第十巻『聖書は大ドラマである』から
第十巻『聖書は大ドラマである』から
創世記5、22、出エジプト20、エレミヤ23、列王記略下4、ヨブ19、詩篇118
第6回バルナバ・アシュラム(3) 1993年5月4日
小池辰雄
【目次】
●[1月3日]夫婦一体 ●[1月6日]エノクの歩みと昇天 ●[1月12日]独子の献供 ●[1月21、22日]十言 ●[3月17日]エリシャの無尽の油 ●[3月28日]われ知る、われを贖う者は活く ●三日月の中に満月性が ●[5月4日]隅の首石 ●十字架上の義と愛の叫び
【創世記】
「これぞわが骨の骨、わが肉の肉。」(創世記2・23)
「エノクは神と共に歩いていたが、居なくなった。神が彼を取り去ったので。」(創世記5・24)
「10アブラハムは手を伸(の)べ刀を執(と)ってその子を屠(ほふ)ろうとした。11時にエホバの使者(つかい)天から彼を呼んで「アブラハムよ、アブラハムよ」と言った。彼は応えて「ハイ! ご覧のとおり!」12使者は言った「お前の手をその子にかけるな、彼に何もするな。今や私は知った、お前が神を畏(おそ)れる者だということを。即ちお前の独子(ひとりご)をも私の為に惜しまないから」」(創世記22・10)
【出エジプト記】
「我は汝(な)が神実存主(エホバ)汝をエジプトの地その僕(しもべ)たる家より導き出せし神なり。
(第一言)汝にはわが面(かお)の前他神(あだしかみ)在らじ。
(第二言)汝汝(な)がため偶像を彫るまじ。
(第三言)汝(な)が神実存主(エホバ)の名を空しくは言挙(ことあ)げすまじ。
(第四言)汝安息日を憶えてこれを聖とせよ。
(第五言)汝(な)が父を汝(な)が母を敬え。
(第六言)汝殺人せじ。
(第七言)汝姦淫せじ。
(第八言)汝盗まじ。
(第九言)汝その隣人に偽りの証(あかし)を立てじ。
(第十言)汝その隣人の家を貪らじ。」(出エジプト20・2~17)
【エレミヤ】
「預言者輩のために我心はわが衷に壊(やぶ)れわが骨は皆震う且つエホバとその聖言(きよきことば)のためにわれは酔える人のごとく酒に勝たるる人のごとし。」(エレミヤ23・9)
【列王記略下】
「往ってその油を売って、その負債(おいめ)をつぐのい、貴女(あなた)とあなたのお子達はその余分で生活しなさい」(列王記略下4・7)
【ヨブ】
「25われ知る我を贖う者は活く。遂には彼れ土泥(つちひぢ)の上に立ち給わん。26彼らわが皮膚(はだ)を腐食せしめ、わが肉の離れし後に我れ神を見ん。27我れ彼をわが身近かに見ん。我見るに他人(よそびと)ならじわが腎(むらと)わが腹底に絶え入るばかり也。」(ヨブ19・25~27)
【詩篇】
「19我に義の門開け、我その中に入りて神(ヤハ)に感謝せん。
20是(こ)は神(エホバ)の門なり、義人はその中に入るべし。
22建築師(いえつくり)らの棄てたる石は隅(すみ)の首石(おやいし)となれり。
23是(こ)は神(エホバ)に由ることにして我らの眼に奇異とするところなり。
25神(エホバ)よ、願わくは今救い給え、神(エホバ)よ願わくは今栄えしめ給え。
27神(エホバ)は神(エール)なり、彼は我らに光を与え給えり。
28汝はわが神(エール)なり。我汝に感謝す。わが神(エロヒーム)よ、我汝を崇(あが)めまつらん。29神(エホバ)に感謝せよ、恵福(めぐみ)深く、その愛は永遠なればなり。」(詩篇118・19…29)
●[1月3日]夫婦一体
私の書かされた全十巻の中で一番大事なのは第十巻の『聖書は大ドラマである』(1988年刊)です。これは一年三六六日、毎日一頁づつ読めるようになっている。大体、これは聖書の縮図みたいなものです。第十巻の中から或る箇所を選んでお話しいたしましょう。
天地創造で植物や動物が造られて、最後に人間が造られた。この本の1月3日のところです。
1月3日「夫婦一体」(創世記2・18~25)
「これぞわが骨の骨、わが肉の肉。」(創世記2・23)
これは聖書の最も古い言葉です。アダムがエバに対して語った一番最初の短い詩なんです。あの神話では、アダムの肋骨をとって肉付けをしてエバを造った。これは神話の形をもった、素晴らしい創造の秘義、ミステリオンです。その時に先ず、神さまはアダムを深く眠らせた。私はハッキリそうつかまえます。霊的な麻酔状態です。神さまはみずからの祈りをもって、そういうエバの創造をなさった。
アダムというのはアダマー(土地)から来た言葉ですけれども、
「土をこねて人を造った」
というのが創世記2章に書いてある。即ち、エバはアダムの中から、「イーシュ」(男)からできあがったので、それに女性語尾をつけて、「イッシャー」(女)という。マルティン・ルターは「マン」(男)というドイツ語に語尾をつけて「メンニン」(女)と訳している。さすがはルターです。
「これこそは私の骨の骨だ、私の肉の肉だ!
