無限無量
無限無量
使徒行伝第3~8章
第6回バルナバ・アシュラム(2)1993年5月4日
小池辰雄
【目次】
●我らを見よ ●無相の相 ●絶信の信 ●無即無限無量 ●イエス・キリストの名 ●なぜ我らを見るか ●砕けの神学 ●キリスト本位 ●最初の殉道者ステパノ ●パウロの回身 ●ピリポの伝道 ●真道の御霊 ●内住の愛 ●詩「無の光」 ●詩「原始福音」 ●詩「使徒らの昔を」 ●祈り
【使徒3】
1昼の三時、いのりの時にペテロとヨハネと宮に上りしが、2ここに生れながらの跛者(あしなえ)かかれて来る。宮に入る人より施済(ほどこし)を乞うために日々宮の美麗(うつくし)という門に置かるるなり。3ペテロとヨハネとの宮に入らんとするを見て施済を乞いたれば、4ペテロ、ヨハネと共に目を注(と)めて『我らを見よ』と言う。5かれ何をか受くるならんと、彼らを見つめたるに、6ペテロ言う『金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に与う、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め』。7すなわち右の手を執りて起ししに、足の甲と踝骨(くるぶし)とたちどころに強くなりて、8躍り立ち、歩み出して、且あゆみ且おどり、神を讃美しつつ彼らと共に宮に入れり。9民みなその歩み、また神を讃美するを見て、10彼が前に乞食にて宮の美麗門に坐しいたるを知れば、この起りし事に就きて驚駭(おどろき)と奇異(あやしみ)とに充ちたり。
11斯て彼がペテロとヨハネとに取りすがり居るほどに、民みな甚だしく驚きてソロモンの廊と称うる廊に馳せつどう。12ペテロこれを見て民に答う『イスラエルの人々よ、何ぞ此の事を怪しむか、何ぞ我らが己の能力と敬虔とによりて此の人を歩ませしごとく、我らを見つむるか。13アブラハム、イサク、ヤコブの神、われらの先祖の神は、その僕イエスに栄光をあらしめ給えり。汝等このイエスを付(わた)し、ピラトの之を釋(ゆる)さんと定めしを、其の前にて否みたり。14汝らは、この聖者・義人を否みて、殺人者(ひとごろし)を釋さんことを求め、15生命の君を殺したれど、神はこれを死人の中より甦えらせ給えり、我らは其の証人なり。16斯てその御名を信ずるに因りてその御名は、汝らの見るところ識るところの此の人を健(つよ)くしたり。イエスによる信仰は汝等のもろもろの前にて斯る全癒を得させたり。17兄弟よ、われ知る、汝らが、かの事を為ししは知らぬに因りてなり。汝らの司たちも亦然り。18然れど神は凡ての預言者の口をもてキリストの苦難を受くべきことを預(あらか)じめ告げ給いしを、斯くは成就し給いしなり。19然れば汝ら罪を消されん為に悔改めて心を転ぜよ。20これ主の御前より慰安(なぐさめ)の時きたり、汝らの為に預じめ定め給えるキリスト・イエスを遣し給わんとてなり。21古(いにし)えより神が、その聖なる預言者の口によりて、語り給いし万物の革(あらた)まる時まで、天は必ずイエスを受けおくべし。22モーセ云えらく、「主なる神は汝らの兄弟の中より我がごとき預言者を起し給わん。その語る所のことは汝等ことごとく聴くべし。23凡てこの預言者に聴かぬ者は民の中より滅し尽さるべし」24又サムエル以来かたりし預言者もこの時につきて宣伝(のべつた)えたり。25汝らは預言者たちの子孫なり、又なんじらの先祖たちに神の立て給いし契約の子孫なり、即ち神アブラハムに告げ給わく「なんじの裔によりて地の諸族はみな祝福せらるべし」。26神はその僕を甦えらせ、まず汝らに遣し給えり、これ汝ら各人を、その罪より呼びかえして祝福せん為なり』
【使徒5】
33かれら之をききて怒に満ち、使徒たちを殺さんと思えり。34然るにパリサイ人にて凡ての民に尊ばるる教法学者ガマリエルと云うもの、議会の中に立ち、命じて使徒たちを暫(しばら)く外に出さしめ、議員らに向いて言う、35『イスラエルの人よ、汝らが人々に為さんとする事につきて心せよ。36前にチウダ起りて、自ら大なりと称し、之に付随(つきしたが)う者の数、おおよそ四百人なりしが、彼は殺され、従える者はみな散らされて跡無きに至れり。37そののち戸籍登録のときガリラヤのユダ起りて多くの民を誘い、おのれに従わしめしが、彼も亡び従える者もことごとく散されたり。38然れば今なんじらに言う、この人々より離れて、その為すに任せよ。若(も)しその企画(くわだて)その所作(しわざ)、人より出でたらんには自ら壊(やぶ)れん。39もし神より出でたらんには彼らを壊ること能わず、恐らくは汝ら神に敵する者とならん』40彼等その勧告(すすめ)にしたがい、遂に使徒たちを呼び出だして之を鞭(むちう)ち、イエスの名によりて語ることを堅く禁じて釈(ゆる)せり。41使徒たちは御名のために辱(はずか)しめらるるに相応(ふさわ)しき者とせられたるを喜びつつ、議員らの前を出でされり。42斯て日毎に宮また家にて教をなし、イエスのキリストなる事を宣伝(のべつた)えて止まざりき。
【使徒6】
