無者キリスト

無者キリスト
 キリスト道講演会(京都会館にて) 1975年11月24日
小池辰雄


【見出し】
●講演会でなく座談会 ●百世の師ヒルティ ●ただ一事を欠く ●聖書は神のドラマ ●非常にずれてしまっている日本 ●南無キリスト ●地球は太陽に動かされている ●「汝いずこにおるや」 ●「-99 」を滅ぼす「+1」 ●四位一体 ●パウロ的転向 ●聖霊のバプテスマ ●自我から抜ける ●十字架によって無者とされた者 ●キリストの十字架の砕け ●キリストは宇宙的な存在 ●「一粒の砂の中に宇宙を見る」 ●キリストに降参しながらしがみつく ●本当の自由 ●祈り


●講演会でなく座談会
皆さんと少し離れた所からお話して、もっと近くでお話したいけれども、大講堂だからやむをえません。どうぞ、講演会だなんて思わないでいただきたい。まぁ座談会かな。親しく――皆さんが何人いらっしゃるかしらんけれども――お一人お一人とお話をしているというお気持で聴いていただたい。聴くのも語るのも、これは同じことなんです。どうぞ、楽な気持でお聞きください。ただ、楽な気持なんですが、今日は何か、魂に或る響きを受けとって――言葉の意味ではないです――響きを受けとってお帰りになっていただきたいと、こう念願しております。
どうも、とかく「キリスト教」というと、
「キリスト教の内容はどうである」
と、小難しくなっている。そんなことをやっているから、いつまでたっても、
「もうこんなキリスト教なんか止めだ」
なんて、そういうのが多いわけです。あるいは、形式的に、「まぁ日曜がきたから、教会へ行きましょう」なんて。
私は十二、三年前にドイツのハンブルクで一年間、あそこの大学の講師をしてましたけれども、ルター教会にほとんど一年間通っていました。そうすると、だいたいやって来るのは、中年以上のおばさんたちがいちばん数が多い。それから、そのような年配の紳士たち。それから、若い女性たち。若い男性がいちばん少ない。どこかドライブに行ってしまうんでしょう。だいたいこれがドイツのハンブルクのルター教会の状態ですけれども、全世界なべてだいたいそんな傾向ではないかと思う。それくらいにキリスト教は、火がそろそろ消えかかっている。おそらく仏教の世界もそうじゃないかと思う。
●百世の師ヒルティ
二十世紀はあと四半世紀ですが、世界的に精神的な危機である。世界の精神界の、キリスト教界のチャンピォオンである、カール・バルト、エミール・ブルンナー、マルチン・ブーバー、カール・ヤスパース、パウル・ティリッヒ、こういう偉大な神学者、哲学者、宗教哲学者の五人の巨匠がここ数年にみんな向こう側に往ってしまった。何か精神的な指導者がいなくなってしまったということを思うくらいです。
ヒルティが、
「世界の歴史のあるひとつの断層のところには偉大な人が消えていく」
ということをあるところで書いていますが、ちょっと恐ろしい感じがします。カール・ヒルティというのは、十九世紀から二十世紀の始めにかけてのスイスの聖者といわれるような人です。ヒルティの宗教道徳論は、私は不朽なものだと思っています。キリスト教に入る入門書としてヒルティの本くらい健全なものはない。青年諸君はぜひともヒルティのものは読んでもらいたい。ヒルティは、国際法学者で、また弁護士もやっていた。
「自分は、もし何回生まれかわっても、弁護士になる。弱者のために、虐げられた者のために弁護してやる」
と。事実、本当に愛の深い弁護士であった。百世の師としてヒルティを私は思う。
私は無教会出身なんです。内村鑑三、藤井武、塚本虎二という無教会の三大先生に相前後して師事しました。この先生に師事したのはおそらく私一人ではないかと思うくらいです。特に藤井、塚本先生は非常にヒルティを言っておられました。一高で岩本禎というドイツ語の有名な先生がヒルティを教えられたところから始まった。岩本先生はまたケーベルという博士――東大の哲学の先生でしたが――その先生からどうも聞いたらしい。ヒルティという名前を皆さんが知っていただきたいので、私はご紹介したわけです。
●ただ一事を欠く
キリスト教でなくたっていいですよ、仏教でも。とにかく、人間は本来みんな魂がある。我々はこころとか魂とかいうものがある。こころや魂の世界は宗教の世界に属するもの。なぜ、この宗教の世界を日本人はいいかげんにしているのだろうか。もったいない話ですよ。このことに本当に気がついてくれなければ。文部省がダメですよ。
私は高等学校の校長もやっているものだから、全国高等学校長会議となると二千人くらい集まります。そこで私は時々言うんです、
「校長さんがた、いかがですか。山にこもって少し冥想したらいかがですか」
なんて言うものですから、だいぶ私は変わり者で有名になってしまったらしい。
これは教育の根源に――この本(『無者キリスト』)にも「宗教と教育」という論説を書きましたが――教育者自身がその魂の世界の掘り下げをしないで、教育ができるかと。保育園から大学にいたるまで日本の教育は希望がないとおもう。まぁ、いろいろ一生懸命で工夫もし、論議もし、立派な本もあります。けれども、
「ただ一事を欠く」
とキリストが仰りはしないかと思う。このことは、この魂の教育がなされていないから。それで何か教育の面に妙な政治色が入ってみたり、とんでもないはなしです。正直、ドイツあたりでは教育の中にそんな政治面は入ってきません。ドイツ人というのはとにかく見当のいい自覚のある国民です。
日本の将来はそういう教育界、先生自身、我々自身の責任である。それからもうひとつ責任がある。それは家庭のお母さんです。それでは、お父さんたちはどうでもいいかと。そうではありませんけれども、特にお母さん方がこの魂の世界に、子どもたちに魂の薫育をなさらなかったら、たとえ、学校の先生が目覚めても、これもダメ。片手落ち。また、お母さん方が目覚めても、先生方が目覚めなかったら、これもダメ。これは車の両輪みたいなもの。鳥の両翼のようなわけで、家庭と学校とは、そういった意味において一如になる。PTAなんていう言葉がありますが、本当にPTAという言葉をその角度から自覚しているかというわけです。もう私は叫ぶのがいやになってしまったです、正直。
その意味で、女性は歴史をつくります。男女同権なんていって張り合う必要はひとつもない。縁の下の力持ち、隠れたる存在として女性はそこに床しさがある。そこにまた女性の栄光があります。だいたい、偉大な人間――「偉大な」なんていわなくてもいいけれども、本当に社会に貢献した人物、偉人といったらいいでしょうね――この偉人のお母さんたちはほとんど例外なしに魂のいい方です。その魂の世界は宗教の世界です。
私たちがこうやって大気を吸っているように、魂が霊気を吸わなかったら、そのような魂だったら、どんなにキリスト教に詳しかろうが、仏教に詳しかろうが、日曜礼拝を欠かさなかろうが、これはダメ。本当の宗教はこれを生きること。生きることが本ものであるかどうかと、これだけです。神さまは天界に――天国とかあるいは極楽とか――そこへ呼ぶ人たちはみな地上において本当に生きたかどうか、それだけをおそらく問われると思う。人間は人の品定めはひとりもできない。
