歎異鈔と福音
歎異鈔と福音
武蔵野日曜集会 特殊講筵 1991年6月30日
小池辰雄
【目次】
●親鸞 ●六角堂に参籠 ●『歎異鈔』序文 ●(第一条)弥陀の誓願不思議 ●(第二条)親鸞にをきてはたゞ念仏 ●(第三条)善人なをもて往生 ●(第五条)親鸞は父母の孝養 ●(第六条)専修念仏のともがら ●(第七条)念仏者は無礙の一道 ●(第八条)念仏は行者のために ●(第九条)念仏まうしさふらへども ●(第一四条)一念に八十億劫重罪
(序文)ひそかに愚案(ぐあん)を廻らして、ほゞ古今を勘(かんが)うるに、先師の口伝の真信(しんしん)に異なることを歎(なげ)き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸に有縁(うえん)の知識に依(よ)らずば、いかでか易行(いぎょう)の一門に入ることを得んや。全く自見(じけん)の覚悟を以て他力の宗旨(しゅうし)を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣(おもむき)、耳の底に留むる所、いささかこれを註す。ひとえに同心行者の不審(ふしん)を散ぜんがためなり。云々
(第一条)弥陀(みだ)の誓願(せいがん)不思議にたすけられまいらせて、往生(おうじょう)をばとぐるなりと信じて、念仏(ねんぶつ)まうさんとおもひたつ心のおこるとき、すなわち摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の利益(りやく)にあずけしめたまうなり。……ただ信心を要とすと知るべし。……念仏にまさるべき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。
(第二条)……親鸞におきては、たゞ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細(しさい)なきなり。念仏は、まことに浄土(じょうど)に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業(ごう)にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。……いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定(いちぢゃう)のすみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊(しゃくそん)の説教、虚言(きょごん)なるべからず。仏説(ぶっせつ)まことにおはしまさば、善導(ぜんどう)の御釈(おんしゃく)、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か。詮(せん)ずるところ、愚身(ぐしん)が信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御計らいなり、と云々。
(第三条)善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。……他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因(しょういん)なり。……
(第五条)親鸞は、父母(ぶも)の孝養(きょうやう)のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。そのゆえは、一切の有情(うじょう)は皆もって世々(せせ)生々(しゃうじゃう)の父母兄弟なり。……有縁(うえん)を度(ど)すべきなり、と云々。
(第六条)専修(せんじゅ)念仏の輩(ともがら)の、わが弟子、ひとの弟子という相論(そうろん)の候らん こと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候。そのゆえは、わが計らいにて、ひとに念仏を申させ候わばこそ、弟子にても候わめ、ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏 申し候人を、わが弟子と申すこと、極めたる荒涼(くわうりゃう)のことなり。……
(第七条)念仏者は無礙(むげ)の一道なり。……
(第八条)念仏は行者のために非行(ひぎょう)・非善(ひぜん)なり。わが計らいにて行ずるにあらざれば非行という、わが計らいにて つくる善にもあらざれば非善という。ひとえに他力にして自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・ 非善なり、と云々。
