わが賜りたる福音

わが賜りたる福音
イザヤ53、ルカ12、ロマ8
武蔵野日曜集会 幕屋創立54周年記念 1994年9月25日
小池辰雄


【目次】
●武蔵野幕屋 ●(詩)わが賜わりたる福音 ●聖書はわが告白 ●十字架と聖霊は切り離せない ●キリストに直結 ●楽しくてしょうがない ●一如の境地に入る

【イザヤ】
「4まことに彼はわれらの病患(やまい)をおい、我等のかなしみを担えり。然るにわれら思えらく彼はせめられ神にうたれ苦しめらるるなりと。5彼はわれらの愆(とが)のために傷けられ、われらの不義のために砕かれ、みずから懲罰(こらしめ)をうけてわれらに平安(やすき)をあたう。そのうたれし痍(きず)によりてわれらは癒されたり。」(イザヤ53・4~5)
【ルカ】
「49我は火を地に投ぜんとて来(きた)れり。此の火すでに燃えたらんには、我また何をか望まん。50されど我には受くべきバプテスマあり。その成し遂げらるるまでは思い逼(せま)ること如何許(いかばかり)ぞや。51われ地に平和を与えんために来(きた)ると思うか。われ汝らに告ぐ、然らず、反って分争なり。」(ルカ12・49~51)
【ロマ】
「35我等をキリストの愛より離れしむる者は誰ぞ、患難(なやみ)か、苦難(くるしみ)か、迫害か、飢か、裸か、危険(あやうき)か、剣(つるぎ)か。36録(しる)して『汝のために我らは、終日(ひねもす)、殺されて屠(ほふ)らるべき羊の如きものと為られたり』とあるが如し。37然れど凡てこれらの事の中にありても、我らを愛したもう者に頼り、勝ち得て余(あまり)あり。」(ロマ8・35~37)


●武蔵野幕屋
旧約聖書から新約にかけて、「幕屋」という言葉が方々に出てくる。神さまは歴史をつくって、そして旅をしておられる。神さまの旅路は、幕屋を張りながら畳んだりまた張ったりして行かれる。そういう姿から、歴史というものは神の旅路であるというわけで、私は「幕屋」という言葉に非常にひかれた。それで、「幕屋」ということを言いだした。手島君が、これは素晴らしいと言って、彼も幕屋と言いだした。
1940年の9月22日が丁度、日曜日だったので、私はこの日から集会を始めた。1921年の9月22日が私の長兄政美の天界に往った日です。私の信仰の第一恩人は小池政美です。彼なくして私はない。彼の死が、天界に往ったことが、私に対して最大の伝道であった。私は小池政美の後をバトンタッチしてやっているわけです。
内村鑑三のいわゆる無教会の流れ――内村先生の高弟は藤井武、塚本虎二、黒崎幸吉、この三人が非常に著しいお弟子さんでしたが――その藤井先生の家庭的な集会に私は行った。藤井先生は私の兄貴を非常に愛して、私の兄の遺稿集を出そうとまで言って、ある程度なさってくださったわけですが、その藤井先生の集会に私も、そんな関係で参列したわけです。大学に入学して最初の日曜日、3月7日でしたけれども、それから先生が仆れるまで、正に五年間、一回も休まずに出席しました。藤井先生は詩人肌の方で、いわゆる研究家ではなく、体験からものをおっしゃる方です。非常に私にはふさわしい先生でした。そこで完全に五年間、ごやっかいになった。1930年7月14日に先生は天界に行かれました。暑い日でした。
そんなことで、私が今日あるのは、小池政美、藤井武のおかげであります。けれども、無教会の流れには、「十字架」ということは非常に言われるのだけれども、「聖霊」のことはあまり語っていない。十字架信仰です。もちろん、十字架は土台ですけれども、十字架の土台の上に聖霊がやってくる。
「汝ら、祈って待っていろ。そうしたら、天から聖霊が降ってくるぞ」
と、キリストが言われた。
イザヤ書53章に、
「4まことに彼はわれらの病患(やまい)をおい、我等のかなしみを担えり。然るにわれら思えらく彼はせめられ神にうたれ苦しめらるるなりと。5彼はわれらの愆(とが)のために傷けられ、われらの不義のために砕かれ、みずから懲罰(こらしめ)をうけてわれらに平安(やすき)をあたう。そのうたれし痍(きず)によりてわれらは癒されたり。」(イザヤ53・4~5)