ですから、この宗教のことは実はいちばん根源的な、いちばん身近な、いちばん根本となる問題で、これをぬきにして生活があるかという。旧約聖書に、
「空の空なるかな、すべて空なり。日の下に新しきものなし」
と、あの「伝道の書」「コーヘレス」の書に言っているとおりです。もし、神に生きなかったら、もしキリストに生きなかったら、もし如来に生きなかったら、この神仏に生きることをしなかったならば、「これ空の空なるかな、すべて空なり」というわけです。
●聖書は神のドラマ
聖書は教えではない。ドラマです。神さまのドラマであります。キリスト教ではない。キリスト道であります。この聖書という神の歴史の、光の世界が闇の世界を光の世界に変えようとして、光りかかっているところのドラマである。このドラマの中に自分の身体を、全身を投じて読むのでなければ、絶対に聖書は読めません。聖書研究会なんてことをいくらやってもダメです。どうぞ、旧来の陋習(ろうしゅう)を破って、本当に新しく、偽りなく、この書にぶつかって、自分を投げ入れて読む。サマリヤの女がキリストと語っていたら、ヨハネ伝4章にきたらば、自分がサマリヤの女となって、キリストと会話する事態に自分を置かなくてはいかん。そういうドラマ中の人物となって、キリストに体当たりする。これが聖書を身体(からだ)で読むことであり、本当に祈りをもって読むということが、これなんです。何か祈祷書で祈るのが祈りではありません。
そういうことで、ぜひともまず素晴らしいもんですから、これは。人間の一切の現実が聖書の中に暴露されてある。しかし、それは審かんがためではない。ぜんぶ救い上げんためであります。闇を除(の)けるためではなくて、闇を光に変えるためであります。死を生命に変える。罪を本当に浄光の世界に救い上げてしまう。
仏教の「本願」という言葉が私は大好きです。ここには本願寺がありますが、本願寺あたりにみんな行って、その気持をもって、いったい今は見物に来る人はいるんでしょうかね。まず虚しいことが多いようですね、日本は。
●非常にずれてしまっている日本
まぁ日本みたいに雑多な国があるでしょうかね。テレビでもチャンネルがたくさんあって、次から次へと回していたら何もできやしない。そして、怪物が出てきて、小さい子が怪物を好きになってしまって、服に怪物の絵がしてあったり、帽子に怪物がついてたり、そんなのを喜んで、それでなければ困るなんて。全くこれは歪んでしまった。なぜ、文教の府が本当の規制をしないか。日本みたいな野放図な自由な国はない。秩序がなくなってしまった。今の民主主義なんて私は大嫌いだよ。本当のデモクラシーを知らないから。
私は学校で戦前も戦後も、師道孝道をハッキリ言っています。だいたい、日本人は道の民です。道の民である歴史的な精神的伝統をどうしてしまったか。真理を身に体することを道という。頭でもって
「真理が分かった、わからない」
なんて、そんなことはどうでもいいんだ。昔の儒者も、一流の仏僧もみな道に生きた。聖書を学ぶ者は、聖書道に生きなかったら、もうキリスト教なんて言わん方がいいわ。
とにかく、もう非常にずれてしまっている。このずれを元に返すために、
「カトリックだ、プロテスタントだ」
のと言う必要はない。私は、カトリックやプロテスタントの歴史を無視するのでも、軽んずるのでもありません。それぞれが大事な真理のあとをたどって来てはおります。けれども、宗教改革者のマルチン・ルターはどうしたんですか。
「パウロたちの信仰に立ち返ろう」
というところに宗教改革があった。
いつも本当のその根源に戻ること。大乗仏教がやはりそうです。あの小乗仏教でもって煩瑣な戒律仏教になってしまったから、これではダメだといって、元の根本仏教に戻ろうというわけです。ユダヤ教がそうです。戒律宗教になって、預言者の宗教がすっかりずれてしまった。そこで、キリストが
「偽善なるかな、学者、パリサイ人よ」
と。これはキリストが預言者の宗教に戻し、また預言者の宗教を完成させてしまった。
「聖書は我につきて証しするなり」
とキリストは言われた。旧約のいろんな預言の川がキリストの中に流れこんだ。ガリラヤ湖というのがそういうわけだ。そのガリラヤ湖そのものみたいなキリスト。それから、泉のごとくヨルダンの川が流れていく。
私はここにも書きましたけれども、「ヨルダン」「ヤルデーン」というのは「法」と同じ意味です。川、下に流れ下るものを「ヤルデーン」という。「法」という字は「三水に去る」「水は低きに流れ去る」と書く。やはり漢民族はえらい。水は低きに流れ去る。その姿が自然の法である。それが「法」という字のもとであるというわけです。
漢字は世界最高の文字です。この漢字をいい加減に略したり、制限したりして、精神的な宝を貧弱にしている。いったい漢学者や国学者は何だというんだ。なぜ、そんなケチなことをするか。難しい「龜」という字をあんな変てこなゴタゴタした書き方をしなくていい。あれは少し楽したってわかるから。亀の格好をしているから。けれども、意味を取り損なってしまうような略し方をされたら困るんです。漢字は素晴らしいものです。
●南無キリスト
「無」という字の形は、「廿(にじゅう)廿の林の上に天蓋」がある。大空の下に廿廿の、四十の林がある。その木は数えられない。無は無数を表す。素晴らしいじゃないですか。もう「無」という字それ自身が福音的な言葉です。
「無即無限無量」
と私が言うのは、無は即ち無数を表している。この漢字そのものが実は福音的な角度のことを表している。これは仏教の方の、大乗仏教はまったくそういう角度ですよ。無とか空とか言うが、絶対なる無限無量なるものをやはり表しているんです。だから、仏教といえどもキリスト教といえども、その真理のひとつの質には非常に共通したものがある。
だから、私は一流の坊さんのものをかじったりするのが好きなんです。彼らは本当にそこに生きたし、それを本当に証していたからね。
「南無阿弥陀仏」という言葉が私は大好きだ。これはキリスト教は負けだなと思うくらいです。「南無阿弥陀仏」とは素晴らしい。「アミッター」というのは「無量寿無量光」という言葉だそうです。限りなき生命、永遠の生命。限りなき無限の光。「仏」というのは、その覚者、それを本当に身につけた覚者。「南無」はそれに帰入する、帰命すること。
「南無阿弥陀仏」
というのは、
「無量寿無量光の覚者に帰命せんかな」
という祈りです。これは直ちにキリストのことになるではないですか。「無量寿無量光の覚者」はイエス・キリストではないですか。これに帰入する。だから、私たちクリスチャンも「南無阿弥陀仏」と祈って一向差し支えない。私は、
「南無キリスト」