その名は女(イッシャー)だ、男(イーシュ)から取られたからだ。」
実に素晴らしい表現です。だから、切っても切れない関係です。一なるものが二になった。一者が二者になった。一人が二人になった。AとBになった。AとBに分かれたから、このA・Bは離すことのできない二にして一なるものです。だから、夫婦関係というものは二にして一体なんです。神話からして、そういうようになっている。
エバはヘブライ語ではハッワー、生き物、生かすものという意味です。女性は生命を与える者です。母親というものはそうです。
女性は何といっても、神さまの創造の最後の創造ですから、しかも、傑作ですから、女体というものは神さまの創造の最高傑作です。
●[1月6日]エノクの歩みと昇天
その次に1月6日のところ、
1月6日「エノクの歩みと昇天」(創世記5・21~24)
「エノクは神と共に歩いていたが、居なくなった。神が彼を取り去ったので。」(創世記5・24)
ここだけは、
「エノクは居なくなった」
と書いてある。他はみんな「死ねり、死ねり」と書いてあるのに、エノクのところだけは「居なくなった」と書いてある。
彼は六十五歳のときメトセラを生んでから三百年間神と共に生きながらえた。彼の地上の生涯はふしぎにも三六五年間で、一年の三六五日と偶然に一致しているので面白い。
「神と共に歩んでいた」
とある。「共に」と言ったって、ただ共にではない。彼が私意を去って神意と一つになって生活したことを意味する。即天去私の無的実存の在り方であった。
「エノクは居なくなった」
見えなくなった。これは素晴らしい。死を見ないで向こう側に行ったのは、エノクとエリヤです。キリストも、もちろん天界に行けたひとです。けれども、これは特別に十字架に架からざるを得なかった。エノクとエリヤは死を見ずして次の世界に行ってしまった。本当に神さまと生命が一つとなっているので、これを取り上げてしまった。その歩きかたがいかに神と一つであったかということが、その「エノクが見えなくなった」ということで証しされているわけです。
●[1月12日]独子の献供
1月12日「独子の献供」(創世記22・1~19)
「10アブラハムは手を伸(の)べ刀を執(と)ってその子を屠(ほふ)ろうとした。11時にエホバの使者(つかい)天から彼を呼んで「アブラハムよ、アブラハムよ」と言った。彼は応えて「ハイ! ご覧のとおり!」12使者は言った「お前の手をその子にかけるな、彼に何もするな。今や私は知った、お前が神を畏(おそ)れる者だということを。即ちお前の独子(ひとりご)をも私の為に惜しまないから」」(創世記22・10)
「独子を献げろ」と言われた時に、アブラハムは「なぜだ?」とはひとつも言わない。黙って従った。これが本当の信行なんです。「お前の子孫は空の星のごとく、海の砂のごとくたくさんになる」と約束されながら、その大事な「息子を捧げろ」と言う。神さまの命令はわけが分からない。けれども、黙ってこれに従ってイサクを献げようとした。これは神が人類のためにキリストを犠牲になさろうとすることの予表になるわけです。それを黙ってした。
テニソンの詩に、クリミヤ戦争の時に、突貫すれば全部全滅するに決まっているような状況において、「突撃しろ」という命令が出た。その時に、「なぜ、我々が突撃しなければならないか、無謀ではないか?」と普通なら上官に言うところですが、黙ってこれに従って全滅した。これが、
“No reason why, but to do(go) and die(kill)”(テニソンの詩句)
「何故(なぜ)との理由なく、ただ実行して(往きて)死する(殺す)のみ」
という有名な句です。アブラハムもそのように、イサクを殺そうとした。これがキリストの十字架の予表として、一つの預言みたいになっているような所です。
●[1月21、22日]十言
1月21、22日「十言」
「我は汝(な)が神実存主(エホバ)汝をエジプトの地その僕(しもべ)たる家より導き出せし神なり。