8さてステパノは恩惠(めぐみ)と能力(ちから)とにて満ち、民の中に大なる不思議と徴とを行えり。9ここに世に称うるリベルテンの会堂およびクレネ人、アレキサンデリア人、またキリキヤとアジヤとの人の諸会堂より人々起(た)ちてステパノと論ぜしが、10その語るところの智慧と御霊とに敵すること能わず。……
【使徒7】
51項(うなじ)強(こわ)くして心と耳とに割礼なき者よ、汝らは常に聖霊に逆らう、その先祖等のごとく汝らも然り。52汝らの先祖たちは預言者のうちの誰をか迫害せざりし。彼らは義人の来(きた)るを預(あらか)じめ告げし者を殺し、汝らは今この義人を売り、かつ殺す者となれり。53なんじら、御使たちの伝えし律法を受けて、尚これを守らざりき』
54人々これらの言を聞きて心、怒に満ち切歯(はがみ)しつつステパノに向かう。55ステパノは聖霊にて満ち、天に目を注ぎ、神の栄光およびイエスの神の右に立ちたもうを見て言う、56『視よ、われ天開けて人の子の、神の右に立ち給うを見る』57ここに彼ら大声に叫びつつ耳を掩(おお)い心を一つにして駆け寄り、58ステパノを町より逐(お)いいだし、石にて撃てり。証人らその衣をサウロという若者の足下に置けり。59斯くて彼等がステパノを石にて撃てるとき、ステパノ呼びて言う『主イエスよ、我が霊を受けたまえ』60また跪(ひざま)づきて大声に『主よ、この罪を彼らに負わせ給うな』と呼わる。斯く言いて眠(ねむり)に就けり。
【使徒8】
1サウロは彼の殺さるるを可(よ)しとせり。
その日エルサレムに在る教会に対(むか)いて大なる迫害おこり、使徒たちの他は皆ユダヤ及びサマリヤの地方に散らさる。2敬虔なる人々ステパノを葬り、彼のために大いに胸打てり。3サウロは教会をあらし、家々に入り男女を引出して獄に付(わた)せり。……
26然るに主の使ピリポに語りて言う『なんじ起(た)ちて南に向いエルサレムよりガザに下(くだ)る道に往け。そこは荒野なり』27ピリポ起ちて往きたれば、視よ、エテオピヤの女王カンダケの権官にして凡ての宝物を掌(つかさ)どる閹人(えんじん)、エテオピヤ人あり、礼拝の為にエルサレムに上(のぼ)りしが、28帰る途(みち)すがら馬車に坐して預言者イザヤの書を読みいたり。29御霊ピリポに言い給う『ゆきて此の馬車に近寄れ』30ピリポ走り寄りて、その預言者イザヤの書を読むを聴きて言う『なんじ其の読むところを悟るか』31閹人いう『導く者なくば、いかで悟り得ん』而してピリポに、乗りて共に坐せんことを請う。32その読むところの聖書の文は是なり『彼は羊の屠場(ほふりば)に就くが如く曳(ひ)かれ、羔羊(こひつじ)のその毛を剪(き)る者のまえに黙(もだ)すがごとく、口を開かず、33卑しめられて審判を奪われたり、誰かその代(よ)のさまを述べ得んや。その生命、地上より取られたればなり』34閹人こたえてピリポに言う『預言者は誰に就きて斯く云えるぞ、己に就きてか、人に就きてか、請う示せ』35ピリポ口を開き、この聖句を始としてイエスの福音を宣伝う。36途を進むる程に水ある所に来りたれば、閹人いう『視よ水あり、我がバプテスマを受くるに何の障(さわ)りかある』38すなわち命じて馬車を止め、ピリポと閹人と二人ともに水に下りて、ピリポ閹人にバプテスマを授く。39彼ら水より上がりしとき、主の霊、ピリポを取り去りたれば、閹人ふたたび彼を見ざりしが、喜びつつ其の途に進み往けり。40かくてピリポはアゾトに現れ、町々を経て福音を宣伝えつつカイザリヤに到れり。
●我らを見よ
【使徒3】
1昼の三時、いのりの時にペテロとヨハネと宮に上りしが、2ここに生れながらの跛者(あしなえ)かかれて来る。宮に入る人より施済(ほどこし)を乞うために日々宮の美麗(うつくし)という門に置かるるなり。3ペテロとヨハネとの宮に入らんとするを見て施済を乞いたれば、4ペテロ、ヨハネと共に目を注(と)めて『我らを見よ』と言う。5かれ何をか受くるならんと、彼らを見つめたるに、6ペテロ言う『金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に与う、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め』
「名によりて」ではなくて、「名に在りて」です。
「イエス・キリストの名に在りて歩め」
ということ。
7すなわち右の手を執りて起ししに、足の甲と踝骨(くるぶし)とたちどころに強くなりて、8躍り立ち、歩み出して、且あゆみ且おどり、神を讃美しつつ彼らと共に宮に入れり。
ペテロが、
「我らを見よ」
と言った。いくら見ても分からんです。何かをもらえるかと思った。そうしたら、
「我に有るものを汝に与う、ナザレのイエス・キリストの名に在りて歩め」
と言った。キリストの御名が力をもっている。御名の実体はもちろん聖霊です。キリストの霊にペテロは満たされていますから、それで「我を見よ」とか「我らを見よ」とか言った。私たちもそのように、キリストに本当に内住していただいて、そして、
「我を見よ」