と時々言います。あんまり「南無阿弥陀仏」と言うと、仏教の人に何だと思われるかもしれない。キリスト教の人に「これはおかしいな」なんて、おかしく思われたっていいよ。
「南無キリスト」(キリストの中に帰入する)
ということが本ものでなければ、「信仰」なんていくら言ったってしょうがない。信仰という言葉がなんとこのキリスト教で躓きになっているかと思う。
「私は信仰なんてありません」
と言いたい。私はこの頃、「信仰」なんてあまり言わない。「信入」という──どういうものだか新しい熟語ができてしまう。漢字はありがたいね──信入する。キリストの中に信入してしまう。信じ入るんです。「信仰」の「仰」の字は、「交」でもいい。「信交」、信じ交わる。仰いでばっかりいてもダメですよ。距離がある。距離がある世界は本ものでない。無距離にならなくては。どうしたら無距離になるか。その中に入るよりか仕方がない。
「父の懐(ふところ)に在(いま)し給いしイエス・キリスト」
と、ヨハネ伝1章に書いてある。あの「懐」というのはいい言葉ですね、日本人にはよくわかる。この頃みんな洋服を着ているから分からないかもしれないが、和服を着ている方にはよく分かる。もういっぺん和服を着たらいい。「父の懐に」という。キリストの中に。
「神・キリスト・我」の三重の内接円の関係です。キリストは神さまの中にしょっちゅういました。神さまの懐の中で祈っていました。嵐の時にガリラヤ湖上で舟がひっくり返りそうなときに、舟板を枕にしてキリストは眠っている。
「先生、舟がもうひっくり返りそうです」
と、弟子が起こした。
「なんぞ、信仰うすきや。なんぞ、恐れるか。沈まないんだ」
と。キリストは舟板を枕にしていた。父の懐に在るがごとし。舟板を父の懐としてキリストはそこに眠っていた。この『無者キリスト』の扉にあるところのレンブラントの絵は、私は大好きで掲げた。これが本当の信仰の姿である、という意味ですよ。人生のどんな荒波の中でも、運命環境が如何であろうとも、父の懐の中にあるというのが信の現実である。信は即ち現(うつつ)であるということです。
「私の信仰はまだ薄いから、もう少し強くしよう」
なんて、いつになったら強くなるんですか。信仰そのものを相対的に判断しているからそういうことになる。キリストの言葉が躓きになる。
「信仰うすき者よというから厚くなろう。薄くてはわるいから」
なんて思う。イエスの言葉をもなお突き抜けなければダメです、言葉にこだわっていたら。
「儀文は殺し、霊は活かす」
という。キリストがこう仰ったが、その本義はどこにあるかということが聖霊の光でもってみえてくる。
聖書の言葉は暗号にすぎない。そこの奥の根源語が読めてこなくては。ギリシア語でもヘブライ語でもない。ギリシア語ができヘブライ語ができれば聖書はなおよく分かるか。冗談じゃない。どうもそういう妙な学問臭いようなのは、嫌いだよ。誤訳だらけの日本語の聖書で結構です。その奥が読めるような魂にならなけばダメなんです。
聖書は文字の後から叫んでいる、呻いている。また、驚くべき讃美を発している。パウロの書簡を見てごらんなさい。パウロは時々、絶叫しています。ローマ書7章でもって彼は本当に呻いている。これは自分の罪のために。どうにもならんと。
「この悩める、この死の体(からだ)から私を救ってくれるものは誰だ。主イエス・キリストのゆえに感謝する」
と。7章は地獄のような渦まいているところだが、8章になると、もう天界の非常に明るい、力強い愛に満ちている。ローマ書8章なんてものは大変なもんです。若い人はこれを暗記するくらい熟読したらいい。マルチン・ルターが『ローマ書序文』で言っている。
「これはいくら読んでも尽きない。暗記するほどにまで読む価値のあるものだ」
と。ローマ書というものをルターはそのように言った。ルターの宗教改革のグルント(基礎)になっているものはこのローマ書です。二十世紀のカール・バルトの「ローマ書」もやはりそのような気合でとりかかっているわけです。
聖書はいわゆるギリシア語でもヘブライ語でもない。神さまの根源語、根源の言葉である。それを読む。これは万国に共通の言葉です。音楽は万国に共通のものだね。そのように、聖書もまた──たくさん翻訳はあるけれども、翻訳があって分かるのではない──奥の響きによって奥が読める。
●地球は太陽に動かされている
日本に伝道に来た有名なカトリックの坊さんのザビエル。あの人はもちろん日本語なんかあまり分からない。彼は、しかしながら、ものを言うと、霊言を発しているから、言葉は分からなくとも、さっき申し上げたこの響きを受けとって、それで回心した人がどれくらいいるかわからない。何万という人がこのザビエルによって動いた。
「カトリックだからどうだ、プロテスタントだからどうだ」
と、そんなことを私はひとつも言っているのではない。私は九州の、ザビエルのあそこの碑の所に行って、本当に冥想して感謝しました。
そのような、神の言葉が化体するようなことにならなくては。これがパウロが言っている、異言の世界、霊言の世界です。
「霊によりて祈り、心によりて祈る」
とパウロが言っているのはその消息なんです。そういった、深い神の言葉の響きを受けとる。プロテスタントが「み言葉、み言葉」といって、言葉の今度は解釈ばっかり詮索して、どうのこうのとやっている。これではユダヤ教の律法と同じことで、ちっとも本当の力がなくなってしまう。プロテスタントは常に自分にプロテストするものが本当のプロテストだ。常に自分を乗り越えて進んで行かなかったらダメですよ。
創世記の3章はアダム・イブのお話だよ。これは神話です。
「こんな神話は本当か」
なんていって自然科学的な頭で読むから、若い人はすぐ躓いてしまう。神話的な表現でどのような深い真理が言われているかと、これが読めなかったら、聖書は読めない。聖書にはたくさん間違いがありますよ。惨憺たる書ですよ、聖書は。けれども、惨憺たる書ではあるが、しかし、創世記から黙示録まで貫いている。何が貫いているか。神の霊が貫いている。今の人は、
「いったい、神さまはあるだろうか、ないだろうか」
なんていうわけで、だいたい無神論ですよ、
「私は無神論者ですから」
なんて、何を言っているか。論や何かで神さまのことが片付きはしませんですよ。それで片付いたつもりでいる。
地球は太陽に動かされている。地球は、どんなことを言おうが、太陽に動かされていることは事実なんだ。太陽の光でもって、私たちはこの光熱でもって活かされていることも事実だ。それなのに、
「お天道さんはもうこれは決まりきった話だ」
というわけです。私は、朝日に向かって拝む人の方がよほど信心深くて人らしいと思っている。夕日に向かって
「サヨナラ、また明日来てくださいよ」
と言う。それくらいの魂にならなくては。
偉大な人間は童心をもっています。そして、普通の人が何とも思わないことに驚異驚嘆する。ゲーテという詩人がそのような詩人でありました。ドイツの最大な詩人ゲーテは非常に太陽に対するところの素晴らしい、明るい心の開きをもっていた。昼の十二時の時計が鳴る時にゲーテは生まれた。本当に
