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マタイ伝第5章3節
第6回バルナバ・アシュラム(1)1993年5月3日
小池辰雄
【見出し】
●山上の大告白 ●ゼロ=無限大 ●聖書というドラマの中に自分を投げ入れる ●十字架ぬきの聖霊はあぶない ●我を食らえ ●賜りたる無 ●平伏し ●キリストの中に生き動きまた在る ●わが現実は汝のもの ●本当の出発点 ●キリストの中に祈り入る ●天の虹 ●現の世界 ●霊が貧しくされて ●本当の自由 ●キリストに在って ●信行・信交 ●イズムを超える ●魂の教育 ●無に徹する ●「主さま!」の一言 ●廓然無聖 ●文語訳聖書
【マタイ5・3】
幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。
●山上の大告白
キリストが、マタイ伝第5章3節で、
幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。
と仰った。山上の大告白です。私は「垂訓」とは言わない。大告白と言う。コンフェッションです。何ごとでも、人に教えようとしたらダメ。自分はかくかくである、ということを告白するだけです。
私は皆さんにお説教はしません、告白をいたします。しかも、私はキリストの中に入って告白をします。イエスの中に入らなければ、私は語ってはいけない。主さまの中に入れていただいて、そこからものを言います。
私はどうせダメな者です。ダメな者だけれども、キリスト抜きには私は無い。私は滑っても転んでも倒れても、キリストは私を起き上がらせてくださる。私は信仰も何もない。あるのはキリストだけです。「自分の信仰がどうだ」なんて、ひとつも思いません。絶信です。こちらはゼロなんです。
●ゼロ=無限大
イエス・キリストは告白していらっしゃる。キリストは自分が「霊が貧しい」んです。イエスほど霊の貧しいひとはいない。ということは、イエスは何ものでもない。「善き先生」と或る青年が言ったら、
「なぜ、私のことを善いと言うか、善きものは神の他にあるか」(マルコ10・18)
と仰った。自分を何ものともしない。だから、私はキリストのことを「無者キリスト」と申し上げている。私もその無者修行をしているわけです。
キリストは自分を何ものともしなかった。世界中にキリストのことを無者キリストなんて言う人はいないでしょう。けれども、イエスは神さまを一切にしていた。
「自分は何ものでもない」
と言ったキリストが、
「我を見し者は父を見しなり」
と言われた。自分がゼロになると無限大が入ってくる。「ゼロ=無限大」なんです。イエスという方は無限無量のひと。福音書を読むと、キリストには圧倒されます。「これがどうだ、こうだ」ではない。キリストの生命力、霊的な力、その言葉に圧倒される。
●聖書というドラマの中に自分を投げ入れる
「わが言(ことば)は霊なり生命(いのち)なり」
と、まったく文字通りそうです。註解書なんかいらない。聖書だけをお読みなさい。それも、身体で全身で読む。頭で読んだら絶対にダメです。
読むというより、聖書というドラマの中に自分を投げ入れる、投身する。そういう読み方を是非してください。日本語の聖書で一向差し支えない。
「ギリシア語やヘブライ語ができれば、聖書はよりよくわかる」
なんて、冗談言ってはいかん。聖書はギリシア語でもヘブライ語でもない。その奥の神の根源語の響き、その響きが聞こえてくるようにならなければ、本当には読んでいるのではない。響きの世界です。
音楽と同じです。神の言というのはそうなんです。
「この言葉はどういう意味だ」
なんて、そんなことを詮索していたら、どうにもならん。「聖書研究会」なんて、もし開いていたら、もうよしなさいよ。研究していたら、聖書から遠くなる。もし言うなら、聖書身読(しんどく)会、身(からだ)で読む。いい加減な一般的な常識は乗り超えなければダメです。(異言)
そういうもの凄い次元の世界です。パウロが
「異言を学べ」
とコリント前書12章、14章で言っているけれども、自然に出てくる。本当にその世界に入ると私はもう既に身体が熱い。キリストが、力が、来ているから。
「聖霊なきものはキリスト者にあらず」
とパウロがローマ書8章でちゃんと言っている。
●十字架ぬきの聖霊はあぶない