(第一言)汝にはわが面(かお)の前他神(あだしかみ)在らじ。
(第二言)汝汝(な)がため偶像を彫るまじ。
(第三言)汝(な)が神実存主(エホバ)の名を空しくは言挙(ことあ)げすまじ。
(第四言)汝安息日を憶えてこれを聖とせよ。
(第五言)汝(な)が父を汝(な)が母を敬え。
(第六言)汝殺人せじ。
(第七言)汝姦淫せじ。
(第八言)汝盗まじ。
(第九言)汝その隣人に偽りの証(あかし)を立てじ。
(第十言)汝その隣人の家を貪らじ。」(出エジプト記20・2~17)
これは「十戒」と書いては本当はいけない。「十言」なんです。
「汝は我の他にいかなる神も拝むべからず」
という訳になっているでしょ。これは本当の訳ではない。
「汝にはわが面(かお)の前に他神(あだしかみ)は在らじ」
ということです。
「他の民族の他の神々はあるよ。けれども、私の顔の前には、私だけがお前イスラエルの神だ」
ということ。拝一神なんです、唯一神ではない。他の神々は認めている。けれども、「私の顔の前には、私だけがお前の神だ」という、これが神さまとイスラエルの関係です。これが本当の人格関係なんです。神格・人格関係です。我々の関係、人格関係というものは比較してはいけない。
A、B、C、これが社会の一番簡単な構造です。AとBとの関係、BとCとの関係、CとAとの関係は、それぞれが相対でありながら絶対なんです。比較してはいかん。「BとAとの関係、BとCとの関係がどうだこうだ」なんて、比較してはいかん。それぞれがみな絶対的なものを持っている。これが人格関係ということです。我々の交わりは、そういった相対における絶対関係ですから、他のものと比較してはいかん。人格は神さまに直結しているものですから、お互いにそれは絶対なんです。「あの人がどうだ、この人がどうだ」なんて、そんなことはひとつもない。人格関係というものは、そういう絶対性を持ったものであるということです。
「わが顔の前に何をも神とするな」
ということ。
「神々はあるよ。けれども、私の顔の前には私とお前の関係の他にないんだ」
ということです。これがイスラエルとエホバの神さまとの関係なんです。
「汝にはわが面の前に他神は在らじ」
或いは在らずです。どちらでもいい。あの「ロー」という否定詞は、「在るべからず」ではない。「べからず」なら、「アル」という字があるけれども。
「汝汝(な)がために偶像を彫るまじ」
「彫らないねぇ」ということです。
「汝(な)が神エホバの名を空しくは言挙(ことあ)げすまじ」
ということ。
あれはみな「べからず、べからず」と書いてあるけれども、そうではない。ということは、神さまがイスラエルの民を信じてかかっているんです。
親子関係もそうです。私と息子の関係、私と娘の関係は、そういう信愛関係です。権利義務ではない。信愛関係です。社会でも学校でも会社でもみな本当は信愛関係でなければダメなんです。権利義務ではない。信愛関係が本当の関係になっていれば、そこはもう組合も何も要らん。
「汝安息日を憶えてこれを聖とせよ」
「汝(な)が父を汝(な)が母を敬え」
この二つは命令的な形になっています。父母を敬うという日本の本来の敬愛関係がだいぶこの頃は薄くなっている。民主主義という社会的な構造が家庭の中にも入ってきている。そんなことではダメなんだ。家庭の中はどこまでも信愛関係です。ところが、親を親とも思わないような、何でもみな同じような気持でもって、言葉の使い方もだいぶ乱暴になっている。どうもおかしい。もう少し元へ戻さなくては。
エホバの神とイスラエルの民との関係が信愛関係のそういう言葉である。「すべし、すべからず」という訳はまちがい。これがモーセの「十言」、十の信愛の言なんです。戒めではない。断言的な言葉です。
「汝、殺すなかれ」
ではない。
「汝は、殺人はしない。私がお前の神だから、殺人なんかしないねぇ」
という、神さまはイスラエルの民を信じてかかっている言葉です。
「汝姦淫せず」