「私は太陽の子(ゾンネンキント)である」
と、彼はそう自覚していた。ゲーテの文学は明るい。有名なドイツ文学最高の『ファウスト』の一番先は、
「太陽は昔ながらの調べをもって響いている」
と、「太陽(ゾンネ)」で始まっている。最後は、
「永遠に女性的なるもの
 我らを引き上げていく」
で終わっている。どこへ引き上げていくんですか。ゲーテは書いていない。仕方がないから、私はそのあとに二行付け加えてやった。
「愛と歓喜をもって
 神聖なる太陽へ向かって」
と。「神聖なる太陽」とは神さまのことです。ゲーテは天界で苦笑しているかもしれない。「太陽」で始まったら、「太陽」で終わりたい。そういう真理の閃きが自然にやってくるんです、私みたいなやつでも。
ゲーテと並び称せられるダンテ。私の今度の第2巻(『芸術のたましい』)にはゲーテもダンテも出てきます。ダンテの『神曲』の終わりは全部、「星(ステレ)」で終わっている。ダンテは冥想の詩人、星の詩人である。ゲーテは目でものの本質を直観するところの昼の詩人。ゲーテは昼の詩人、ダンテは夜の詩人とでも言いたいくらいです。これが双璧です。まぁシェイクスピアはちょっと別な角度のもの凄いやつだけれども。
●「汝いずこにおるや」
話はいろいろずれましたけれども、私の話は螺旋(らせん)的に進んでいくので仕方がない。
さっきの創世記3章、アダム・イブのお話でございましたが、
「エホバ神、アダムを呼びて言い給いけるは、汝はいずこにおるや」(創世記3・9 )
「汝いずこにおるや」と。私たちは神さまに、見えない神さまに、
「お前はどこにいるのだね」
と、尋ねられている。この聖書を読んで、この神の声に、「私もこのように尋ねられているんだな」ということに気がつかなかったらば――
「ああ、これはアダムとイブが禁断の果を食べて逃げたものだから、神さまに尋ねられているな」
なんて、アダム・イブのよそごとみたいに読んでいたら、いくらこれをヘブライ語で読んだって──これはダメです。自分がそこに尋ねられているという、さっきから申しあげている、ドラマである。自分がアダムとなり、自分がイブとなって、神さまの尋ねに当たって尋ねられているんだなと。
「私は今どこにいるのか。神さまの前にいないではないか。神の方に向かっていないではないか」
ということに気がついたらば、
「申し訳ありません。私はそっぽを向いていました。人間を見ていました。自分を見ていました。あなたを見ていませんでした」
と。そして、そこに本当にぶっ倒れてごらんなさい。聖書は、その前にぶっ倒れるまでは、聖書の扉は開かれない。
「わかる、わからない」
ではない。
「信仰がどうだ、こうだ」
ということでもない。
●「-99 」を滅ぼす「+1」
福音書でキリストは桁違いの人物です。彼が言っていることは、わからん。分からなくて当然です。また、できない。
「汝ら、父の全(まった)きが如く全かれ」
なんて、キリストは無条件でそういうことを仰る。
「神さまのように全くあれ」
なんて、誰がそれに及第できるか。ところが、キリストはそういうことを仰る。どういうことなのか、これが福音だというのだから、困ってしまったね。およそ福音から遠いような言葉です。どうしたらいいのか。どうしようもないではないですか。
「主さま、キリストさま。そんなことを仰っても、私はとてもダメです。あなたの前にぶっ倒れます。何とかしてください」
と。キリストに「何とかしてください」と言わなければ、そしてしがみつかなくてはいかん。その中に信入しなくてはいかん。キリストはそのみ腕をもって、
「よし、私の生命をやる。私に在るものをお前に与える。私自身を与えるぞ」
と。そこに可能が出てくる。どんなに私たちが不完全であろうとも、そこに全さが、全さという質をもったところの何ものかがやってくる。
人間小池は「マイナス99」でもいい。そこに本当の「1」が、この「マイナス99」をやっつけるところの「1」が入ってくる。数学では「-99+1=-98」だね。この「1」は、そんなものではない。「-99 」を滅ぼしていく。プラスに変えるところの「1」なんです。
このキリストを本当に身に体すると、この「1」が動き出す。これが信の現実なんです。それを受けとるまでは、「信仰」なんてことは言わん方がいい。
私は無教会の内村鑑三、藤井武、塚本虎二という先生方――もちろん、先生方をどうこうと私は言うわけではない――けれども残念ながら、この「1」を本当に受けとる事態をそこから――私の聴き方がわるかったからでしょうね――学びとることができなかった。
パウロはこの「1」の消息を、ヨハネも、ペテロもこの新約聖書でちゃんと言っている。この「1」が即ち、聖霊なんです。キリストの霊です。旧約でいうところの霊とは違う。
●四位一体
キリストは、弟子たちと一緒にご飯を食べた。ペテロやヤコブやヨハネはしょっちゅうキリストの身近にいた。何かというとこの三人が呼ばれて──変貌の山でもそう──何か祈る時も特にこの三人がその横にいたことがある。それでもどうにもならん。その素晴らしいキリストの横にいながら、聖霊が入ってこない。一時的にはちょっと入ったようなこともありますよ、けれども、すぐにぬけてしまう。それをキリストは知ってらっしゃる。
「お前たちは躓く。今に私を捨ててしまう。私は一人になってしまう。私が受くべきバプテスマ、十字架の血のバプテスマを通って本当にお前たちを贖いとるまでは、聖霊はこない。十字架を通って私が天界に行ったら、今度は霊をくだす。約束の聖霊をくだす」
と。ヨハネ伝14章以下に大事なことが書いてあります。そうして、彼らは祈って待っていた。
「祈って待っていろ」
と仰ったから。そしたら、五旬節の日に聖霊が臨んできた。風の如く火の如くやってきた。そう書いてある。各人の上にとどまったと。グレコーという画家がその光景を描いてます。おもしろい絵です。キリスト教の歴史はそこから始まった。
どうですか、この歴史は。その火は、消えたとはいいません。所々でとにかく灯り続けてまいりました。けれども、
「聖霊を宿さざる者はキリスト者にあらず」
と、パウロはローマ書8章でハッキリ言っている。聖霊のないのは──「まちがっている」とか、パウロが言うような意味で
「キリスト者にあらず」
と言わなくても、「まぁまぁキリスト者でしょう」くらいのことは言えましょうけれども──本当の意味では、聖霊を宿さなければキリストのものとはいえない。
だいたい「教会」という言葉は、「主に属するもの」という意味ですよ、もともと「キュリアコン」というのは。「教会」なんていう訳し方がまちがっていた。これは「主に属するもの」「主属」なんだ。主属所なんだ。