ということ──何も口で言わなくたっていいですが──そういう現実にいることが非常に大事なことです。とにかく、聖霊ということを意識しなくても、そういう呼吸の中にみ霊が呼吸しているようなことにならなければ。祈り心というのはキリストの中に、祈入していることです。
●無相の相
「悔改(くいあらため)」という言葉がありますが、あの訳はあまり感心しない。あの「メタノイア」という字は「方向転換」という字なんです。心も身体も神に向かって、キリストに向かって転換している。横を見るのでもなく、自分を見るのでもない。キリストを見る。キリストは神の現象体ですから。神さまは見えない。これは無相です、相(すがた)が無い。キリストは無相の相なんです。
「6即ち彼は神の貌(かたち)にて居給いしが、神と等しくある事を固く保たんと思わず、7反って己を空しうし僕の貌をとりて人の如くなれり。」(ピリピ2・6~7)
と書いてあるとおりです。我々は福音書でキリストの相(すがた)は分かっていますから、これに向かう。
ところが、エレミヤ記31章に、
「18われ固(まこと)にエフライムのみずから歎くをきけり云く汝は我を懲(こら)しめたもう。我は軛(くびき)に馴(なれ)ざる犢(こうし)のごとくに懲治(こらしめ)を受たり。エホバよ汝はわが神なれば我を牽転(ひきかえ)したまえ。然ば我転(かえ)るべし。
これは素晴らしい言葉です。
「私は帰れません。だから、あなたが私を引き返してください」
と、本願の力により頼んでいる。
「自分は悔改めるなんてできません。悔改めさせてください。方向転換をあなたの方からやってください。そうしたら、私は帰ります」
ということ。これは非常にずぶといようだけれども、これが本当の信仰なんです。「弥陀の本願の力」というけれども、それと同じです。キリストは私たちを助けようとしている。
「我は罪びとを招かんとて来たれり」
という。そして、
19われ転(かえ)りし後に悔い教を承(うけ)しのちに我が脾(もも)を撃つ。我れ幼時(わかきとき)の羞(はじ)を身にもてば恥じかつ辱(はずか)しめらるるなりと。」(エレミヤ31・18~19)
「帰ってから初めて本当の悔改ができた」
と書いてある。
●絶信の信
キリストがよく、
「汝の信仰、汝を救えり」
というようなことを仰る。そうすると、あの言葉に躓くと、一生懸命で信仰を厚くし深くして救いにあずかろうと思う。「汝の信仰」というのは、
「お前が私にこんなに無条件により頼んだことが」
ということなんだ。信仰がサムシングではない。だから、私は、
「信仰なんかありません」
と言う。自分の信仰を何ものかと思っているうちはダメなんです。何もない、ただ引きつけられている、ただ照らされている、ということ。太陽の光で我々は照らされて、私たちは見ているようだけれども、この光がなかったら見えない。目は見ているのではない。この光のおかげで見ることができるようになっている。自然的な存在としての我々は太陽がなかったらどうにもならん。
だから、神・キリストがいつも責任をもってやっていてくださる。こちら側は無責任だ。そういうようなのが本当の絶信の信というもの、自分の信に絶したところの信の世界がそういうわけです。だから、「汝の信仰」ということは、
「お前がかくも完全に私により頼んで、私の力を受けようとしていること」
です。信仰がサムシングと思ったらダメです。キリストが、
「信仰うすき者よ」
と仰るから、「信仰を厚くしなければならない」なんて思ったら、そうではない。
「お前はまだ私を本当に受けとっていないね」
ということです。ああいう言葉が躓きになりますから。キリスト絶対です。
●無即無限無量
その世界で一番凄いところにいったのが、浄土真宗では一遍上、禅宗では一休です。この終りの者が一番本当の世界に入った。無の世界が一番大事なんです。即無限無量がやってくる。無も、自分で無となったのではない。「なかなか無になれません」とよく言うが、そうではない。無は、キリストは、いただくものなんです。十字架で無をいただいている。我無き世界を十字架が私たちにくださっている。もう、無条件に「ありがとうございます」と言う他に何もありはしない。そうすると、この無は凄い根底の無だから、即、そこは無限無量に展開していく。その無限無量というのは聖霊の世界です。だから、
「十字架・聖霊は絶対に切り離すことのできない関係にある」
というのは、そのことなんです。
エレミヤ記31・18の、
「我を引き帰したまえ、我は帰るべし」
このエレミヤの言葉は素晴らしい言葉ですから、忘れないでください。
「我は帰りしのち悔改めた」
という。悔改めてから帰るのではない。帰ってから、本当の転向ができた、ということです。
●イエス・キリストの名
使徒行伝のペテロのところに戻ります。
「我らを見よ、我がうちにあるものを汝に与う。イエス・キリストの名にありて歩め」
と言って右の手をとったら、たちどころに歩めるようになってしまった。踊り上がってしまった。
7すなわち右の手を執りて起ししに、足の甲と踝骨(くるぶし)とたちどころに強くなりて、8躍り立ち、歩み出して、且あゆみ且おどり、神を讃美しつつ彼らと共に宮に入れり。
これは生まれながらの跛者(あしなえ)ですよ。