「汝盗まず」
「汝その隣人に偽りの証(あかし)を立てず」
「汝その隣人の家を貪(むさぼ)らず」
と、全部、断定的なんだ。或いは、「貪らじ」くらいならまだいいけれども。
実はモーセの律法は隠れた福音なんです。福音の世界は信愛の世界ですから。律法が歴史的に誤られた。イスラエルの民はいわゆる律法にしてしまった。本当は律法の奥に福音が隠れていたのを、イスラエルの民はそういうような取り方を歴史的にしなかった。いわゆる律法にしてしまった。だから、
「律法の義では救われない」
とパウロが言っているのはそのことです。
親子関係でもみな信愛関係です。先生でも、
「君たちは勉強するよ。私は信じている。だから、試験はしない」
と、これが一番いい学校なんだ。
律法は罪を刺激する。けれども、福音は、その本当の関係をそこに結ばせる。信愛関係ほど、本当は正しくかつ強いものはない。「すべし、すべからず」は、それをやっていると、もうゴタゴタしてしまう。
エリヤというのは凄い。彼の魂が燃えているから、火の車に乗って、天界に見えなくなってしまった。「どこかにいるはずだ」といって探しに行ったが、ところが全然見つからない。エリヤの衣鉢を継いだエリシャというのも素晴らしい預言者になった。いろいろな力を現した。
エレミヤ記23章9節に、
「預言者輩(たち)のために我心はわが衷に壊(やぶ)れ、わが骨は皆震う。且つエホバとその聖言(きよきことば)のためにわれは酔える人のごとく酒に勝たるる人のごとし。」(エレミヤ23・9)
私はこのエレミヤの言葉がもの凄く好きなんだ。
「聖言のためにわれは酔える人のごとく酒に勝たるる人のごとし」
とある。
「酒に勝たれて酒に酔っぱらっているように、私は神さまの言葉に酔っているんだよ」
と。我々は本当に神さまの言葉に酔っていますか、キリストの言に酔える人のごとく。エレミヤという預言者は本当に神の言を食らって飲んで、その素晴らしいスピリッツに酔える人のごとくなった。イザヤもそうだけれども。このエレミヤの言葉は忘れないでください。
●[3月17日]エリシャの無尽の油
3月17日「エリシャの無尽の油」(列王記略下2・19~4・7)
「往ってその油を売って、その負債(おいめ)をつぐのい、貴女(あなた)とあなたのお子達はその余分で生活しなさい」(列王記略下4・7)
「ヨルダン下流沿いの世界最低の位置たるエリコ(別名棕櫚の町)付近の水が悪いので流産を起こすということをエリシャは聞き及び、水源に塩を投げ入れながら、「エホバかく言い給ふ、我れこの水を癒す」と。爾後流産はなくなった。
モアブの王メシヤがイスラエルの王ヨラム及び王ヨシャパテと対立し戦争となった。そのときエリシャが相談を受けたが、彼はヨラムに、汝エホバ信仰なきに由り、我れ汝と何の関わりあらんやと断乎つっぱねた。ヨシャパテは信仰熱き王だから彼のためなら応ずるといった。彼は楽人に神讃美の音楽を奏でさせて聖言を聴き、策を与え、神の力で勝たしめた。
エリシャの門弟の一人が死んだ。するとその婦人がエリシャに、債主が自分の二人の子供を奴僕(しもべ)にひきとろうとしている、といって救を求めた。そこで彼は、家の中に何があるかと尋ねた。彼女は僅かばかりの油だけですと答える。では空(から)の器を隣近所からたくさん借りて来て、家に子らと閉じこもり、それらの器に油を少量づつ滴(た)らしなさい、と彼は告げた。この言に従って油を滴らしたら、見よ、すべての器に油が満々と湛えた! 驚き喜んで、女はこの神の人に告げた。するとエリシャは右掲の如く語った。キリストのカナの婚宴のときの神の愛の力を連想せざるを得ない。橄欖の油は聖霊の徴である。我らも聖霊を体受すると無尽の事態を体験する。」
●[3月28日]われ知る、われを贖う者は活く
3月28日「われ知る、われを贖う者は活く」(ヨブ記19章)
「25われ知る我を贖う者は活く。遂には彼れ土泥(つちひぢ)の上に立ち給わん。
26彼らわが皮膚(はだ)を腐食せしめ、わが肉の離れし後に我れ神を見ん。