そういう、キリストに連(つら)なっているところのもの。「キリストに連なる」とは、何で連なるかというと、御霊のほかに連なりようがない。「三位(さんみ)一体」ということばかり言っていて、「四位(よんみ)一体」ということを言わないのだから。
「神―キリスト―聖霊―我」
という、これは四位一体なんだから、ハッキリ。
●パウロ的転向
ペテロは何と言いましたか。宮にやってきたら、門の所に乞食がいる。その乞食が何かもらおうとしたところ、ペテロが
「金銀は、私は持っていないよ。お前にやるものはない。けれども、わがうちにあるものを汝に与える。キリストの御名によりて歩め」
と言ったら、生まれつきの跛者が立ってしまったという。このペテロの中には御霊のキリストが本当に生きておられた。使徒行伝のペテロやパウロを見てごらんなさい。福音書のペテロはガタガタだ。沈んだり浮いたり。ペテロは漁夫だから、まるで波みたいだ。いいと思ったら、キリストに、
「サタンよ、退け!」
なんてやられてみたり。とてもペテロなんてのは当てにならない男だった。ところが、御霊がきたら、本当に当てになる人になってしまった。御霊を宿さざる信仰なんてものは信仰でも何でもない。
私は、無教会にいたときには、そこのところが本当に体験されていなかった。信仰のすじはいい。けれども、すじだけではダメですよ、そこに血が通っていなければ。
「血は生命のあるところ」
とあるように、聖霊は即ち生命の霊である。生命の霊の質は即ち愛である。どうしても、皆さん、この事態を身につけないことにはもったいないですよ。
「無条件にはいれる。十字架でもってすっかりお前を贖いとったから」
ということです。しかし、パウロはそれが分からないから。ステパノという殉教者がパウロの前に現れたけれども──
「お前たちは聖霊に逆らう」
とハッキリ言いました。素晴らしい使徒です、ステパノというのは。殉教の第一人者──パウロはユダヤ教だから、みんなでステパノを石で殺してしまった。
「彼らは為すところを知りません。ゆるしてやってください」
と、キリストの十字架の祈りでもってステパノは祈った。血にまみれて倒れながら、彼の魂は天界へ往ってしまった。これを見てもなおパウロは悔改めないんだ。悪いやつだね、パウロというやつは。だから、
「我は罪びとの首(かしら)なり」
なんて、彼はあとで言っている。しょうがない野郎だというわけで、復活のキリストが、
「サウロ、サウロ、なんぞ我を迫害するか」
と。天界のキリストは、烈火の憤りと顧みと、ステパノに対する思いやりをもって、ついにパウロを撃ってしまった。ダマスコ途上で、キリストのこの言葉とその霊光に撃たれて、彼はぶっ倒れてしまった。もう目が見えず、耳が聞こえず、口がきけず、三日ほど。アナニヤという人に按手されてやっと助けられた。
「わが眼より鱗(うろこ)のごときもの落ちたり」
と。とんでもない傲慢だったと。ユダヤ教にあって神のために熱心であったパウロは、自分を立てている熱心はどんなに熱心であっても、これはダメであります。
宗派根性というのはみんなそれなんです。
「私の信仰は、私の宗派は……」
なんてなわけで。カルビンもその罪を犯してしまったね、相手を焼き殺してしまった。とんでもないです。信仰の事態を私(わたくし)してはダメです。聖霊の私(わたくし)はもちろんできない。パウロがそのいわゆる自分の側の熱心からすっかり抜けさせられた。キリストにあっての熱心に切り替わった。180度のコペルニクス的転向というよりもむしろ、パウロ的転向と言ったほうがハッキリしている。霊界の転向はパウロ的転向。自然界の物理の法則ではコペルニクス的転向という。逆転の真理です。それで今までの自分のユダヤ教的な信仰とその律法を拳々(けんけん)服膺(ふくよう)していたところの律法の義をかなぐり捨てた。そんなものは
「塵芥(ちりあくた)の如く思う」
と言った。
「とんでもない間違いだった、私は自分を立てていた。私はこのキリストの僕となる。キリストの奴隷となる」
と彼は言った。
マルチン・ルターがパウロのこの事態を受けとって、『クリスチャンの自由』という本を書きました。宗教改革の有名な、短いですけれども、珠玉の本です。こちらの親鸞の『歎異抄』とルターの『クリスチャンの自由』は東西の両珠玉篇といっていいでしょうね。あの『歎異抄』を独訳でカール・バルトが読んで、
「こういう素晴らしい信仰があるか」
といって驚いた。彼の『ドグマティーク』(『教会教理学』)の中に書いてある。
パウロはそういうひっくり返りをしました。そして、荒野で冥想して、十字架が何であるかが本当に身にしみてきた。
「十字架という言葉が
十字架というこの事実が、
これはユダヤ人には躓きであり、ギリシア人には愚かである」
と。自分がユダヤ人であり、かつギリシア的教養をもっていたから、よく分かっているんだ、彼は。本当に選びの器です。
●聖霊のバプテスマ
どうして、今のクリスチャンたちがこの使徒行伝やパウロのこれを見て、一緒になって
「いや、たまらんな。本当にそうだ」
といってぶっ倒れないんですか。研究なんかしているから、ダメなんだよ。そして、だいたいおさまったような顔している。
皆さんはどうぞ、皆さんはそうじゃないと思うけれども、今日わたしの話を初めてお聞きになるかたは本当に──うそじゃないですよ──あの「研究会」なんてやると、だんだん信仰がおかしくなってしまうかもしれないよ。まぁ何も研究会がわるいとは言ってませんけれども。研究会がもしあれだったら、そいつに本当に身読会というやつを逆につくってやる。身体で読む会を。
そのようにして、パウロはひっくり返らされて、聖霊のバプテスマを受けました。本当にこれは十字架の贖いがあったからこそだよ。もうこの一点です。「十字架、十字架」といって教会では、世界中の教会はやっているけれども、パウロがガラテヤ書2章20節でいっているとおり、
「われキリストと共に十字架せられたり。もはや、われ生くるにあらず、キリストわがうちにありて生き給うなり」
とは何ですか。御霊のキリストではないですか。キリストの御霊ではないですか。キリストは天界にいらっしゃいますよ。それを何か形容詞的に、何かこころくらいで受けとっているような受け方をしているから、いつまでたっても始まらない。これは祈りこんで、ぶっ倒れて――「ぶっ倒れて」とさっきからさんざん言ってますが、何も倒れなくていいけれども――存在的にはぶっ倒れて。私は正直、ぶっ倒れたです。これは、
「幸いなるか、心の貧しき者。天国はその人のものなり」
というところを読んだときです。あの「心」というのは「霊」という字です。
「幸いなるかな、霊の貧しき者。天国はその人のものである」
と。キリストの「山上の垂訓」の「垂訓」なんていうからいかんです。なぜ「垂訓」なんていうんですか、もったいぶって。キリストの大告白といったらいいじゃないですか。キリストは自分で体験しないことは一言も仰らない。教えようとして言ってらっしゃるのではない。自分の体験した真理をぶちまいているだけのはなしです。