ところで、「聖霊、聖霊」と言うけれども、十字架ぬきの聖霊はあぶない。ヘタすると悪霊がとっつきますから。霊的な者には悪霊が襲ってくる。ところが、十字架は、サタンは嫌いなんです。「十字架!」というとサタンは逃げていく。十字架と聖霊は絶対に切り離してはいかん。十字架が土台で、そこに聖霊が臨んでくる。十字架のキリストを本当に受けとれば、必ず聖霊がきます。
「我れキリストと共に十字架せられたり。もはや、我れ生くるにあらず、キリストわがうちにありて生き給うなり」
とパウロが言ったでしょ。ガラテヤ書2章20節のあの言は大事な言葉です。キリストと共に十字架されている。本当に十字架されれば必ず聖霊が来ます。
私たちは皆エゴイストだ。エゴイストということは「罪びと」ということなんだ。
「義人なし、一人だになし」
とある。みな罪びとだ。ということは、みなエゴイストだということです。このエゴイストのエゴイズムがキリストの十字架ですっ飛ばされた。だから、私はキリストの無者なんです。相対的人間小池はダメな者です、ゴタゴタしてます。そんなことはいい。その奥の世界にはもはや何びともこれを否定することのできない無の世界がある。私の無い世界がある。私はキリストの無者です。根底においては十字架で私はキリストの無者になった。これを根源現実と言います。私の根源現実は無である。そこには聖霊が臨む。だから、十字架と聖霊は切り離してはいかん。十字架の土台のない聖霊なんてあぶなくてしょうがない。十字架・聖霊は切り離すことのできない関係にあります。キリストがそれを言われた。ルカ伝12章49~50節、これは大事な所です。
「49我は火を地に投ぜんとて来(きた)れり。
「火」とは聖霊のこと。洗礼のヨハネが
「あの人は火と霊を降(くだ)す人だ」
と言った。
「聖霊を地に投ぜんとて来れり」
ということです。
此の火すでに燃えたらんには、我また何をか望まん。
「聖霊が灯(とも)れば、与えようとするものはもう何もないんだ」
と。
50されど我には受くべきバプテスマあり。その成し遂げらるるまでは思い逼(せま)ること如何許(いかばかり)ぞや。」(ルカ12・49~50)
キリストの「受くべきバプテスマ」とは十字架のことです。即ち、
「聖霊を降そうとしているのだけれども、その前に受くべきバプテスマ、十字架がある。十字架に架かって、それから、お前たち祈って待っていろ。そうしたら、聖霊が臨むぞ」
とキリストは言われた。キリストの構造が、十字架を土台にして聖霊を与える構造になっている。だから、十字架と聖霊は絶対に離してはいけない。キリストは地上においては決して聖霊を与えなかった。十字架に架かって、復活昇天してから、ペンテコステで霊を降(くだ)した。火の如く、風の如く。
●我を食らえ
聖書に書いてあることは全部本当の現実ですから。
「こんなことがあるか?」
なんて言って見ているのはダメなんだ、驚嘆して読まなければ。そして、その中に自分を投げ入れなければ。
「我を食らえ、我を飲め」
とキリストは言っている。キリストを食べなければダメなんです。信ずるのではない。ヨハネ伝15章には、
「私に連(つら)なっていろ。私は葡(ぶ)萄(どう)の樹(き)で、お前たちは枝だから、連なっていなければダメだ。繋(つな)がっているんだ」
と。そういう離すことができない関係です。それはもう十字架ですっ飛ばされているから、私たちは遠慮なしに、
「はい、ありがとうございます」
と言って、キリストを迎え入れたらいい。
「でも、私はこんな者ですから…」
なんて、そんなことを言う必要はひとつもない。キリストは、
「お前はそんな者だからこそ、私は入っていくぞ」
と仰る。過越の祝いの時に、キリストはペテロの足を洗おうとした。そしたら、ペテロは、
「いや、もったいない、どうぞ私の足なんか洗わないでください」
と言ったら、キリストは
「お前の足を洗わなければ、お前とは関係がなくなるぞ」
と仰った。即ち、キリストは私たちの罪を贖(あがな)う関係にある。罪を贖われないで、キリストとの関係が結べるかというんだ。「洗足」というのはそういうことです。
●賜りたる無
「恵福(さいわい)なるかな、霊の貧しき者よ」
という。ところが、私は霊が貧しくない。どうしたらいいか。
「恵福なるかな、汝、わが十字架によって無の世界を賜(たまわ)りたる者よ」
と、私にはそう響いてきた。私は霊が貧しくないんだ。そこで、キリストから無を賜った。我の無い世界を、自我の無い世界を賜った。私の無は禅宗のように悟った無ではない。賜(たまわ)りたる無なんだ。