これがキリスト預言の大事なところです。イザヤ書53章というのはキリスト預言のところです。とにかく、イザヤ書というのは素晴らしい。全イザヤ書66章は聖書66巻の縮図みたいなものです。旧約で一番大事なのはこのイザヤ書です。
●(詩)わが賜わりたる福音
私は、七七調で或る詩を書きましたから、これを今読み上げます。
どの教会にも理解せられず
無教会には異端視されて
荊棘の道を我つき進み
孤高の嶺を目指して歩み
険崖の隘路を歩一歩辿り
悠久の天路を夢見る私。
鳴呼、偽善なるパリサイ人ら
妬みと嫉み、陰口の徒ら
我汝らと関わりはなし。
我はわが身に十字架を負い
大慈大悲の道なき道を
我悠然と歩みに行かなん。
悲しむ人と涙を共にし
悩める人と悩みを分かち
求むる人の求めに応じ
病める人には手を按き祈り
迷える人の道伴れとなり
主のみ光に貫かれつつ
主のみ力をわが身に受けて
助け慰め喜ばしめん。
かくて福音の証し人たらん。
鳴呼、賜りたる無者たるの道
無のどん底の実存の態。
海辺に往けばそこに友あり
野山に往けばそこに人あり
人々はみな同胞(はらから)なるぞ
我が胸の胸中にはお陽さまがござる。
我に壁なく、石垣もない。
わが魂(たま)之(し)霊(ひ)は開かれてあり。
無者たる我は八方破れ
主の福音のわが告白に
欣然共感、抱きつくひと
また魂之霊の砕けたるひと
思い遣りの愛情のひと
他人の過ちを言あげせぬひと
天つ義のため耐え忍ぶひと
実(げ)に慕わしや、かかる人々。
武蔵野幕屋の遺れる民と
この集会(あつまり)を共にし進み
主の御旨なら何でも受けて
十字架・聖霊の一路を辿り
新しき人を喜び迎え
使徒らの心と同じ心で
聖霊に与かり告白伝道
幕屋を張りつ畳みつなして
涯(はて)しも知れぬ福音の道を
限りあらなき曠野の野路を
御国めざして私は往くのだ。
この旅路にて、水茎の跡
留めおかまし或る詩篇
わが胸は燃え、力身に満ち
全身全霊火の玉となる
今世紀をば突き貫けて
険路なれども主の恵導のもと
書き続けん、或る長編の詩。
御名のためなるこの霊願を
贖い主よ、受けさせ給え。
救い主よ、御前に平伏し
汝の砕けに我は砕かれ
汝が復活の突破の生命に
われ与かりて万難突破。
鳴呼、驚(おどら)しや神の臨みよ
天つ臨みよ、まこと幽形の筆致たるべし。
使命のためには百寿突破
御名にあっての証し人たれ。
神の歴史の霊(くす)しき道を
今や我なりに辿り辿りて
昼また夜に読書に詩作に
粉骨砕身、研鑽錬磨
時空を超えて霊界を歩み
冥想に耽り黙示に与かり
過去現在未来の三世
地獄煉獄天国三界
回顧し直視し洞察すべし。
実に宇宙的主キリストの
御懐にわれ躍り入り
神の歴史と神の御国と
大宇宙をば大観しうる
大聖霊にわれ抱かれて
我とわが身は既にあるなし。
霊法冥利限りあらなく
我を捕らえて天翔けらしめ
諸々の宗教、うって一丸
あらゆる真理抱いて融(と)かし
円融無限、遍照無辺
主キリストよ、聖霊の神よ
この烈々たるわが魂之霊を
確(しか)と捉え、自由に駆使し
鍛えに鍛え、練りに練りあげ
天来の詩をただ御名ゆえに
書かしめ給え、成らしめ給え。
我は耐え貫き、忍び貫きてぞ
千苦万難貫きゆかん。
悲願霊願、祈りに祈り
主の本願に即し奉りて
この詩成就のその曙に
上弦の月は円現すべし。
旭日照り出で、暁雲を突き
全天の星、楽を奏でん。
百花は山野に咲きて躍らん
千草は原野に舞いて笑わん。
百獣、草原に躍りて走り
千鳥、蒼空に飛びて歌わん。
哀れ棄てられし一預言者
大キリストの今様の使徒
主キリストの福音の証者
涙は腹の中に流れ入る。
宜(う)べなるかなや、我罪びとの
首(かしら)的なる存在なれば
主の御前にただ平伏して
主の無者として無に撤し貫き
あらゆる定め、黙して体受
ひたすら御名を讃美し奉らん。
栄光、主にあれ!