「幸いなるかな、霊の貧しき者」
とはキリスト自身でありました。彼は神さまの前に本当に平伏していました。自分を何ものともしませんでした。だから、私はキリストのことを「無者」と申し上げる。自分を何ものともし無い者、私無き者ということ。
●自我から抜ける
孔子の「四絶(しぜつ)」というのがある。論語の中で
「意毋(な)く、必毋く、固毋く、我毋し」
と孔子が言った。四つに絶する。要するに、我執からぬけること。これは禅宗でも何でもみんなそうです。自我というやつが煩悩の中心であり、罪の主体であるわけです。
マルチン・ルターが発見したところの『テオロギア・ゲルマニカ』という本がある。『ゲルマン神学』という本、これは誰が書いたかわからない。フランクフルトの人が書いた。ルターがこれを発見した。ルターはこれを読んで、ここに彼の信仰のあるひとつの道しるべを見た。ということは、この本は結局何を言っているかというと、
「自分からぬけろ。そして、神と一つになれ。」
ということを言っている。神秘思想、ミスティークですから、そこに十字架を経たようなキリストは出てこない。キリストのことも少しは書いてあるけれども。とにかく、自分からぬけろと。
向こうの言語には、「私は、私の、私に、私を」という「私」が多すぎる。日本語は、その点は代名詞をぬいても割合に通ずる。だから、日本人は本当は宗教的に非常に入りやすい国民なんです。これはドイツ人がそう言ったです、
「日本の古文を読むと、ずいぶん人称代名詞がぬけている。それでも意味は通じている。ところが、向こうの文章は必ず人称代名詞がないとどうにもならん」
と。それくらい、ドイツ人なんてのは自意識が強い。一年間私はドイツにいて、
「あなたはどう感じましたか」
と聞かれたから、
「ドイツ人は自意識が強すぎますね」
と言ったら、
「そのとおりだ」
と。いい意味においても、わるい意味においても。いい意味においては、自意識の強いのもまた結構なことなんだけれども。余計な喧嘩なんかするからいかん。
その本には、
「我というものから外(はず)れろ。深く神に没入しろ」
ということがさかんに書いてある。ルターを導いたひとつの本です。
●十字架によって無者とされた者
キリストは、「霊の貧しい」というのは、「自分を何ものともしない」ということです。そうしたら、
「天国は──即ちキリストにとっては、神さまが、父なる神が──汝のものなり。汝のうちにあり」
と。キリストは自分の体験を言ってらっしゃるなということに気がついた。
それで、私はまねしようとしたって、まねできない。どうしたらいいか。そうしたらば、キリストの十字架があらわれた。
「汝、わが十字架によって無者とされた者よ、根底において私の無き者とされた者よ。天国即ち聖霊の我なんじのうちにあり」
と響いてきた。私は驚いて、そこにぶっ倒れたです、正直。この一言が読めたら、あとのキリストの言葉がぜんぶ読めてしまった。
鍵です、私にとっては。激しい言葉であればあるほど、もの凄い力強い言葉であることに気がついた。できない言葉であればあるほど、私を活かす言葉であることに気がついた。だから、福音なんです。
「私の中に入れ、私がやってやるぞ」
と。ぜんぶ本願の劫力がしてくださる。それはもう本当に私の中に聖霊が入ってきたら、もう居ても立ってもいられないです。それがこの福音の世界。
「なぜ、小池なんてあんな貧弱な野郎がエネルギーがあるか」
というと、私のエネルギーじゃないですよ。ありがたくてしょうがない。それはキリストの栄光がこの破れ器をとおして現れ給うから。
●キリストの十字架の砕け
今、私は「破れ器」といいました。人間は本来、破れています。あるいは、「失われている」といってもいいですが。「破れ」です、これはみんな。整ったような顔しているけれども、そんなものは偽善者だとキリストは言われる。
私は、「人間の福音的実存の七相」ということを『無者キリスト』〔著作集第1巻、1975年刊〕の第二部で書きました。第一章は、あるがままの人間の姿は「破れ」である。パウロがローマ書7章で言ったあの姿が破れです。その破れに気がついて、もう仕方がない、降参する。これが「砕け」です。
「もうしょうがない、まいりました!」
と言って、砕ける。
人類は、砕けるか砕けないかで、人類を二つに分けることができる。天国行きか、地獄行きかは、砕けるか砕けないかで決まる。
「どういうことをした、しない」
ということではない。そのことはハッキリ、十字架上の二人の盗賊が表しています。そのことも書きました。片一方のやつは、
「お前は神の子なら、俺たちを救ったらいいだろう」
なんて、傲慢にキリストに言っている。そうしたら、もう片一方の盗賊は、
「俺たちはさんざん悪いことをしたのだから当然だ。お前はまだ神を恐れないか」
と言いました。そして今度はキリストに、
「せめても、御国にいらっしゃるときに、私を覚えてください」
と。地獄の鬼が口をあけて待っていた。その盗賊は途中まで落ちたが今度は逆に天界に昇ってしまったですよ、キリストと一緒に。
「なんじ今日、われと共にパラダイスである」
と言われた。この砕けの魂は天界に行きました。砕けざる魂は地獄に落ちました。人類をもし二つに分けるものがあるとするならば、これは
「その魂が、砕けるか、砕けないか。砕けたか、砕けなかったか」
にあると私は思います。
けれども、この砕けが本ものの砕けとなるかというと、そうはどっこい早すぎた。この砕けを本当に受けとったのがイエス・キリストの十字架であります。この十字架において自分が砕かれていることに気がつくかということです、今度は。
「なかなか私は砕け得ません。無の気持になれませんが」
なんて、なりはしないよ。私は、砕けも、無もみんな賜ったんです、キリストから。私の何ものでもない。悟りでもなければ、修養でもない。絶対の恩寵です。絶対恩寵。こちらあるがまま、ぶっ倒れる。そうしたら、キリストのみ懐の中にいたというわけです。そのようにしてキリストは、
「汝わが十字架によって無とされた、我執からはずされた者よ。天国即ち聖霊の我なんじにあり」
と響いてきたから、もうこれで決まってしまったです、救いは。救いの確かさはこの一言にあった。パウロの言葉をもってきたっていいですよ。けれども、イエスの山上の大告白の第一言が、福音を全的に語っているところの大音響であったんです。皆さんは、これをお聞きになりながら、何か響きましたか。響かなかったら、つまらないです。
●キリストは宇宙的な存在
お釈迦さんは、
「八万四千の法を説いたが、一つも説かなかった」
という。キリストは、
「聴く耳ある者は聴くべし」
と言われる。説明はなさらん。魂でこの現実に共に入るということがなかったならば、結局、魂の世界は自ら体験するまではどうにもならん。行き詰まったら、ぶっ倒れてください。そこに豁然としてこの光がきますから。それをごまかしてはいかん。キリストのこの福音は、それだけの電光石火のものです。