キリストのみ力は死人をも甦えらせた。息子の柩の側でお母さんが泣いていた。
「泣くな、安心しろ」
柩に手を置いて、
「起きよ!」
と言ったら、死人が甦えってきた。大変なかたです。キリストの中に宿っている聖霊の力、全身がキリストは聖霊で満ちているからね。
我々もキリストに来ていただく。
「主さま、入ってください」
と、深く祈り入ると、力がくる。
ペテロの中に充満しているキリストの生命、聖霊があるから、「我を見よ」ということが言える。
私たちはクリスチャンなんて言わなくたっていい。キリストの証者ということ。身体で全身でもって身証する証人(あかしびと)です。
6ペテロ言う『金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に与う、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め』
一番大事なのは、キリストの霊、キリストの御名です。
「キリスト者というのは、本当にキリストの霊をいただいている者、その証者である」
ということ。でなかったら、クリスチャンなんて言えないわけです。「キリストは神の子であることを信じます。贖ってくださったことを信じます」なんて、そんな観念的なことを言ったってしょうがない。
●なぜ我らを見るか
こういうところを読むと、私はペテロになってしまう。普通の本でも、一流の本を読むと、例えばダンテを、或いはゲーテを読むときには、その作者の心の中に入ってしまう。それでなければ、本当に読めるということにならない。第一流のものの他は読む必要がない。たくさん本があるけれども、第一級の本だけ読めばいい。
「キリストの御名にあって歩め」
とは、
「キリストの御名の中で歩め」
ということです。「に在る」ということが大事なことです。
「神のうちに生き、動きまた在るなり」
とは、パウロのアテネのアレオパゴスの演説の中の素晴らしい言葉です。私たちは、
「キリストの中に生き、動きまた在るなり」
ということ。それは人間だから、そんなことを一々意識なんかしてませんよ。けれども、中心がそこにおいて展開していなければ。螺旋形に動いたって何だっていい。しかし、その中心方向は間違いがない。
9民みなその歩み、また神を讃美するを見て、10彼が前に乞食にて宮の美麗門に坐しいたるを知れば、この起りし事に就きて驚駭(おどろき)と奇異(あやしみ)とに充ちたり。
11斯て彼がペテロとヨハネとに取りすがり居るほどに、民みな甚だしく驚きてソロモンの廊と称うる廊に馳せつどう。12ペテロこれを見て民に答う『イスラエルの人々よ、何ぞ此の事を怪しむか、何ぞ我らが己の能力と敬虔とによりて此の人を歩ませしごとく、我らを見つむるか。
「我らを見よ」
と言いながら、
「なぜ、我らを見るか」
と、ここが面白いところだ。
「なぜ見るか、私たちの力でも私たちの信仰でもないぞ」
ということです。
13アブラハム、イサク、ヤコブの神、われらの先祖の神は、その僕イエスに栄光をあらしめ給えり。
「キリストがなさったんだ。私ではないよ」
と。この3章のペテロの絶信の信の姿が私は非常に好きなんです。「ペテロは非常に素晴らしい信仰だ」なんて、そんなことは言わない。「冗談言うな、キリストだ」ということです。ペテロはキリストを身証しました。身をもって証ししながら、しかし、
「決して私ではありません、イエス・キリストさまです」
と言っている。やっぱり、これは本当の無の世界です。
●砕けの神学
汝等このイエスを付(わた)し、ピラトの之を釋(ゆる)さんと定めしを、其の前にて否みたり。14汝らは、この聖者・義人を否みて、殺人者(ひとごろし)を釋さんことを求め、15生命の君を殺したれど、神はこれを死人の中より甦えらせ給えり、我らは其の証人なり。16斯てその御名を信ずるに因りてその御名は、汝らの見るところ識るところの此の人を健(つよ)くしたり。イエスによる信仰は汝等のもろもろの前にて斯る全癒を得させたり。17兄弟よ、われ知る、汝らが、かの事を為ししは知らぬに因りてなり。汝らの司たちも亦然り。18然れど神は凡ての預言者の口をもてキリストの苦難を受くべきことを預(あらか)じめ告げ給いしを、斯くは成就し給いしなり。19然れば汝ら罪を消されん為に悔改めて心を転ぜよ。20これ主の御前より慰安(なぐさめ)の時きたり、汝らの為に預じめ定め給えるキリスト・イエスを遣し給わんとてなり。21古(いにし)えより神が、その聖なる預言者の口によりて、語り給いし万物の革(あらた)まる時まで、天は必ずイエスを受けおくべし。22モーセ云えらく、「主なる神は汝らの兄弟の中より我がごとき預言者を起し給わん。その語る所のことは汝等ことごとく聴くべし。23凡てこの預言者に聴かぬ者は民の中より滅し尽さるべし」
と、エライことを言っている。これはモーセが言ったという。申命記18章にある。モーセはキリストまでまだ見通しはきいていませんでしたけれども、とにかく、「凄い預言者が出てくる」と言った。キリストは預言者どころでないんだ、救主だから。