27我れ彼をわが身近かに見ん。我見るに他人(よそびと)ならじわが腎(むらと)わが腹底に絶え入るばかり也。」(ヨブ19・25~27)
「第16章の終わりで、「わが証者は天に在り」と叫び、中保者なる「人の子」(メシヤ)を霊視して、魂は確信と希望に燃えたヨブではあったが、第17章ではその肉体は旧約の一般的限界を出でず、肉体を腐らすものを父と称(い)い、蛆(うじ)を母などと呼ぶヨブであった(17・14)。しかし、また第18章の終わりでは、自分の魂の苦闘、弱き者ながら魂のどん底には不変の善意が宿り、底なしの神信頼のあることを右掲の如く不滅の文字として岩盤に刻まれんことを願っている。そういう心ある人が何処かにいないか、誰かいないかと呻いている。このヨブ記の記者こそその人である。肉体は消え失せようが肉を離れても神を見る、という凄絶な叫びは旧約の限界を突破した!
「われ知る我を贖ふ者は活き給ふ」は正に旧約的次元の突破である。地に立ち給う「人の子」メシヤ、キリストを霊視している。「人の子」を慕い焦がれて彼の「腎(むらと)は絶え入るばかり」なのである。」
ヨブ記というのは非常に深刻な所ですが、しかし、
「天にわが証人あり。肉を離れても神を見る。そういう人が必ず地に立つぞ」
という。いわんや、我々はキリストをいただいて、その終末的な希望というものは本当に確かなものです。
●三日月の中に満月性が
私の第十巻は皆さん、愛読してくださいよ。これは三日月みたいなものです。聖書は満月です。私の第十巻は三日月で、三日月は――上弦の月でなければダメです――満月を約束されている、満月を抱く三日月です。私も地上ではどうせ三日月に過ぎない。けれども、必ずこれは満月にキリストはしてくださる。三日月の中に満月性がある。我々は皆、地上では三日月、未完成交響楽みたいなものだ。未完成の完成という。完成が約束されている。キリストを受けとっている人はみな、それぞれの完成を――決して全体主義ではない――約束されている。皆さんの顔はみな違う。神さまは大芸術家だ。同じ顔は造らない。目が二つに鼻が一つに耳が二つ。それでありながら、世界中に同じ顔が一つもない。神さまは最大の芸術家です。
「あの芸術家に学べ」
とドイツの詩人シラーが或る詩の中で言っている。「あの芸術家」とは神さまのことです。
私たちはそういう完成を約束されているところの、一人びとり掛け替えのない存在です。だから、いつどこで仆れても「アーメン、ハレルヤ!」というわけです。
地上で完成したら、本当はダメです、そんなちっぽけな完成は。本当の全さというものは無限性をもっている。私は詩を今書いていますけれども、私の詩は終り無き詩というわけです。どこで私は筆を擱くことになっても、それが未完成の完成という気持でやっていますから、何も心配しない。私は限定されたものは嫌いです。無限定なもの、果てし無きものが好い。宇宙はそうなんだから。
我々は地上にありがら、実は天界人である。
「天界人であるから、どうなったっていいよ」
と。「どうなったっていいよ」なんて、すてばちみたいなことを私は言うけれども、しかし、そう言う人が本当の歩き方をする。無限的なものを持つ人が本当の歩き方をする。いわゆる整ったことではない。本当の歩き方を皆さんはしていらっしゃるわけです。人にはおかしく見えたって、本当の歩き方とはどういう歩き方だか人には分からないです。道無き道をいく。
本当の歩き方をしているものは何かね。鳥です。鳥は素晴らしい。私は人間でなければ鳥になりたい。燕(つばめ)とかに。
●[5月4日]隅の首石
5月4日「隅の首石」
「19我に義の門開け、我その中に入りて神(ヤハ)に感謝せん。
20是(こ)は神(エホバ)の門なり、義人はその中に入るべし。
22建築師(いえつくり)らの棄てたる石は隅(すみ)の首石(おやいし)となれり。
23是(こ)は神(エホバ)に由ることにして我らの眼に奇異とするところなり。