アーメン、ハレルヤ!
こういう詩を少し前に書いた。今、読み上げたのが私の本当の気持です。
●聖書はわが告白
これは賀川豊彦の句ですが、
「一枚の最後に残ったこの衣
  神の為には猶脱がんとぞ思ふ」
素晴らしい句ですね。無教会のいろいろな先輩や先生たちがいるけれども、賀川先生は本当にどん底を行った人です。可哀相な人、弱い人、迫害された人、いろいろなそういった人たちの友となって、本当にキリストの僕らしく人助けをして、そしてまた、悪とは戦ってこられた。賀川先生の自伝を読んでごらんなさい。それは大変な本です。私は賀川さんを、近代の日本のキリスト者のうちで一番敬愛しています。無教会の流れは、こういうように壇上からものを言っている。いわゆるお説教ではないけれども、「聖書の研究」とばかり言っている。研究ではないんだ、聖書は。
聖書は身読(しんどく)、身(からだ)で読む。これは日蓮の言葉です。皆さんは参考書なんか要らんですよ。聖書を祈り心で身で読む、全存在で読む。註解も何も要らん。自分の心をうった聖句は、何回もそれを読んで暗記するくらいに、自ずから自分の告白となるように。告白とは大事なことです。聖句が自分の告白になるまでは、本当は読んでいることにならない。「イザヤがこう言った。エレミヤがこう言った。パウロがこう言った」と、三人称的な考えで言ったらダメなんです。
「これはわが告白なり」
と、聖書の中に身を投入して読む。読むことは聞くことなんです。文字の奥の霊的な響きを聞かなければダメだ。
「この聖書は私が書いた本ですよ」
と、それくらいなことが言えるようにならなくては。もったいぶったクリスチャンがたくさんいて困るよ。どうぞ、あなた方は、そういった直々(じかじか)の――
「われキリストの中に、キリストわが中に」
とパウロが言ったでしょ、あのパウロの現実です――使徒たちのあのような現実に、現(うつつ)の世界になってください。信仰ではない。私は「信仰」という言葉は嫌いだ。「私は信じています」ではない。信じ仰いでいたらダメだ。直結の世界です。
「聖書は私が書いた本ですよ」
「お前は気違いではないか」
「あなたには気違いに聞こえるかも知れないけれども、そうではないんだ。そのような所までこなければ、本ものにならない」
と。楽しくてしょうがない。楽しくて、楽でしょうがない。みな、もったいぶっているんだよな、ダメだよ、そんなもったいぶっていたら。
ベートーヴェンのことをグリルパルツァーが言った言葉に、
「或る一つのことを追求しながら、或る一つのことを思いながら、或る一つのことの為に耐え忍びながら、或る一つのことの為に一切のことを投げうちながら、この男は生涯を貫いた」
とある。ベートーヴェンというのは、そのように、彼が音楽か、音楽が彼かというくらいだ。「第九」といえばベートーヴェン。ベートーヴェンといえば「第九」です。
「唯だ一つのことのために生きろ。他はみなうっちゃってしまえ」
と、徒然草にも書いてある。誰でも一つのことに、
「それが私か、私がそれか」
という、そういうような生き方をしなければおもしろくない。また、力がこないし、楽しくもない。
●十字架と聖霊は切り離せない
1940年9月22日の日曜日から始めた集会ですから、もう54年、半世紀以上たった。驚いたな。私は、先は知りませんよ、いつまでだか。もう数えないことにした。ということは、我々は永遠の生命をいただいているから。相対的な年数なんかは問題ではない。絶対に死んでも死なない。死という言葉はもう我々には要らない。こんなものは知らない。永遠に生きている。次の世界に往くだけの話だ。往生という言葉はいい言葉だね。往きて生きるという。「とうとう、小池先生も死んじゃった」なんて言ったらダメだよ、死なないんだから。
「あっち側に往った。大往生した」
と言ってくれ。ブラウニングが、
「私が亡くなったら、歓呼の声をあげて送ってくれ」