24又サムエル以来かたりし預言者もこの時につきて宣伝(のべつた)えたり。
預言者たちの言が、知らずして段々、キリストへの預言となってくるわけです。特に一番凄いのはイザヤ書です。イザヤ書53章です。
私はイザヤ書53章から「砕けの神学」というのを書いたことがある。北森氏が「痛みの神学」なんて言うから、
「痛みではない。本当の砕けだ」
と言って、私は「砕けの神学」を書いた。
●キリスト本位
使徒行伝5章のところに、ガマリエルというのが出てくる。
33かれら之をききて怒に満ち、使徒たちを殺さんと思えり。34然るにパリサイ人にて凡ての民に尊ばるる教法学者ガマリエルと云うもの、議会の中に立ち、命じて使徒たちを暫(しばら)く外に出さしめ、議員らに向いて言う、35『イスラエルの人よ、汝らが人々に為さんとする事につきて心せよ。36前にチウダ起りて、自ら大なりと称し、之に付随(つきしたが)う者の数、おおよそ四百人なりしが、彼は殺され、従える者はみな散らされて跡無きに至れり。37そののち戸籍登録のときガリラヤのユダ起りて多くの民を誘い、おのれに従わしめしが、彼も亡び従える者もことごとく散されたり。38然れば今なんじらに言う、この人々より離れて、その為すに任せよ。若(も)しその企画(くわだて)その所作(しわざ)、人より出でたらんには自ら壊(やぶ)れん。39もし神より出でたらんには彼らを壊ること能わず、恐らくは汝ら神に敵する者とならん』
さすがはガマリエルです。ペテロやヨハネの存在が神によっていることを見ているから、「うっかりすると、お前たちは神さまに逆らうことになるぞ」と。
40彼等その勧告(すすめ)にしたがい、遂に使徒たちを呼び出だして之を鞭(むちう)ち、イエスの名によりて語ることを堅く禁じて釈(ゆる)せり。41使徒たちは御名のために辱(はずか)しめらるるに相応(ふさわ)しき者とせられたるを喜びつつ、議員らの前を出でされり。42斯て日毎に宮また家にて教をなし、イエスのキリストなる事を宣伝(のべつた)えて止まざりき。
御名のために恥を受けたり、誤解されても一向差し支えない。
「汝らはわが名のためにすべての人に憎まれん」
とキリストは言っておられる。とにかく、クリスチャンというのはこの世の方向と逆の方向だ。この世の方向は自己本位で、我々の方向は神本位、キリスト本位です。道が違うんだ。仕方がない。けれども、それが本当は現世を救う道なんです。
神・キリストとの関係がちゃんと立っていることを平安と言います。平安のないところに平和はない。平安があると、後から平和がくる。縦の関係が立たないで、横の関係が立つか。縦糸が大事なんです。
「神を愛することと隣人を愛することは一つだ」
とキリストが言われたのは、この縦の関係が立てば、横の関係が立つということ。「神を愛する」といったって、私たちは愛せませんよ。神に愛されていることに気が付くことが、神を愛することになる。リアクションなんだ、アクションではない。
「もし神より出でたらんには彼らを壊(やぶ)ること能わず」
とある。この「神より出で」の「より」というのは「エク・テウー」と書いてあって、「神の中から」という字です。「アポ」ではない。アポだと外側からで、「エク」というと中側からだ。ドイツ語でいうと「アウス・ゴット」です。「フォン」ではなく「アウス」です。私たちは、「神の中から」ではなくて、「キリストの中から」です。
●最初の殉道者ステパノ
使徒行伝第6章にくると、ステパノのことが書いてある。ステパノというのは凄い。パウロの先駆者だから。パウロはステパノの殺されることを良しとしていた。後から、参ってしまった。ステパノなくしてパウロは考えられないというくらいだ。ステパノは、
「汝らは聖霊に逆らう」
とハッキリ言った。
8さてステパノは恩惠(めぐみ)と能力(ちから)とにて満ち、民の中に大なる不思議と徴とを行えり。
よく「不思議と徴」という言い方が出てくる。
9ここに世に称うるリベルテンの会堂およびクレネ人、アレキサンデリア人、またキリキヤとアジヤとの人の諸会堂より人々起(た)ちてステパノと論ぜしが、10その語るところの智慧と御霊とに敵すること能わず。
パウロの先駆者です。ステパノは最初の殉道者です。私は殉教とは言いたくない。道に殉ずる。
「我は道なり」
というキリストの道に殉じた殉道者です。教えではない。道です。
「神からの道であり、神への道である」
というのがキリストという道ですから。
聖霊の一番の根底は愛です。愛にまさる力あるものはない。
「アモール エスト プロプリアム ノーメン スピリティ」
「聖霊の最初の名は愛である」
というアクイナスの言葉がある。パウロがコリント前書13章で愛のことを盛んに言っています。あそこにはひとつも「聖霊」と書いてないけれども、あれは聖霊の愛です。キリストの愛はイコール聖霊の愛ですから。み霊は愛です。そして愛は一切を包んでしまう。一切をゆるす。
エレミヤ記31章31~34節の言葉は非常に新約的な言葉だ。これは忘れないように。
「33然どかの日の後に我イスラエルの家に立てんところの契約は此なり 即ちわれ我が律法をかれらの衷(うち)におき、その心の上に録(しる)さん