禅宗の坊さんは一生懸命で瞑想して無の世界に入る。お釈迦さんがどんなに偉くたって、キリストとはケタが違う。もう東西古今、イエスだけです。お釈迦さんは最後に悟った。「悟った」なんていう世界ではない。福音書を読んで、キリストに圧倒されていなくては。圧倒されて、
「参りました!」
と言うと、その世界に入れてくださる。降参しなければダメです。
「これはどういう意味だ?」
なんて。意味ではない。「私の意味をさぐれ」なんて、どこにも書いてない。いわゆる読むのでなくて、聖書を食らう、聖書を飲むということ。だから、キリストは
「我を食らえ、我を飲め」
と仰った。生命の本当の繋がりの世界に無条件に入れられる。
「お前はこうだから、ああだから」
なんて、人間が他の人に言うような、そんなことはひとつもキリストは仰らない。絶対無条件です。
●平伏し
もう平(ひれ)伏(ふ)すだけです。平伏さなければダメですよ、いい気になったら。よく、謙遜と言うが、謙遜ではない。本当に神の前に、キリストの前に平伏さなければ、その世界に入れない。「平伏さなければ」と言うけれども、「ねばならない」ではない。平伏せられてしまう。ぶっ倒される。平伏さなければ、キリストとの関係はできない。そうすると、平伏しが本当の「仰ぎ」になる。仰ぎ見ると言うけれども、ただ、仰ぎ見るのではない。平伏すと、キリストの光が私たちの身体の中に浸透してくる。キリストも祈られた時に、「平伏して」と書いてあるでしょ、ゲッセマネの祈りの時に。
●キリストの中に生き動きまた在る
とにかく、我々一人一人が本当にキリストを生きるかということです。パウロがアテネでしゃべった、使徒行伝17章28節の
「我らは神のうちに生き、動きまた在るなり」
という言葉が大事です。私たちは「神のうちに」ではない、「キリストの中に」です。
「キリストの中に生き動きまた在るなり」
ということ。これが現実にならなければ、クリスチャンではない。信ずるなんていうものではない。現実ですから。現(うつつ)の世界です。信ずる世界ではない。信ではなく、現である。
「私は信じています」
なんてダメです。だから、「信仰」なんていう言葉は躓きになる。私は随分乱暴なことを言うけれども。「しんこう」と書きたいなら、「信交」と書きなさい。仰いでいたってダメです、キリストと交わって一つにならなければ。本当の現実というのは皆、一の世界なんです。一如(いちによ)ということです。
私みたいなものが本当に権威をもってものが言えるのは、キリストが私と一つになってくださるからです。私は皆さんに説明なんかしているのではない。告白しているんです、
「このようなことでございます」
と言って。もう私はありがたくてしょうがない。私は立っているけれども、本当は平伏しているわけです。
●わが現実は汝のもの
「恵福(さいわい)なるかな、我が十字架によって無とせられたる者よ、即ち、霊が貧しくされたる者よ。天国は汝のものなり」
ということ。「天国」とはキリストの現実です。
「わが現実は汝のものとなった」
ということです。もう私は天国体なんだ、地上にありながら。回りに天国を現じながら歩いていく。そういうことになるわけです。
私がいつかしゃべっていたら、私の回りに熱い炎が立った、と誰かが炎を見たと言う。そういうこともたまにある。それから、私の後ろに天使が立ったのを見たと言う。時にそういうような現象が起きる。
私は決して説明していない。告白している。「…について」語っていない。「…の現実」を告白しているだけです。何々についてというのはダメなんです。その中からものを言うようにならなければダメです。キリストの中からものを言うのでなければ、私は集会なんかしません。
私は集会のいわゆる会員なんて考えてません。出るも入るも自由自在です。出たい人はいくらでも出て行ってください、来たい人は誰でも来なさい、区別しませんから。私は無者だから、無者を捕(つか)まえようとしたって、捕まえようがない。無なんだから。
禅の世界も素晴らしい。とにかく、無の世界を探究しているから。禅宗の最後の素晴らしいのは一休だ。一休は無の世界だ。浄土真宗の最後の凄いのは一遍上人です、法然や親鸞より凄い。捨(すて)聖(ひじり)といわれる。自分が無い。自分を本当に棄ててかかっている。一遍上人と一休坊主は、浄土真宗と禅宗の終りの方の凄いやつだ。仏教でも、一流の坊さんとなるとなかなか面白い。
●本当の出発点
今日の話は、無の世界がいかに大事な根底であるかということを、まずしっかりと把(つか)んでいただきたい。キリストが無者で、無即無限無量なんです。だから、