と言った。さすがはブラウニングだ。失明の詩人のミルトンも素晴らしい魂でした。こちらの塙保己一が失明だったね。ベートーヴェンも、もう耳が聞こえなくなってから、彼は魂の耳で聞いているんだ。音なき音をちゃんと聞いている。だから、作曲ができる。彼は一遍ドナウ河に投身しようかと思ったのだけれど、止めた。音楽家が聾になってしまったのだからね。ところが、肉の耳で聞くよりも、霊の耳で聞く世界の方が素晴らしいから、それからの作曲が凄い。だから、皆さん、どんな運命・環境になっても、絶対に行き詰まらんですよ、このキリストの福音を身につけたら。
十字架を本当に受けとって、そして、聖霊が来た。十字架ぬきの聖霊はダメです、「聖霊、聖霊」とよく言うけれども。「十字架、十字架」と言って、十字架ばかりもダメ。十字架と聖霊は離すことができない関係です。十字架の土台がなければ、聖霊が来なければ、キリスト道の歴史はない。十字架と聖霊は絶対に切り離してはいかん。ルカ伝12章49節に、
「49我は火を地に投ぜんとて来(きた)れり。此の火すでに燃えたらんには、我また何をか望まん。
「火」とは聖霊のことです。聖霊の火が燃えたら、もう望むものはないんだという。
50されど我には受くべきバプテスマあり。その成し遂げらるるまでは思い逼(せま)ること如何許(いかばかり)ぞや。
「受くべきバプテスマ」とは十字架のことです。
「十字架を通ったらお前たちに聖霊をやる」
と。キリストは、そういう離すことのできない十字架・聖霊の関係をちゃんと仰っている。
51われ地に平和を与えんために来(きた)ると思うか。われ汝らに告ぐ、然らず、反って分争なり。」(ルカ12・49~51)
「本当に真理が燃える所には、真理ならざるものとの戦いが来るぞ」
という。
●キリストに直結
「聖書は私が書いた本です」
と、皆さん、そういうように告白できなくては。聖書というのは、聖霊の導きで書かれたものだ。これは考えて書かれた本ではない。預言者も使徒たちも、全部これは聖霊の導きで、天来の声でもって書いたんだ。だから、それと同じ次元に入らなければ、聖書は本当は読めない。その次元に入ったら、「これは私が書いた本だ」なんて言いたくなる。
それはもうキリストの言葉がもの凄い力をもって臨んできますよ、楽しいですよ。意味の世界ではない。響きの世界、力の世界、光の世界です。闇を光の世界に変えてしまう。そういう烈々たるところは、内村先生も藤井先生もまだ手前だったね。十字架ばかりで、聖霊はあまり言わなかった。
聖霊のことについて語ったってダメですよ、聖霊の中からものを言わなければ。「について、に関して」というのはみなダメなんだ。三人称的になる。「の中から、の中で」語らなければ。パウロの書翰は全部、キリストの中で書いている。とにかく、キリストの中に自分を投げ込まなくては、何事もはじまらない。また、投げ込んだら、何でもできるようになる。これはハッキリ言える。「キリストは罪の贖主です」なんて、そんな事柄を信じて何になるか。パウロと一緒に、
「我キリストの中に、キリストわが中に」
と言わなければ。
我々がダメだから、キリストはつかまえてくださったのだからね。「お前は大分いいから、お前をつかまえてやる」なんて、そうではない。ダメなやつをつかまえて、マイナスをもの凄いプラスにしてしまう。霊的変化を起こさせる。だから、「信仰」なんていう言葉は私は嫌いなんだ。信じ仰いでいるのではない。直結の世界です。
「私は信仰なんかありません。私はキリストに直結してます。キリストが離しません。私が逃げて行こうとしても、キリストが捕まえてしまって、しょうがないんですよ」
とハッキリ言ってやる。それが本当の平伏(ひれふ)しの世界なんです。私が「無」というのは、無の姿は「平伏し」なんです。平伏しながらキリストの中に入ってしまう。
いや、とにかくキリストというのは大変なひとだからね。福音書を読んでごらん、楽しくてしょうがないから。キリストが湖の上を渡ってきた。その通りです。物理法則なんか乗り越えているのだから、大変なひとだ。あれは神話ではないですよ、みな霊的な現実です。変化(へんげ)かと思って皆びっくりした。「恐れるな、私だよ」と。
「懼(おそ)るな、我なり」
という、あの言葉は素晴らしい言葉です。私たちは何かにゴタゴタしたら、キリストの「懼るな、我なり」という、この言葉を聞かなくては。