頭ではない、心だと。
我は彼らの神となり彼らは我が民となるべしとエホバいいたもう。34人おのおのその隣とその兄弟に教えて汝エホバを識れと復いわじ。そは小より大にいたるまで悉く我をしるべければなりとエホバいいたもう。我彼らの不義を赦しその罪をまた思わざるべし。」(エレミヤ31・33~34)
「もう、罪も忘れてしまうよ」
と書いてある。許すばかりでなくて忘れてしまうという。エレミヤのこの言葉は素晴らしい新約です。「心の中に録す」という。エレミヤというのは心のハートの預言者です。イザヤは霊の預言者、霊的な人だ。
「霊で祈り、心で祈る」
とパウロが言っている。スピリッツとハート、両方なくてはダメです。聖霊は我々の知情意の三つの働きをちゃんと統括できる。
「我彼らの不義を赦しその罪をまた思はざるべし」
とは素晴らしい言葉です。新約にもなさそうな言葉だ。
ステパノの大演説の後で、
51項(うなじ)強(こわ)くして心と耳とに割礼なき者よ、汝らは常に聖霊に逆らう、その先祖等のごとく汝らも然り。
と言った。聖霊を瀆(けが)す罪はゆるされない。キリストの悪口を言ってもいいけれども、その頃は。けれども、聖霊に逆らう者はゆるされないと書いてある。
55ステパノは聖霊にて満ち、天に目を注ぎ、神の栄光およびイエスの神の右に立ちたもうを見て言う、56『視よ、われ天開けて人の子の、神の右に立ち給うを見る』57ここに彼ら大声に叫びつつ耳を掩(おお)い心を一つにして駆け寄り、58ステパノを町より逐(お)いいだし、石にて撃てり。証人らその衣をサウロという若者の足下に置けり。59斯くて彼等がステパノを石にて撃てるとき、ステパノ呼びて言う『主イエスよ、我が霊を受けたまえ』60また跪(ひざま)づきて大声に『主よ、この罪を彼らに負わせ給うな』と呼わる。斯く言いて眠(ねむり)に就けり。
眠りはしない。霊界に往ってしまったのだから。み霊の信行のクリスチャンは絶対に眠りはしない。みんな霊界に往くんです。「永眠しました」なんて書いたらダメです。永久に眠ってしまったら大変なことだ。「往生しました」ならいい。向こう側に往って生きましたと言うなら。「往生」という言葉は素晴らしい言葉だ。
使徒行伝7章の55節から60節は素晴らしい。これは本当の凱旋ですよ、勝利です。勝ったと思った奴らがみな負けです。殺されていく者たちが本当の勝利をもって叫んでいる。
●パウロの回身
1サウロは彼の殺さるるを可(よ)しとせり。
その日エルサレムに在る教会に対(むか)いて大なる迫害おこり、使徒たちの他は皆ユダヤ及びサマリヤの地方に散らさる。2敬虔なる人々ステパノを葬り、彼のために大いに胸打てり。3サウロは教会をあらし、家々に入り男女を引出して獄に付(わた)せり。
エルサレムで迫害が起きた。使徒たちの他は皆サマリヤの方へ散らされてしまった。サウロは相変わらず悪いことをしている。そのうちにダマスコ途上でキリストにやっつけられる。
「サウロ、サウロ、なんぞ我を迫害するか」
と、ぶっ倒されてしまった。三日三晩、目が見えず、ものが食べられず、アナニヤの按手でもってパウロは目が覚めた。あれがパウロの回身だ。パウロは随分我の強い者だったから、とうとうキリストにやっつけられた。それで曠野で祈って、そうした時に十字架が現れた。一番キリストに逆らっていた奴が、今度はイエスの最大の弟子になった。大転向です。
●ピリポの伝道
ピリポのことが使徒行伝の8章26節から40節まで書いてある。面白いね、ここのところは。
26然るに主の使ピリポに語りて言う『なんじ起(た)ちて南に向いエルサレムよりガザに下(くだ)る道に往け。そこは荒野なり』27ピリポ起ちて往きたれば、視よ、エテオピヤの女王カンダケの権官にして凡ての宝物を掌(つかさ)どる閹人(えんじん)、エテオピヤ人あり、礼拝の為にエルサレムに上(のぼ)りしが、28帰る途(みち)すがら馬車に坐して預言者イザヤの書を読みいたり。29御霊ピリポに言い給う『ゆきて此の馬車に近寄れ』30ピリポ走り寄りて、その預言者イザヤの書を読むを聴きて言う『なんじ其の読むところを悟るか』31閹人いう『導く者なくば、いかで悟り得ん』而してピリポに、乗りて共に坐せんことを請う。32その読むところの聖書の文は是なり『彼は羊の屠場(ほふりば)に就くが如く曳(ひ)かれ、羔羊(こひつじ)のその毛を剪(き)る者のまえに黙(もだ)すがごとく、口を開かず、33卑しめられて審判を奪われたり、誰かその代(よ)のさまを述べ得んや。その生命、地上より取られたればなり』34閹人こたえてピリポに言う『預言者は誰に就きて斯く云えるぞ、己に就きてか、人に就きてか、請う示せ』35ピリポ口を開き、この聖句を始としてイエスの福音を宣伝う。36途を進むる程に水ある所に来りたれば、閹人いう『視よ水あり、我がバプテスマを受くるに何の障(さわ)りかある』38すなわち命じて馬車を止め、ピリポと閹人と二人ともに水に下りて、ピリポ閹人にバプテスマを授く。39彼ら水より上がりしとき、主の霊、ピリポを取り去りたれば、閹人ふたたび彼を見ざりしが、喜びつつ其の途に進み往けり。40かくてピリポはアゾトに現れ、町々を経て福音を宣伝えつつカイザリヤに到れり。