「我を見し者は父を見しなり」
ということが言えた。自分が空っぽになると、無限なものが入ってくる。我々はみな自分が相対的にそれぞれありますよ。けれども、そんなものを問題にしないで、自分を本当に平伏して無者にされると、その人が賜った才能や知識やいろいろなものが全部、今度は神のものとして善用されてくる。そして、それが力をもって働きだす。ありがたいですよ。無の根底に入らないと、それだけのことができてこない。いい加減なことになってしまう。だから、本当の出発点はこの無の世界です。それも、自分で悟った無ではなくて、賜りたる無なんです。
キリストがくださった無だから、皆さん、遠慮なくいただいたらいい。十字架で無を、私の無い世界をくださったのだから、そうしたら今度は、聖霊がやってきて、今まで「こんなことはできない」と思うようなことがどんどんできるようになる。これは不思議なものですよ。それが学問であろうと、何か仕事であろうと、何であろうと、聖霊というのはもの凄い豊かな内容ですから。聖霊というものは無限無量の内容をもっている。聖霊に代えるものは何もない。私は自分の体験から告白している。
使徒たちはそういう現実で生きていた。だから、
「使徒的信交に帰れ、キリスト直結で行け」
と私は言っている。どこの教会に属していようがいい。とにかく、問題はその一人一人が本ものであるかどうか、キリストを本当に生きているかどうか、それだけのはなしです。その一人の人がその一つの教会を全部、背負っているような気持でいい。男でも女でも、老いたるも若きも、そんな相対的なことは問題でない。み霊のキリストがそれだけもの凄いということを、どうぞ、いよいよ体験していただきたい。
キリストの無者であること、それが本当の根底であり出発点である。そうして今度は、そこに本当に聖霊が臨んでくる。
●キリストの中に祈り入る
旧約聖書ではイザヤ書が一番すごい。詩篇ではない。詩篇というのはこちらからの祈りだから。本当の祈りはお願いではない。祈り入る、祈入、キリストの中に祈り入ること。キリストの中に入って、そこから何かお願いしたらいい。キリストの中に入らないうちにお願いしたってダメです。キリストの中に入ったら、そのお願いは私利私欲のお願いができなくなる。自然に聖(み)旨(むね)にそったお願いになってくる。
「神さま、私はどうなったっていいですから、どうぞお使いください」
という祈りになってくる。
「あの人を助けてください」
と、その人が知らなくたって遠隔祈祷ができる。それは霊波の方が電波より凄い。相手がアメリカにいたって、どこにいたって構わない。み霊の霊の現実というのは凄い。
王の近臣が、
「私の子が死にそうだ」
と言ったら、キリストは、
「汝の子は生くるなり!」
と言った。その子は何キロ遠い所にいたのだか知らないけれども、もう治ってしまっている。そういう人だからね、イエスというひとは。だから、キリストの中に入れば、我々もそういう質になってくる。
「そんなことは私にはできません」
ではない。キリストの中に入れば、誰だって可能な世界です。キリストと、
「われ汝のうちに、汝わがうちに」
という世界です。
「父わがうちに、われ父のうちに」
と、キリストはヨハネ伝で言ってらっしゃる。あの通りです。ヨハネ伝14章あたりから凄い。
あなた方は一人一人が本当の光になってください、
「汝は世の光なり、教会の光なり」
と。あれは、
「私はお前の中に入って光となるぞ」
ということなんです。私たちは手放しで光なんかになれっこない。
「私が入れば光となって、影なんかなくなるぞ」
ということです。キャンドル・サービスというのがあるが、我々自身がキャンドルになる。そういうことをただ観念しているのではない。本当にその現実の中に入ると、何だか知らないけれど楽しいし、力がくるし、ありがたい。
●天の虹
私の号は「天弓」という。天弓とは虹のことです。虹は無色透明の水滴、太陽の光も無色透明。無色透明の光が無色透明の水にかかって、それが七色に光る。凄いね。本当は七色どころではない。そのように、キリストの光を受けて、我々一人一人が虹のどれかの色になればいい。青く光ったり、赤く光ったり、黄色く光ったり、橙色になったり、紫になったり、どれでもいい。そういうように、その人らしく光ってくる。音楽でいえばいろいろな音を発する。交響楽になる。そういうように、交響楽になったり、虹になったりするから、お互いに楽しい。お互いに認め合いながら、尊重しながら、助け合いながら、というわけだ。