「我なり、恐るな。あわてるな」
と。この現実に入ると、「信仰」なんて、まだるっこいことを言ってられない。だから私は、
「信仰なんかありません。直結してますよ」
と言う。直結でなければ力がこないもの。「まだ、私の信仰は…」なんて、自分の信仰なんかを考えているうちは、いつまでたっても始まらない。「信仰」なんかやめなさいよ。
「何もありません。その代わり、あるのはキリストだけです」
と。そういう境地に――単なる心境ではない、現実です――そのような現実に、霊的現実になる。いわゆる「クリスチャン」という概念とは違う。「キリスト者」の者はいらない。「キリスト」だけでいい。
●楽しくてしょうがない
私はこうやってあなた方に語って、楽しくてしょうがないんだけれども、あなた方は聞いていて楽しいかね。楽しくなければダメですよ。「そうですか」ではない。「その通りです」と言って聞いてくれなければ。「そうですか」なんて聞いていては困るよ、「然り、アーメン」と言わなくては。そうしたら、あなた方は、やっている事にもの凄い力が、創造的な力がくるから、ありがたくてしょうがない。何をなさっていても、その人らしさがそこに本当の意味で出てくる。「あれは素晴らしいけれども、私は…」なんて、自分のことを卑下してはダメだ。比較研究は要らない。一人びとりが絶対なんです。
聖書の好きな所を何回でも読みなさい。そして、それが自分の言葉になってしまわなければ。パウロは感嘆して書いているんだ。
「35我等をキリストの愛より離れしむる者は誰ぞ、患難(なやみ)か、苦難(くるしみ)か、迫害か、飢か、裸か、危険(あやうき)か、剣(つるぎ)か。36録(しる)して『汝のために我らは、終日(ひねもす)、殺されて屠(ほふ)らるべき羊の如きものと為(せ)られたり』とあるが如し。37然れど凡てこれらの事の中にありても、我らを愛したもう者に頼り、勝ち得て余(あまり)あり。」(ロマ8・35~37)
「我ら」なんて、複数で書いてあるところは、「我」と単数で読みなさい。みな、あなた方一人びとりに言っているのだから。複数で読んでいると力が来ないです、単数で読まないと。一対一の関係です。
問題は、
「一人びとりが本当にキリストに直結しているか」
それだけです。「信仰」で力なんか来ないですよ、直結しなければ。私は寝る時には、黙って端坐してキリストの中に自分を投げ入れる、
「あなたの懐に入って寝ます」
といって。何が起きようが、何が待っていようが、「眠れない」なんてことはない。
「勝ち得て余りあり」
とパウロが言ったのはそのことです。相対的現実に勝ってしまっている。絶対現実の中に入ってしまう。
皆さんお一人びとりが烈々たる魂になると、これが一緒になるともの凄いことになる。そういう意味における共同なんです。共同だから自分はどうでもいい、なんてことではない。
1940年9月22日が、不思議と日曜日で、兄貴の天界にいった命日だから、それから集会を始めた。小池政美のおかげで私の今日があるので、小池政美がいなければ私はない。そういう意味で、天地相応えて福音のためには私は私らしいことをやっていく。
あなた方一人びとりは人真似はいらんですよ。みな自分らしさというものでもってやっていく。神さまはその人らしさが一番好きなんだから。その人らしさでもってキリストを証していってください。証し人というのが我々の人生の姿です。キリストの証しびと。作為的ではない、自ずから証になる。キリストを生きていると、おのずから証になる。あなた方がやっていらっしゃるいろいろなお仕事に、それがみな不思議に現れる。「私にはできません」なんてことはひとつもない。
みなそれぞれが創造的になる。告白、創造です。自分で作るのではない。自ずから創造させられる。全部、受け身です。力が上から来るから。智慧も上から来るから。いろいろな本を読んでいても、その本の奥にキリストの響きを読んでしまう。絵を見てもそうです。
●一如の境地に入る