凄いね、これは。ピリポは見えなくなってしまった。そしたら、アゾトに現れて、そこでまた福音を伝えている。こういう凄い現実だからね、ここらは。乗り物も何もないんだ、歩いて行ったのでもない。聖書のみ霊の世界の現実というのは凄いから、いい加減な気持で読めない。「参りました!」と言って読まないと。
●真道の御霊
ヨハネ伝第14章に、
「14何事にても我が名にありて我に願わば、我これを成すべし。15汝等もし我を愛せば、我が誡命を守らん。16われ父に請わん、父は他に助主(たすけぬし)をあたえて、永遠に汝らと偕に居らしめ給うべし。」(ヨハネ14・14~16)
このヨハネ14・16が大事です。
「助け主、聖霊を与えて、永遠に汝らと偕に居らしめ給うべし」
とある。聖霊は別な言葉で言えば「助主(たすけぬし)」です。
「これは真理の御霊なり」
「真理」「アレテイア」という言葉がどうも観念的に響いて困る。「理」という言葉が躓きになる。「本当のものを持っているところのみ霊」ということ。「本もの」だ。けれども、「本もの」という言葉でもちょっと言い表しにくい。「真道」、本当の道、
「真道の御霊なり」
ということです。
「我は道なり」
という。道というのは、真理が身についているのを道という。
日本人は本当は道の民なんです。柔道、剣道、弓道、書道、華道、茶道というでしょ。みんな道なんだ。真理が身につくその現実がこの道という言葉です。私はその点で道というのが好きだ。日本人は本当は道の民なんだ。だから、日本人は、福音は一番本当は受けやすい。
老子が道ということをよく言った。無道の道。老子というのもでっかい。孔子が「老子は龍の如くにして、とてもかなわない」と言った。老子というのは凄い。
●内住の愛
「その日には、我わが父に居り、なんじら我に居り、われ汝らに居ることを汝ら知らん。」(ヨハネ14・20)
「居る、居る、居る」と書いてある。だから、
「神-キリスト-我」
というものは、お互いに連なっていることを「居る」「の中にいる」という。みな内在関係です。内住と言ってもいい。それが本当の愛なんだ。
本当の生命は愛がなければならない。愛のない生命というものは生命ではない。「私は生きています」なんて言ったってダメなんだ。
「私は愛です」
ということが本当の生命の世界です。愛より強いものはない。愛は最大の力です。愛というのは相手を助けること、救うことだ。ただ感情的に愛するのではない。
「愛するとは、助けること、救うことなり」
と。具体的な働きをもたなければ、愛とはいえない。普通、「私はあなたを愛しています」なんて言うが、そんなのは本当の愛ではない。いつ変わるか分からない。
私たちはキリストを愛せざるを得ないんです、キリストに愛されているから。「私はどうもまだ愛されていません」なんて、そんなことはない。誰でも、キリストはその人らしく、天下一品として愛してくださっている。キリストの愛し方はそれぞれ別々です。中身は同じだけれども、愛し方はいろいろだ。或る時は、叩くかも知れない。それが愛なんだ。
親が子を叩く。憎しみをもって叩いたらダメです。愛をもって叩かなければ。憎しみというのは一番いけない。打たれる方も打つ方も地獄往きだ、愛がなかったら。サタンは愛の反対だから。分離させる霊だから。ディアボロスとはそうことだ。
「わが誡命(いましめ)を保ちて之を守るものは、即ち我を愛する者なり。我を愛する者は我が父に愛せられん、我も之を愛し、之に己を顕すべし』」(ヨハネ14・21)
ヨハネ伝14章の16節から21までは大事なところです。
「父の我に居り、我の父に居る」
というのはみなこれは愛の関係です。愛の内在関係です。
国際関係もそうなったら大したものだ。それぞれの国の善さ、その使命をお互いに尊重しあって仲良くしましょうと、どの国に対しても握手ができなければダメなんだ。国際関係は利害関係で、しょっちゅう自分の方が得するような事ばかり考えている。すべて自己本位だからいつまでたっても始まらない。条約を結んでも何でもみなそうだ。まず人間というのは救い難きものだ。だから、福音が絶対に必要なんです。
キリストの名をいい加減にしたらダメです。遠慮なく、語るべき人には語らなくては。「豚に真珠」ではダメだけれども。批判するやつ、抵抗するやつには言う必要ない。求めている人、苦しんでいる人、悩んでいる人、そういう人には福音は大いに伝えたらいい。何も知らないひとに、
「こういう世界がありますよ」
と。批判したり、逆らったりする奴は放っておけばいい、行き詰まって目が覚めるまで。反ってその方が親切なんだ。
●詩「無の光」
私の「無の光」(エン・クリスト20号、1984年10月秋季号掲載)という詩がある。
「ことの成否を顧みず、
ただ仕事を愛する。
合格・不合格を乗り越えて、
ただ最善を尽すのみ。
競技の勝敗を念とせず、
ただ全存在で自己と戦う。
投手と投球を凝視して、
全霊全身でかっ飛ばす。
このように何ごとも無私の存在で為(な)せよ!