25神(エホバ)よ、願わくは今救い給え、神(エホバ)よ願わくは今栄えしめ給え。
27神(エホバ)は神(エール)なり、彼は我らに光を与え給えり。
28汝はわが神(エール)なり。我汝に感謝す。わが神(エロヒーム)よ、我汝を崇(あが)めまつらん。29神(エホバ)に感謝せよ、恵福(めぐみ)深く、その愛は永遠なればなり。」(詩篇118・19…29)
「我々にとって義の門とは何か。「我は門」なりと言ったキリストこそ、義の門である。神の義人キリストの門を平伏して通れば、彼の義が与えられる。
さて専門的宗教人たる教法師や祭司やパリサイ人に排斥され、大衆にも裏切られ、弟子供にも理解されず、棄てられた石(マタイ21・42、ルカ20・17、行伝4・11、ロマ9・32、10・11、エペソ2・20、ペテロ前2・6~8)となったキリストは家の礎石として最も大切な隅の首石となった。即ちキリストは人間界の精神的、宗教界の霊的中心となった。イザヤが「試練を経た石、貴き隅石」と預言したのはキリストであった(イザヤ28・16)。実存主(エホバ)は力の神(エール)であり、キリストは永遠の愛たる救主(メシヤ)である。」
「義」というのは旧約から新約に貫いた大事な言葉です。「セデック」とか「セデカー」という。義にはいろいろな意味がありますけれども、一番大事なことは――漢字では義は羊の我と書く――神・キリストの関係は本当の義の関係です。神さまの聖意を体現する人、それが義人なんです。聖意体現、神さまの聖なる意志を体(からだ)でもって現ずる。体現というのはいい言葉だ。
漢語の熟語というのはいいものだ。日本語では表しきれない。日本語はこういうものを自由に使っているから、非常に豊かなものです。ヨーロッパの言葉よりも日本語が一番豊かです。
聖意体現者、イエス・キリストだけが義人です。
「義人なし、一人だに無し」
とパウロが言ったが、この聖意を体現できるのはキリストの他に一人もいなかった。我々はダメなんだ、罪びとだ。「罪びと」とは、自分の意志が神さまの意志の代わりにやったりする。キリストは完全に、無者が無限無量者だから、聖意体現した。これが義人です。縦の関係がハッキリ立っている。
●十字架上の義と愛の叫び
「わが神、わが神、なんぞ我を棄てたまいし」
というのは義の叫びです。
「あなたにこれだけ信じ従って、義を貫いた私をなぜお棄てになるか」
と。キリストの十字架上のあの言葉がなかったら、本当はさびしい。「なんぞ棄てたまいし」というのは、
「いかにキリストが本当に神の聖意を体現したか」
ということです。
「棄てるはずはないではないですか」
と。けれども、キリストはその次に、
「彼らは為すところを知らず、彼らを許してやってください」
と。だから、義と愛の叫びがあの十字架上の言葉です。
キリストが叫んだ時に聖所の幕が二つに切られてしまった。凄いね。キリストのその怒の言葉で、また憐れみの言葉でもって、旧約の世界はもうお終いだということで、聖所の幕が切れてしまった。至聖所と聖所の間に幕がある、それが切れてしまった。何しろ、み霊の力の世界は凄い。「これでいい」なんてところはありはしない。
隅の首石がないと、家はひっくり返ってしまう。キリストは大工さんに棄てられたところの隅の首石である。我々は人々に棄てられる棄石なんです。棄石が実は本当は一番大事なものだ。
「人は棄つれど、きみはすてず」というあの讃美歌512番は私は好きなんだ。
1 わがたましいの したいまつる
イエス君のうるわしさよ、
あしたの星か、谷のゆりか、
なにになぞらえてうたわん。
なやめるときの わがなぐさめ、
さびしき日のわがとも、
きみは谷のゆり、あしたのほし、
うつし世にたぐいもなし。
2 身のわずらいも 世のうれいも、
われとともにわかちつつ、
いざなうものの ふかきたくみ
やぶりたもううれしさよ。
ひとは棄つれど きみはすてず、
みめぐみはいやまさらん、
きみは谷のゆり、あしたのほし、
うつし世にたぐいもなし。