人の欠点を見て何のかんの言うのはクリスチャンではない。それはサタンの手下になる。どうせ人間はみな欠点があるのだから、その人の良いところをちゃんと見て、その人の光を見て、お互いに交わらないとね。どうせ人間は相対的なものだから、そんなことでゴタゴタしたら始まらない。
キリストの光に包まれると本当に楽になる。イエスという霊止(ひと)は宇宙的なひとだから。過去・現在・未来にわたっている。過去を現在にすくい上げ、未来を現在に来たらしめる。
●現の世界
「聖(み)国(くに)を来たらせたまえ」
と言ったって、それは歴史の終末に新天新地は来るでしょう。しかし、「聖国を来たらせたまえ」というのは、自分たちの中に本当に聖国が来ているから、そう祈れる。
「天国は汝らのうちに在り」
というわけでしょ。観念したってダメです、みんなすべて現実でないと。思われている世界ではなく、現(うつつ)の世界です。現の世界であるためには、何としてもキリストと一つとなっていなければ現になれない。キリストと一つに、絶対無条件でなれるのだから。「私はなれません」では絶対にない。誰でもがキリストと一つになれる。そういうクリスチャンが本当のクリスチャンなんだ。ロマ書8章9節の
「キリストの御霊(みたま)なき者はキリストに属する者にあらず」
というパウロの言葉をひっくり返せば、
「み霊を宿す者はキリストに属すなり」
ということになる。パウロの言葉であろうと、イエスの言葉であろうと、その言葉の奥の響きを受けとっていかないとダメです。意味ではない。響きの現実を受けとる。
●霊が貧しくされて
マタイ伝5章の、
「恵福(さいわい)なるかな、霊の貧しき者、
というのが一番大事な言葉であるということ。霊がキリストで貧しくされて、そのゼロをいただいた。
天国はその人のものなり」
とはそのことなんだ。キリストはちゃんとそう言っているのだから。天国というのは「私のいるところ」ということ。
「私のいるところがその人のものになる」
と。神・キリストが愛をもってそこに支配したもう、恵をくださるところが天国だから。
「幸福(さいわい)なるかな」とは「恵福(さいわい)なるかな」と書かなくてはいかん。幸せというさいわいではない。あの「さいわい」という字は「恵まれたるかな」と言った方がいいくらいです。「恵福(けいふく)」あるいはハッキリと「恵まれたるかな」と言った方がいい。ドイツ語の「グルュックリッヒ」ではなくて「ゼーリッヒ」です。英語で言うと「ブレッセッド」だ。
「恵み」というのは聖霊が中心です。聖霊が恵みで、聖霊からいろいろなものが派生してくるのが「賜物(たまもの)」です。パウロがコリント前書12章で言っているとおりです。恵みの主体は聖霊であります。ルカ伝に、
「また、善きものを賜らざらんや」
と書いてある。「善きもの」とは聖霊のことです。
●本当の自由
ピリピ書2章5~8節、
「5汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。6即ち彼は神の貌(かたち)にて居給いしが、神と等しくある事を固く保たんと思わず、7反(かえ)って己を空しうし僕(しもべ)の貌(かたち)をとりて人の如くなれり。8既に人の状(さま)にて現れ、己を卑(ひく)うして死に至るまで、十字架の死に至るまで順(したが)い給えり。」(ピリピ2・5~8)
これがまさに無の世界です。「僕(しもべ)のごとく」ではない。「僕となった」でいい。神さまの僕となった。僕(しもべ)というのは主人の意志を行ずるので、自分の意志がない。無意志の世界です。「はい、はい」と、主人の言う通りに動いている。羊が牧者の言う通りに動くのと同じように。
だから、キリストのことを「神の羔(こひつじ)」という。神の言う通りに動いている。ところが、相手が絶対者でしょ。絶対者の言う通りに動くということは本当の自由ということなんです。自己にとらわれているような自由はわがままという。絶対者の意志に従って動いているのが本当の自由です。だから、普通の人は自由を知らない。自由とは自分の勝手が自由だと思っている。それは勝手気ままというので、自分にとらわれている。自我に囚われている自由は本当の自由ではない。本当の法則に、霊の法則に、霊法に従うことが自由なんです。
●キリストに在って
ロマ書7章の終りから8章の初めの方で、
「24噫(ああ)われ悩める人なるかな、此(こ)の死の体(からだ)より我を救わん者は誰ぞ。
と、パウロが絶叫している。