そのとき我れ無き我れが燃えるのだ。
こうして無即全が妙(た)えに現ずる。
神なる源泉と一如(いちにょ)なる
霊的な生と動と存在に於てこそ
宇宙の無の光が現はれる。」
●詩「原始福音」
また、「原始福音」(エン・クリスト31号 1987年7月夏季号掲載)という詩にこういうのがある。
「根源存在からイエスは降臨した。
彼の言は今も霊歌の如く響く。
彼の地上の生存は原始自然的であった。
彼の生きざまはあらゆる主義や文化を超えていた。
新教でもなく旧教でもなく
使徒的にキリストに直結して我らは
彼らの如くみ霊に在って生きん。
彼らの如くキリストに祈入しよう。
彼の言の本質は霊にして生命、
キリストに在って生くるは使徒らの相(すがた)、
霊賜(カリスマ)的な力は彼らの口を通して能(はたら)いた。
我らは然るべき処で聖書の中から告白しよう。
我らは信行(しんぎょう)をもて深く柔軟に生きよう。
彼の十字架と聖霊は我らが信仰の根源である。」
●詩「使徒らの昔を」
私の作った「使徒らの昔を」という歌を歌います。讃美歌359の「夕陽はかくれて」の歌調で歌えるようになっている。
召団讃歌B2「使徒らの昔を」
(1979年12月9日作、讃美歌359 「夕陽はかくれて」の曲で)
1 使徒らの昔を 慕いて我は
聖書(みふみ)に読み入り 祈りてあれば
《おりかえし》
み霊の我が主は わが身を抱き
十字架に耐え得る 力を賜う
2 聖書(みふみ)の現実(うつつ)は 次元の高き
み霊のたばしる 生命(いのち)の世界
3 主の日を遵(まも)りて 戦いあれば
聖(み)霊も呻きて 執り成し給う
4 聖旨(みむね)のまにまに わが業をなし
主に在る生きざま 貫き往かん
5 わが世の旅路も 日暮を迎へ
夕の鐘の音(ね) 暮韻嫋々
6 終末(おわり)の峠を 踏み越え進み
星のしるべにて 嶮路を往かん
7 常世(とこよ)の晨の 明くるときには
天使(みつかい)天降りて 昇らせ給え!
私たちの生活は主の御名を讃えながら、心の中の「歌いつつ歩まん」なんだ。キリスト者はくすぶっていたらダメです。クリスチャンはどんな顔をしていても、本当は心の中は喜んでいる世界です。いかなることがあっても、決してへこたれない。その人を見ると何だか知らないけれども楽しくなる。『眠られぬ夜のために』を書いたスイスのヒルティという人はそういう穏やかな笑みの人だったらしいね。
ドイツ人というのは非常に理性的な角度が強いものを持っている。そういう意味では、日本人はもう少し理性が強くなくてはいかんと思う。日本人はどちらかというと、情の民です。人間の一番中心は情です。情がなかったらダメです。情と、それに理性、意志、この三つをちゃんとバランスをもって統括するのが聖霊です。だから、御霊はありがたい。狂わないです。
御霊の基は十字架です。十字架と聖霊は絶対に離してはダメです。
「火を投ぜんとて来たけれども、我には受くべきバプテスマあり。十字架に架かって贖罪をしてから聖霊を与えるぞ」
というルカ伝12章のあの聖言は非常に大事な聖言です。
「そうしたら、聖霊を与えるから祈って待っていろ」
と。十字架・聖霊のあの構造をみんないい加減にしている。十字架・聖霊の構造という言い方はしないけれども、パウロというのはそれがハッキリしている。
「汝らには十字架の他には何も語るまじと思う」
と言っているかと思えば、ローマ書8章は聖霊の凱歌です。コリント前書13章は愛の凱歌です。コリント前書13章は福音の心臓だ。ところが、ローマ書8章は霊の凱歌です。ローマ書の中心は何といっても8章です。新約聖書というのは無駄がない。大変なものです。正にこれは聖霊の書です。福音書は言うまでもなく、黙示録に至るまで。
●祈り
祈ります。主さま、あなたに救われて感謝いたします。御前に平伏します。あなたの直接の弟子たち、使徒たちは本当にあなたと直結して証してくれました。それが新約聖書となりました。あなたを証した文字は永遠の文字です。私たちはこの朽ちざる驚くべき新約聖書を何よりも愛して愛読し身読し、そして進んで参ります。これを食らっていきます、飲んでいきます。この集会を祝福してくださり感謝いたします。一人一人のいろいろな問題も、問題それ自身がどうなっても、その奥ではあなたが既に解決していらっしゃることを受けとって進んでいきます。どのような事があっても、絶対に行き詰まりません。ありがどうございます。かくして、本当に一人一人がこの福音の身証者として進んで行くことができますことを感謝いたします。御名を讃えたてまつります。アーメン!