「瞬間を本当に捉(つか)まえる者は本当の人間である」
と、『ファウスト』の中でゲーテが言ってます。また、
「自分は瞬間に全生命を賭(と)する」
と言っている。本当に生きる人は瞬間に生きている人です。内村鑑三先生が『一日一生』という本を書いたが、即ち一日を一生として生きるような生き方は、一日において永遠を生きている。瞬間において永遠をつかんでいる。また、ひとつの小さな存在において、一人の聖霊を宿している存在において、神の国がそこに現象している。イエス・キリストは、
「我を見し者は父を見しなり」
「我と父とは一つなり」
と言われた。
神さまはどこにいるか。キリストに来てください。福音書のキリストに来て神を見なかったら、どんなに神を探しても、研究しても、冥想してもダメであります。隠れたる神はキリストにおいてに露(あらわ)に現象された。露に現象されたこのキリストに躓いているんだ、みんな。キリストは「躓きの石」「言い逆らいの徴」といわれる。
ところが、このキリストと一つになって、キリストの生命がきたらどうですか。もうカトリックもプロテスタントも何もへったくれもありませんですよ。宇宙的ですから。歴史の過去・現在・未来、神の国は既に来ている。終末的現在はここにある。まぁ何ともいえないです、私は。この宇宙的な、宇宙を散歩しているような──宇宙旅行なんてあるけれども、旅行しなくても、ちゃんと旅行してます、私は──そのような、キリストは宇宙的な存在です。なぜ、そんなケチにしてしまうのですか、イエス・キリストというひとを。
およそ真理は、およそまことは――パウロも言っているじゃないですか――全部これを包摂できる。間違っているものも全部、直してしまう。もう仏教であろうと、イスラム教であろうと、老子の思想であろうと、孔子の思想であろうと、何を読んでも、そこから真理を掴(つか)みだしてしまうし、それを更に展開することができるし、まぁ何と言いますかね、真理の魔術師みたいになるですよ。楽しくてしょうがない。見たり聞いたりすることから、何か神の徴を見ている。
信仰の世界は、何か人間が狭くなって、映画も見れないかと思っている。冗談じゃないよ。何を見ても、何をしても、ぜんぶそこから本当のものを引き出すし、間違っているものはハッキリ見えるし。もう何と言ったらいいんでしょうね、これ。キリストというひとは大変なひとですから。
もうパウロはこのキリストに圧倒されてしまっている。だから、パウロの書簡というものは、彼の文字から無限にあふれている。福音書でも何でも、
「キリストの言行はとても載せきれない」
と福音書の終りの方に書いてあるではないですか。「これはキリストの言葉で、ここからここまではウソで、本当で」なんて、何をやっているかというんだ。まぁ学問をただけなすわけではありませんけれども。そういったような、重箱の隅をほじくるような学者にはならないでくださいよね。
だからもう、禅宗のものを読んでも何でも、ビンビンくる。ぜんぶ受けとってしまう。そうすると、
「仏教とキリストをお前は混淆(こんこう)にしているか」
なんて、冗談言ってはいかん。ぜんぶこれを包摂するところの驚くべき中心を持っています。
だいぶん大言壮語したようですが、ちっとも大言壮語でも何でもない。私がものを言っているのではないのだから。私をして言わしめているこの霊がある。私はただ平伏しているだけであります。
●「一粒の砂の中に宇宙を見る」
キリストにおいてそれを見るけれども、どうぞ皆さんも、小さな人の中においてそれが見える。いや、人ばっかりではない。物の中にも見えてくる。あのブレイクというのが書いた素晴らしい詩があるでしょ。
「一粒の砂の中に宇宙を見る」
という。ブレイクというやつはすごい霊的な眼を持ってます。
「野草において天を見る」
この野草において太陽の光、空気、全部これが結晶している。花を見て、そこに太陽の光の結晶を見ない人はこの花を見ていないというわけです。いくら造花が立派でも、造花には命がない。このバラは、どんなに虫にくわれていても、命がある。こういうわけです。
「無限を掌(たなごころ)の中に持っている」
有限即無限、無限即有限の世界。あなた方一人びとりが小宇宙である。
「ゲーテはマクロ・コスモスを映すミクロ・コスモスみたいな人間であった」
という。「エンテレケイア」というギリシア語がありますが、「満ち満ちて持っている、そこに満ち溢れている」という字です。これはパウロがエペソ、ピリピ、コロサイの書簡で言っているところの「プレローマ」という、溢れてしょうがない事態です。キリストは、神の一切がキリストにおいてプレローマしている。
皆さん一人びとりは、そのようなキリストが宿らなかったら、つまらんですよ。そして、それは類型的ではない。一人びとりみんなそれぞれの色彩をもって、それぞれの姿をもって、天下一品の表れ方をします。それが大きなハルモニーと、大調和となる。大交響楽となる。存在をもって交響楽を奏でなくてはいかん。民主主義とかいって、なにか類型的な人間がずらずらいるような、衆愚主義みたいなのは大嫌いだよ、そんなものは。
皆さんは、今の妙な風潮には敢然として戦って、本当の世界を開示していかなかったら、正直、二十世紀は危ない。もう天から或る示しがきてますよ、本当に危ないという。
「一刻の中に永遠をもつ」
そういうような在り方。特殊において普遍なるもの、有限において無限なるもの、無において一切をもつ。これが本当の福音を受けとっている姿です。楽でしょうがない。しかも、もの凄い活気がある。静中の動、動中の静という。ジーッとしているけれども、火山のような爆発力を持っている。原始力なんだ、私たちは。今は、原子力時代というけれども、本当の原始力は我々が持っている。始めの原始ですよ。「ウルクラフト」というやつ。ゲーテという人は非常に「ウル」(原始)という言葉が好きだった。根源をたずねることが。
●キリストに降参しながらしがみつく
「聖書というのは、そういうドラマであったか。そんな生き生きとしたものであったか」
と、キリストにぶつかって、降参しながらしがみついたら、キリストの方では、
「いや、私はお前をつかまえている。私の霊がもう入っているではないか。無条件にだよ」
と。無条件ですよ。「入っているでしょうか」なんて聞くことはない。ただ「はいっ」と言って受けとること。
「お前は、贖いとったぞ」
「はいっ」
「私はお前の中に御霊をもって居るぞ」
「はいっ」
そして、平伏してごらんなさい。来ますから。これが本当の祈りの世界なんです。
「何かをください」
なんて祈っている世界ではない。そうしたらば、何でも今度は叶えてくださる。神さまはいちばんいい時にいいようにしてくださる。
「どうもまだ聞かれてないから、私の祈りはまだ足りないかな」