25我らの主イエス・キリストに頼(よ)りて神に感謝す、然(さ)れば我みずから心にては神の律法(おきて)につかえ、肉にては罪の法(のり)に事(つか)うるなり。
1この故に今やキリスト・イエスに在る者は罪に定めらるることなし。
「に在る」という言い方は大事なんです、「の中にいる」ということですから。祈りの時もよく、
「キリストによって」
と言うが、「によって」というと多少、手段的な気持になる。「キリストによって」ではない。
「キリストに在って」
ということ、
「キリストの中でお祈りします」
ということです。「に在る」ということは大事なことなんです。
2キリスト・イエスに在る生命(いのち)の御霊(みたま)の法(のり)は、なんじを罪と死との法(のり)より解放(ときはな)したればなり。」(ロマ7・24~8・2)
「キリスト・イエスに在る生命の御霊の法」
とは非常に大事な言葉です。み霊の法則は自由の法則です。法というと何か非常に堅苦しいように思うけれども、本当の自由は法の世界です。霊の法、み霊の法、霊法。霊法が本当の自由の世界です。キリストは霊法によって動いていた。神さまの意志は霊法ですから。
●信行・信交
「聖(み)意(こころ)を成させたまえ」
という。これは傍観して言っているのではない。
「どうぞ私をお使いください、聖意が成りますように」
ということです。あれは傍観しているのではなくて、自分を提身している祈り、身を投げ出している祈りです。よく、「お任せします」なんて言うが、いい加減なことで言ったらダメです。
「どうぞ、私をお使いください」
というのが「お任せします」なんです。「私は何もしませんが、どうぞ良いようにしてください」なんて、そんな虫のいい話はない。そんなのは信仰でも何でもない。
「しんこう」は信じ交わる「信交」、或いは信じ行く、行う「信行」です。仰いで(信仰)いたってダメなんだ。信じ行く、キリストの所へ行く、信行。キリストの中へ行って、キリストの中へ入ると、信じ交わる世界になる。そうすると今度は、行くという言葉が信じ行うになる。本当に信ずるということは、必ずそこに行が同時に起きてこなければ、本当の信ずるではない。「しんこう」の「こう」の字は「仰」ではダメです、「行」と書かなければ。信じ行う信行です。
その点では、ヤコブ書は本当なんだ。
「ヤコブ書は信仰と行為のことを一生懸命に言っているが、あれは藁(わら)の書翰(しよかん)だ」
なんて、ルッターは余計なことを言ったが、ルッターは大間違いだ。「藁の書翰」ではない。ヤコブ書は大事なんだ。
信と行とが一つとならなければ、本当の信行ではない。我々の行は破れた、派生的な随分情けない行のようであるかも知れないが、とにかく、行がそこに動いていなければダメなんです。どれだけ行だか知らないが、それでなければ、その信は空しい信である。
●イズムを超える
キリストのお弟子さんたちはみな交わりの世界です。いわゆる個人主義では絶対にない。私は「主義」という言葉は嫌いだ。主義というものは限定するからダメなんです。「イズム」が嫌いだったのがゲーテです。さすがはゲーテです、
「いろいろなイズムを超えなければ本当の世界に入れない」
と言った。その通り。何々主義というのはダメなんだ。社会主義だとか、民主主義だとか。
日本の民主主義というのはしょうがない。神無き民主主義だから。リンカーンは
「アンダー ゴッド(神の下に)」
とちゃんと言っているんだ。日本には「アンダー ゴッド」がない。神無き民主主義なんてものは身勝手主義でしょうがない。情けないね、日本が精神的に一番おかしいのではないかな、いい気になっているが。「経済大国」なんてダメだよ、そんなのは。
どんなに回りが暗黒であっても、光は闇に負けません。あなた方一人一人が本当にキリストの光を発していれば、どんなに暗黒でも必ずそれに勝っていく。レンブランドの絵に片一方から一つの光がサッと臨んでいるのがある。ああいうのは僕は好きだね。
●魂の教育
「さいわいなるかな」は「恵福なるかな」と、必ず「恵」の字を付けてください。あるいは、「恵まれたるかな」と、そのままの方がまだいい。
「恵まれたるかな、霊の貧しき者よ――霊を貧しくされた者よ、そうすると、聖霊の世界――天国はその人のものなり」
ということです。本当にありがたい。それで、キリストのあの言葉は活きてくる。
「恵福なるかな、わが十字架によって霊の貧しくされた汝、天国は汝の回りにあり、汝の中にあり」
という言葉になる。これは何も、イエスを真似したのではなくて、イエスからいただいた世界だから。