(第九条)念仏申し候えども、踊躍歓喜(ゆやくくわんぎ)の心おろそかに候こと、またいそぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらんと申しいれて候いしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円坊(ゆいえんぼう)、同じ心にてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを 喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。……他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけり と知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。……
(第一四条)一念に八十億劫(おくごう)の重罪を滅すと信ずべしということ。……一念発起(ほっき)するとき、金剛(こんごう)の信心をたまわりぬれば、……
(結文)……聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。……
●親鸞
親鸞は、承安三年(1173)の春に、京都の東南のあたりの所(山城国)に生まれました。ところが、生まれる前に不思議な事があった。これはよく本に書いてあります。お母さんの名前は吉光女といいます。大体、女性は、実は歴史をつくるんで、女性の魂が非常に大事です。偉い人のお母さんは、みんな魂の質がいい。これも、非常によく仏道に精進して、素晴らしく信心の厚い女の方ですが、高倉天皇の承安二年の五月二日の夜、西の方を向いて寝ていたら、夢の中に――いわゆる「夢告」ですね――金色の光がグーッと近づいてきた。そして、その光が自分の身の周りを三度回りました。そして、アッと驚いて口を開けたら、その光がパッと口の中に入って、お腹の中に入ってしまった。そして、また西の方を見ると、そこに一人の菩薩が立っている。その人は一尺ほどの木の枝を持っていた。その木は五葉の松です。五葉の松の枝を持っていた。そして、それを吉光女に渡して言うのに、
「我はこれ如意輪観音なり。汝、奇異の子を生まん」
と。変わった子を生むぞ、ちょっと並でない子を生むぞと。そう言って消えた。そういう夢を見た。ご主人に語ったら、驚いた。
どうも、特別な人は、生まれの時にいろいろな事がありますね。聖徳太子がそうです。
ところで、系譜から言いますと、大変なんだ、親鸞の系譜は。天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)の46代目の遠孫であると書いてある。聖徳太子がその系譜の中に入っているわけです。聖徳太子は藤原という号をいただいたんですが、藤原家は即ち聖徳太子から始まっている。聖徳太子の後胤(こういん)である。聖徳太子は自分の祖先なんです。だから、非常に親しみを感ずるわけなんだな。やがてそのことが出てきますけれども。そのお告げの人が、
「もし子が生まれたならば、その名前はその松の木に因(ちな)め」
と。それで、小さい時の名前は松若丸という。
ところが、また坊さんは、法然もそうですけれども、とかく父母が早く死んでしまうね。お母さんが先に亡くなって、お父さんもその後で亡くなってしまう。それで、もう九歳の時には、彼にはお父さんもお母さんもいない。大体、お釈迦さんは、始めっからお母さんを知らないものな。産んだら死んでしまったからね。
それで、伯父さんの導きでもって、九歳の親鸞が出家してしまう。そういう幻は、ヘタをすると、非常に災難に遭うということを、夫が言ったそうです。それでやっぱり、法難に遭ったね。楽しい幻では、あんまりなかった。しかし、法難に遭うくらいの人は、やはり選びの人です。大体、使徒たちもみんな十字架を負った。
それで、修行のため比叡山にのぼった。指導を受けたところの和尚さんは、慈円という。その頃の叡山の主流は、もちろん最澄、空海の方で、これは密教です。密教というのは、多少、自力的です。深く祈って、祈りを深めて、そして、仏と一つになる。即身成仏が空海ですからね。それを一生懸命でやる。ところが、なかなかその境地に入れない。苦しい。親鸞は悩んだ。勉強は非常にしました。もう大蔵教をみんな読んでしまった。それでもしょうがない。それから、一般の坊さんたちの在り方が、決して感心した在り方ではない。
それで、ある意味で、外側も嫌になったし、内側には自分の悩みがあるし、安心を得ない。それから、その当時は、親鸞が出家した時の少し前に、平清盛は死んでしまった。平家の最全盛時代はもう下り坂になっている。とにかく、源平の争いの時代で、僧兵もいるし、なんのかんのと、いろんな意味で乱れた世の中だった。天変地異もなんのかんのとあった。非常に紛糾の世の中だった。
●六角堂に参籠
それから、下りてきて――聖徳太子が建てた六角堂というのがある――その六角堂に百日をかけて参籠を始めた。ところが、九五日目に、不思議な夢告が来た。これが、建仁元年(1201)4月5日の夜、寅の刻に、救世(くぜ)菩薩――聖徳太子のこと――が現れて、次のように言った。
