言葉は、
「義人にして義人でなし」
という、ルターが言った両面をもっている。絶対矛盾の自己同一。しかし、極道者を自覚していないと、浮かび上がりますよ。本当に神の前に平伏すときに、天極の道、天極道になる。それは天をいただいている極道者はそうなる。これは親鸞と同じ方向です。
十字架の贖いということは──パウロ的にヨハネ的にあるいはペテロ的に、いいですよ、どういうつかみ方でも。とにかく十字架なんていうものは説明できない──これは我々の我執的な我というものをぜんぶ贖いとってくださった。それだから、自分は何ももはや心配しない。
「ただ、あなただけです」
と言って、
「天にも地にもあなたの他に慕うものなし」
と、詩篇73篇に書いてあるとおり。引きつけられてどうにもならん。そこからして無限無量なるものが来る。
そしてそれは一切のものを救いあげるところの救い上げです。贖われたからおしまいではないですよ。贖われたから、聖霊がやってくるから、この愛の霊が。生命の質は愛ですから。愛のない生命なんてものは問題にならない。神さまの愛が、キリストの愛が私たちの中に本当にやってくれば、これはいちばん力強い。
世界を本当に平和ならしめるためには、神の愛、キリストの愛を身に体している平安者が――それを平安という──本当の平安をもっている者だけが本当の平和を来らしめることができる。「平和、平和」といって、この縦の関係の「平安」がないところには「平和」は来ない。そんなものは偽りです。相対的に、あるところまではくるでしょうけれども。
本当に兄弟姉妹という言葉がウソでない。どこへ行っても、世界中に青山ありという。ソ連であろうと、中共であろうと、何であろうと、人間として本当に握手ができなかったらウソではないですか。
それぞれの国には歴史がある、イデオロギーもある。いいよ、みんなそれぞれで。しかし、みんなそれは限界をもっている。超限界の世界を一人びとりが、その国が、その社会が持たないで、どこに本当の平和がきますか。
宗教の事態は実はいちばん根源の事態で、この根源の事態に立ち返らないことには、二十世紀は本当にあぶない。頭の方がすっかり展開していって、そして欲がからんでいるから、何が始まるかわからない。
ところが、上からくるところの、この生命の、愛の、光の、この世界はもう他の何ものをもっても代えることができない。仏教徒のひとはどうぞ、如来の世界でそれを証してください。福音のひとは福音の世界でそれを証していく。これが残されたただ一つの日本人のこれからの課題なんです。
これはゾイゼという人の詩の一句です。
「汝は太陽をその光にて知り、バラをその香りによりて感じ、火をその炎によってわきもう。かくわが愛をわが十字架によって悟れ」
と。これはキリストからきたところの啓示された言葉です。ゾイゼという人がそういう詩の一節を書いた。ゾイゼの話をもっとしたかったけれども、法然、親鸞でおわってしまった。セントバーナードとか、ゾイゼとか、タウラーだとかは素晴らしいです。
●祈り
それでは祈ります。
天地万物の創造者……
……このYWCAの講堂を貸してくださって、感謝いたします。ここに本当にいろいろな事情を乗り越えてやって来られたところの兄弟姉妹たちは、みな大事なあなたの深く顧みてあり給うところのお一人お一人であります。み言と御霊に導かれながら、我々、語る者聴く者も同じことです。あなたの天来のみ力に、み光に、み言に満喫しまして、いよいよ求めてやみません。
「われ汝らに与う。ゆえに求めよ」
と、パウロにピリピ書を通して言われておりますが、本当に私たちは満たされつつ、いよいよ求め、またそれを分かち与えつつ進んでまいります。溢れてやまざるところの活ける泉のごとく、また雲を貫いて射しかかってくるところの日の光のごとく、あなたは本当に驚くべき恵みの実体であり給います。私たちの願いよりも素晴らしいご本願をもって臨んでくださっているがゆえに、本当の希望があります。
世の中がどうなろうとも、私たちはそこで決して失望することなく、神の国を地上にいかにもして現ぜんと進んでまいります。それがどのようなことになっても、結果は知りません。ただあなたが最善を成したもうことを信じて、
「為(せ)ん方尽くれども希望(のぞみ)を失わず、倒さるれども滅びず」
とパウロが言いましたが、そのとおり私たちは本当にあなたと一如、
「われ汝のうちに、汝わがうちに」
と…(異言)…、このような現実を、神さま、いよいよ受けとって進んでまいりたく存じております。
どうぞ、この兄弟姉妹たちを通して、悩める者、苦しめる者、病める者また悲しめる者に、本当の喜びと本当の力と光と生命を、分かち与えることができますようにいよいよお使いくださらんことを願い奉ります。いよいよあなたの前にぶっ倒れていけば、あなたは私たちを起こして、そして進ませ、また事を成し給うがゆえに感謝であります。
「弥陀の本願の劫力」という言葉がありますが、本当にキリストの本願の劫力が私たちを本当にそのように進ましめてくださってうれしくあります。
どうぞ、一人びとりはいろいろな仕事やまた勉強やいろいろなものを持っていますが、それにおいて限りなきあなたのみ力が、またおん知恵が現れますように切に願い奉ります。決して行き詰まりを知りません。本当にあなたは驚くべきかたであります。どうぞ、これを日々の生活において体験しまた体現してゆくことができますように。一切をもって御名が本当にあがめられますように願い奉ります。
今、尽くしませんけれども、心からの感謝と讃美と祈り、この堂にあふれる皆さんのそれと共にに御名により献げ奉る。アーメン。

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