そうすると、我々がいただいている相対的な能力が全部もの凄く展開をはじめる。棄てたと思ったものが、今度は動きだす。あなた方のお子さんに是非そういう角度から教育してください、学校の教育はダメだから。教会が本当の教育をする。
魂の教育はお母さんがする。女の方は非常に大事なんです。大体、偉い人のお母さんはみな魂の質がいい。お父さんではないんだ、お母さんだ。子供を育てるものは何といっても母親ですから。歴史をつくるのも女性です。女性は縁の下の力もちだ。天国では女性が上位でしょうね。
キリストが十字架に架かろうという前に、キリストに大事なナルドの香油を頭から浴びせたのは七つの悪鬼を追い出されたマグダラのマリヤでしょうが。キリストはマタイ伝26章13節で、
「13誠に汝らに告ぐ、全世界、何処(いずこ)にても、福音の宣(のべ)伝えらるる処(ところ)には、この女の為(な)しし事も記念として語らるべし。」(マタイ26・13)
と言われた。女性教育は本当は大事なんだ。ドイツのビスマルクが
「自分の一番の恩人は小学校の先生だ」
と言った。やはり、ドイツは小学校の先生はちゃんと立派な人を選んでいたらしい。今の小学校の先生はどうだろうね。日本の先生方が――仏教でもいいよ――本ものをつかんで、宗教の世界を本当に心の中にもって教育をしなければ、教育にならない。教育者が宗教を持たなかったら、本当の教育はできない。それくらい日本は情けない。だから、仕方がない。教会にいらっしゃっている方々がご自分の家庭で、しっかりした教育をしてください。雑然たる世界だけれども、我々は本当にキリストの光となって、回りに天国を現じながら歩いていく責任と光栄がありますので、お互いに大いにやっていきましょう。
生きることは使命をもつこと、使命を果たすことです。
「職業がどうだこうだ」
なんてことではない。日本人はどうも、
「どこの学校を出た」
だのと、どうでもいいことばかり考えているからしょうがない。そんなことは問題でない。その人の本質、本当の実力はどうだ、ということだけです。
●無に徹する
要するに今日のお話は無に徹することをお話したかった。その徹することも、キリストから賜った無を本当に自分の土台とすること。そうすると、無即無限無量になってくる。この無は虚無ではない。無限無量を展開する無です。キリストが無だったから、無限無量になったんだ。
「我を見し者は父を見しなり」
ということになっているのだから。そういう無の世界だということ、我無き世界は一番凄いということ。これが賜りたる無の世界です。禅宗の無よりも凄いんだ。悟って無になるのはご苦労さんなはなしだ。
浄土真宗の方も最後は弥陀の本願に自分を全部任せていくような世界でしょ。禅宗の方は本当に無の世界を持っている。どちらもとにかく、自分を無きものにしていく世界である。一遍上人と一休だ。ところが、福音の世界は、キリストからいただいた無でもって、その両方がちゃんと持てる。
福音の世界というのは凄い。いろいろな善きものを全部、限定できる。みな含んでしまう。キリストの世界というのは、自然科学をやろうが、何をしようが、本当の霊知の世界です。エピグノーシス、霊的な知なんです。聖霊の智慧です。聖霊は豊かな智慧を持っている。「聖霊」というと、何か冷たい清水みたいなものと思うけれども、そうじゃない。暖かくて熱くて、広くて豊かで、限りない内容をもっている。絵を描こうが、何かものを作ろうが、台所の仕事をしようが、全部これは聖霊の働きで、自覚しなくてもそれが動いていく。み霊(たま)に代えるものは一つもありません。
そして、このみ霊の土台は十字架です。無即無限無量というのは十字架即聖霊ということになる。即というのはお互いに離れない即なんです。いわゆるイコールではない。不可離の関係にあるということです。十字架・聖霊は不可離の関係にある。十字架といえば、聖霊がそこに動く。聖霊といえば、その土台に十字架がある。これは離してはダメです。そういうクリスチャンは本当に健全です。
よく「聖霊、聖霊」と言っている。そして「一生懸命で祈って聖霊をもらおう」なんて。そんなことではない。聖霊は受けとる世界だ。いわゆる烈しい祈りが祈りでも何でもない。くたびれてしまうだけだ。黙って受けとればいい。
●「主さま!」の一言
私は起きたり寝たりするときに、床(とこ)の上に坐って、黙って沈黙の雄叫びの祈りをする。私はただ、
「主さま! ……」