なんて、そんなケチなことを考えなくていいですから。すべてが全的であります。結果はどうでもいい。運命環境を完全に支配してしまう、乗り越えてしまう。人間的な相対的な判断は、それは人間だから、ありますよ。けれども、必ずそいつをぶち破るものを持っていなければダメです。
●本当の自由
日本にはえらい人がいたよ、昔は。道元の言葉にも、
「一塵(いちじん)のうちに無量の諸仏がいます」
という。「一つの塵(ちり)の中に無量の諸仏がいます」とは何ごとですか。何と楽しい言葉かと思うね、私は。
「山川草木悉(ことごと)く仏性(ぶっしょう)あり」
というのは、大乗仏教のスローガンです。自然界との生命の連なりです。この自然を、人間がいわゆる文明文化のために一生懸命で自我本位の角度から利用しているものだから、公害現象になってしまった。さっき言った自然の法を破っているから。法則を破ったら、自然界もダメになる。人間界ももちろん、霊界もそのとおり。霊界も道徳界も自然界もぜんぶこれ法の世界です。
法律学をやる人に偉大な法哲学を書いてもらいたい。福音の世界からハッキリ言えるから。本当に法(のり)に乗ることが自由なんです。法に乗っかることが自由なんです。法を破ったらちっとも自由ではない。だから今、「自由、自由」なんて日本人が言っている自由なんてのはひとつも自由ではない。
人本主義的な自由を、自由意志論を唱えたエラスムスです。そうしたら、ルターが
「ナイン。そうじゃないぞ」
と言った。
「奴隷意志にならなければ本当の自由はないぞ」
と言って反駁(はんばく)したのがルターの『不自由なる意志について』という論文です。ところが、「不自由」といって奴隷となった相手は絶対者ですから、これが本当の自由の世界です。
今、学校の先生たちがそういう角度から本当に真理を教えなかったらダメなんです。情けないね、日本という国は。聖書も仏典も読んでいないから。
「まぁ宗教だけはよそう」
といって敬遠している。「だけは…」ではない。
「これ(宗教)だけは大事だ」
というんです。あとは自然に展開する。
どうぞ皆さんは、この今日の私たちの座談会にいらっしゃったかぎり、絶対にこのことを空しくしないでいただきたい。自分で本当に体験して、
「ああ、そうだった」
と納得する。私のこの本を――何も宣伝ではありません――ぜひ参考にしていただきたい。私はもうこの一巻を書いたらいつ死んでもいいと思っているくらいです。それだけ打ち込んであります。そして、求めている人、悲しんでいる人、行き詰まっている人に、どうか紹介してください。私は御名のために、福音のために、これを言っている。貧乏な学生にはただでもやるよ。まずこの火のような生命の真理をぬかして、人生はつまらんじゃないですか。私たちの魂はそのようなものに接するまでは、どうにもならないように、ごまかしがきかないようにできているんだから。その世界に入らなかったら、つまらんですよ、正直。
「空の空なるかな、すべて空なり」
ですよ。あとはいろんなことでごまかすことになるだけのはなしよ。どんなに幸福そうにみえても幻滅の悲哀。どんなに患難にみえても、ここは本当に天国をしょっちゅう歩いているようなところです。詩篇23篇のごとし。では、この辺でおしまいにしましょう。
●祈り
天地万物を創造し、創造の御業をなお常に新たに進めてあり、かつまた、この人類の惨憺たる歴史を見守り、根底から一人びとりを顧みてくださっている、我らの贖い主キリストのおん神さま。あなたは、主イエス・キリストにおいて自らを顕し給いました。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに啓示されているところのこの厳然たるキリスト。どん底から荷なって救い上げてくださるところのキリストさま。私たちは福音書を繙いて、聖書66巻のこれが中心であることをつくづくと思います。これは本当にいちばん生まの、いちばん身近な現実でありました。根源の現実でありました。そこに自分を投ずるときに、あなたの深い無限無量の愛に救い上げられ、
「何も心配いらん。そのままでいい。私は贖いとった。私の御霊の生命を、御霊をそのまま受けとれ、吸え。もはやその中に私とお前とは一つではないか」
と。パウロが「われキリストのうちに、キリストわがうちに」とさんざん告白していることが、この事態でありました。
使徒行伝において、ペテロは福音書のペテロとはガラリと変わっています。彼は聖霊を受けたからであります。「我を見よ」と彼は言いました。「わがうちなるキリストを」でありました。みんなが驚いて、彼を神さまのように見たら、「なぜ、私を見るか」と今度は言いました。人間ペテロではないということであります。
どうぞ、使徒たちの本当に水を割らざるところのじかじかの信仰の事態。この現実を私たちもまた身をもって歩いて行きたく存じております。いよいよ助けてください。いよいよ導いてください。いよいよ力となり、光となり、愛となってください。
一人のひとが本当にキリストに生きるならば、一つの町が救われていきます。一人びとりは本当に周囲を荷なっている存在であります。愛は上から来たり、隣人に流れていく愛であります。
「敵をも愛せよ」と。はい、できます。何となれば、あなたの愛は、敵をも荷ない上げる力をもった愛であるからであります。感謝いたします。私たちにはもはや敵もありません。誰にどう思われようと、一向差し支えありません。本当に、主さま、あなたの愛は何という素晴らしい愛であるか。パウロがコリント前書13章で絶叫している事態でありました。
この世界は今、非常に危機に臨んでおります。神・仏を忘れてしまったこの東西の事態。人類は本当に悔改めなければ、いや実に遺れる民がまず先頭になって、この身をもって証しすることが今あなたから問われております。どうぞ、そのようにして、人ごとではありません。私たち一人びとりが本当にあなたを身証するところの事態であります。自分の精神状態がどうだ、やれなんのかんのと、そんなことではありません。神さま、どうぞ、そのうようにして本当に突き抜けた在り方をさせてください。本当に無者即無限無量なるあなたをいただきまして、もはや言葉が言葉になりません。
主さま、どうぞ、このような喜びを何とかして、行き詰まれる者、悲しめる者、迷っている者に伝えるように私たちを自在にお使いくださらんことを願い奉ります。
ここに来られたところの方々が、どうぞ、その周辺にこの光を、自らが光となって灯火として、「汝らは光なり」とはこの聖霊の光でありました。どうぞ、そのようにして、闇の世に光を、冷たき世に本当の熱を伝えていくことができますように、またそのことのできることを信じて、いよいよ御名を讃え奉ります。一切は御名の栄光であります。感謝いたします。どうぞ、深く顧みてください。
今、心からの感謝と讃美、ここにあるすべての人の全身に溢れる事態と共に、主イエス・キリストの御名により献げ奉る。アーメン。

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