私はチャップリンという人は好きだ。喜劇と悲劇を両方とも持ったようなあんな役者はもう再び出てこないね。このチャップリンというのは大変な人だ。喜びも悲しみも涙もみな持っている人です。『街の灯』『モダンタイムズ』という映画はいい。あの人も苦労した人だから。『独裁者』の終りの方で言っている台詞は素晴らしいせりふです。「ハンナよ」と呼びかけている、その名はお母さんの名前です。
私はああいうものに非常に感激するけれども、あなた方は感激しないのかね。人間は感激性が乏しくなったらお終いですよ。「ああ、それは分かっているよ」なんて、頭でもって分かっているのはダメです。本ものに対しては、全存在で感激していかなければダメです。何回でも同じものに感激する。
私は寝ていて夢の中で凄い夢を見て、時々起こされることがある。そうすると、また起き上がって机に向かう。歴史上の人物とも霊的な会話ができるわけです。私の詩は人物本位なんです。アッシジのフランチェスコなんかは限りなく慕わしい人だね、大変な人だ。私はルターよりかフランチェスコの方が好きだ。
どうぞ、皆さんも本ものに感激して歩いてください。そして、とにかく感激したら、そういうものと――大事な境地はみな一如です――一如の境地に入らなければダメです。それと一つになる。パウロを読めばパウロと一つになる。ヨハネを読めばヨハネと一つになる。「パウロはこうで、ヨハネはこうで」なんて、比較しているうちはダメです、それぞれの本質と一つにならないと。そうすると、凄い弾力性が出てくる人間になる。自我が無くなってしまうから。だから、キリストは万人の中に、その人その人の中に入っていく。これは霊的な不思議な現実です。神秘、ミステリオンなんです。
シュヴァイツァーの『パウロ』という本の最初の文句は、
「パウロは神秘者であった」
という句から始まっている。さすがはシュヴァイツァーだ。彼は西アフリカの土人に伝道した。また彼は医者だから、肉体的にも随分助けてやった。彼は神学者になろうと思ったけれども途中でやめた。自分はアフリカに行くと。
十九年間流浪の旅をしながら『神曲』一巻を書いたのはダンテだ。運命環境はどうでもいいですよ。どういう現実であっても、キリストの力がくれば、何でもできる。そして、キリストの力がくると、知らない間に肉体的な欠陥も段々治ってしまう。すぐ医者や薬を考える必要はない。
医学の元祖のヒポクラーテスは「自分および自然の力によれ」と言っている。「薬によれ」とは彼は言ってない。
「自分の賜った力と自然界の力によれ」
と、さすがはヒポクラーテスだ。
東京は大自然から大分崩れているような世界だから、あなた方は時々山や海の方に行って、大自然に触れないと毒だよ。自然の中の小さな都はいい。東京は本当は人が住む所ではないんだ、やむを得ず居ますけれども。
けれども、肺は東京の空気を吸っていても、魂は霊気を吸っていなければ。魂はキリストの霊気を吸っている。霊の世界の次元というものは凄いから。その点で、聖霊は非常に大事なんです。聖霊の人にならないと。
「家造りの棄てたる石は隅(すみ)の首(おや)石(いし)となれり」
とは詩篇118篇の言葉だ。27歳で仆れた兄貴のためには、私はどうしてもやらなければならない。
私の兄貴は英語がもの凄くできた。だから、ロンドンに行くことになっていた。それを上役の悪い野郎が自分の子分をロンドンにして、私の兄貴を北京にまわした。北京はその頃衛生が悪くて、兄貴はそこで腸チフスに罹って27歳で仆れてしまった。27歳で仆れるような兄貴ではなかったんです。だから、この兄貴のためにも私は戦わざるを得ない。
あなた方一人びとりみな使命がありますよ、福音のためには。どうぞ、本当の証し人になってください。聖書を地でいくような人に。そうしたら、楽しくてしょうがないですよ、力が来てしょうがない。「ここはどういう意味だ」なんていう意味の世界ではない。響きの世界です。キリストの声を聞きながら生きていればいい。
話になったような、ならないような話でしたけれども、しかし、私の気合は受けとってくださったと信じています。ありがとうございました。

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