と祈る。「主さま」の一言。私がこの沈黙の叫びをすると、キリストがグッーと入ってくださる。「主さま」と言って私は自分を投げ出す。そうすると、キリストが入ってくださる。私の祈りは簡単なんだ。何も他に祈らない。
「どうぞ、いいようにしてください」
と祈る。
「どうなってもいいです、人にどう扱われようが、そんなことは一向差し支えありません。何と言われようが一向差し支えありません。あなたはご存じです」
と、それでいい。何か躓いたり転んだりしたら、
「申し訳ありません」
と、平伏す。誤魔化してはいかん。神・キリストは絶対にごまかせませんから。どうせ、人間はお互いさま五十歩百歩だ。いいんだ、どうだって。そこに五十歩百歩でないゼロがきている。そのゼロが、無が大事なんだ。
禅宗の坊さんよりももっと凄い無をいただいている。浄土宗の我無き世界よりももっと凄い。福音の世界の無というのは凄いんだ。賜りたる無というのは一番凄い。「それはズルいよ」なんて、ひとつもズルくはない。平伏して、絶対恩寵を賜るだけです。
あなた方、こうやってお聴きなっていて楽しいですか。楽しくなければダメだよ。うれしくてしょうがないと。福音だもの。福音なんて言わないで、喜(よろこび)音(いん)と言った方がいい。福音なんて私は言いたくない。福(しあわせ)なんて要らない。私は霊韻(れいいん)と書く。霊韻の世界です。
●廓然無聖
粱(りよう)の武(ぶ)帝(てい)というのが達(だる)磨(ま)さんに聞いた。
「如何(いか)なるか正諦(たい)の第一義。
磨曰く、廓然無聖(かくねんむしよう)。
帝曰く、朕(ちん)に対する者は誰なるぞ。
磨曰く、不識。」
「廓然無聖」というのは素晴らしい言葉です。「廓然」というのは非常に広々としていること、「無聖」とは聖が無いということ。聖俗、清濁なんて、そんなものではないということです。
相対的な判断の要らない世界が本当の宗教の世界です。概念を超えた世界です。仏道やキリスト道の成層圏的な世界になると、次元的に非常に似ている。こちらの一流の坊さんと使徒たちとが同じような次元にいる。これはみな本当の霊の世界です。天界でお釈迦さんとキリストは何も喧(けん)嘩(か)なんかしていない。どうぞ、広くなってください。しかも、福音の世界は一番凄いですから、仏道の世界でも全部包摂できる。だから、何を読んでも、全部これを本当に消化できる。それだから、キリストは凄いんです。いくらお釈迦さんが偉くたって、キリストにはかないません。イエス・キリストは絶対ですから。
福音書を読みながら、意味ではなくて、キリストに圧倒されながら、お読みいただきたい。そうすると、力が来てしょうがない。
●文語訳聖書
私はあなた方に聖書の口語訳はお薦(すす)めしたくない。文語訳がいい。口語訳で、「何々であろう」と書いてあるでしょ。「であろう」ではない。「であろう」という世界は蓋然(がいぜん)性の世界になってしまう。ギリシア語で未来形だからといって、よく口語訳では「何々であろう」と書いてある。「であろう」というと、日本語は未来形ではなく、「でありましょう、そんなことであるらしい」という蓋然性の世界になってしまってダメなんだ。文語では「何々なり」「何々べし」となって、この方がハッキリしていい。福音の世界は全部現在の世界ですから。過去も未来も現在化するんです。永遠の現在を持っている。
福音は現実なんです。現実に本当に生きたもの。ユダヤ人がそういう角度の民族です。だから、ユダヤ人というのは凄い。ヘブライ語というのはそうなんだ、時称がないから。完了と未完了しかない。しかも、それも時に関してない。だから、旧約聖書なんていうのは、「こういう訳(やく)です」なんて本当は誰も言えない。
福音の世界は「である」の世界です。讃美歌でも、「何々ならん」「何々たまわん」なんていうのは、私は気が抜けてしまうから「何々なり」「何々たもう」と歌ってしまう。全部、現在で断定している世界です。「何々であろう」なんて、口語訳で読んでいると、気が抜けてしまう。文語訳の聖書に変えた方がいい。漢文というのはいい。今の若い人はもっと漢文を勉強するといいと思う。
とにかく、信の世界は現(うつつ)の世界であるということ。ただ信仰なんて言っているのではない。現実の世界です。すべて現在です。永遠の現在です。そういうのが本当の現実で、死んでも死なない世界です。だから、現在において永遠をつかんでいる。永遠というのは時の流れではない。質的に滅びないものを永遠という。不滅の世界、不滅の現実です。そういうことでいきましょう。