行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽
行者(ぎょうじゃ)宿報(しゅくほう)ニテ設(たと)ヒ女犯(にょぼん)ストモ
我ハ玉女(ぎょくにょ)ノ身ト成リテ犯(ほん)セ被(ら)レム
一生ノ間、能(よ)ク荘厳(しょうごん)シテ
臨終(りんじゅう)ニ引導(いんどう)シテ極楽(ごくらく)ニ生(しょう)ゼシメム
(行者がこれまでの因縁によって、たとい女犯(女性と肉体の交わりをすること)があっても、わたし(観音)が玉女の身となって肉体の交わりをうけよう、一生の間、能く荘厳(永遠化すること)して、その死にさいして、引き導いて極楽に生ぜさせよう)
親鸞の魂は、究極の所にいかないで、非常に苦しんでいた。また、彼の心は、非常に情の深い人です。まぁ非常に、平たい言葉でいうと、性欲の強い人です。その苦しみもあった。それで、一生懸命で何とかそこから脱しようと思った。まぁ、しかし、普通の坊さん達は、妻帯しませんけれども、尼さんといい加減なことをしてたことは事実です。これは、カトリックの歴史でもそうです。ところが、そういうゴマかしは、親鸞はできない。坊さんは、表むきは、とにかく妻帯しないことになっていたからね。表向きどころじゃない、本当の意味で、そういった独身を貫くことができるかというと、親鸞はできないんだ、なかなか。それで、一生懸命で祈ったら、行者――今、修行しているお前さんだ、親鸞のことを行者といった――宿報というのは、行者の宿縁、生まれつき持っているところの縁(えにし)だね――宿縁は女犯(にょぼん)を設けることになっている。「女犯」というのは、女性と交わることです。犯すといったって、不義な事をするという意味じゃない。妻帯のことなんです。
「女犯を設けられていることがお前の宿縁だ。そんな独りで居なくたっていいんだ」
というわけです。
「私はお前の願いに対して、玉のような女として成る。そして、私の身は犯すを受ける。即ち、奥さんとして交わるぞ」
と。だから、小野の小町みたいだな。一生の間、よく、荘厳――荘厳というのは、非常に立派に妻としての勤めを果たす、ということ。これは、恵信尼がそうなんだ。この示しの相手は、要するに、恵信尼です。これは親鸞の奥さんになった。
マルティン・ルターが、あの当時も――今でもカトリックは、神父は奥さんを持たないのが常道なんだけれども――ルターは、修道尼を逃亡させて、その一人と結婚してしまったでしょ。あれと似ているんだ。信仰の世界は、神さまはちゃんと男女に造ったんで、何も独りでいることが、ただ潔いとか潔くないとか、そんなことではない。キリストは祝福していらっしゃるんだからね。
だから、「玉女」とは実際は恵信尼のことになるわけです。
「一生の間、よく仕える。臨終にあたっては、引導を渡して、そして極楽に往生するようになるぞ」
と。親鸞はこれを受けとって、えらく喜んじゃった。「そういうことですか、それで安心しました」と。何もやせがまんしなくてよろしいと。
それで親鸞はおしまいかというと、そうじゃない。これは、身体の方の、心の方の問題が解決した。今度は、魂の問題で解決しない。魂の問題で本当の悟りの世界というか、そこには入れない。そこで、誰に一体これを尋ねたらいいかというと、或る人の言によって、「では、貴方は吉水の法然の所へ行きなさい。そうしたら、きっと何か……」と言われて、また法然の所へ一生懸命で通う。これが百日。吉水に行って、法然に承る。そして始めて、他力本願の道に入るわけです。密教や禅宗は自力的です。ところが、法然が開いたのが、他力の世界。他力本願。そして、親鸞は法然以上の世界に入るんです。
それが、今日、大いに我々が学ばなければならないところなんです。そこで『歎異鈔』にぶつかってみましょう。もう皆さんはお読みで大体お分かりかと思いますが。大事なところだけ。
私は『歎異鈔』の独訳も持っています。独訳を読むと、かえって分かりやすいくらいだ。有名な大神学者のバルトが歎異鈔を、もちろん独訳で見たんだが、「こんな素晴らしい信仰があるのか」といってびっくりした。バルトはあの『ドグマティーク』という大きな本の脚注の所にそれを書いています。私は読みました。
●『歎異鈔』序文
『歎異鈔』の序文に、
(序文)ひそかに愚案(ぐあん)を廻らして、ほゞ古今を勘(かんが)うるに、先師の口伝の真信(しんしん)に異なることを歎(なげ)き、
と書いてある。異なることを歎く。だから、「歎異」という言葉なんだ。ところが、私に言わせると、今のキリスト教は、正に、この歎異鈔を我々が書かなければ――私の書いたものは歎異鈔なんです。「いや、元のキリストの直弟子の次元に戻れ」と。
後学相続の疑惑あることを思うに、幸に有縁(うえん)の知識に依(よ)らずば、いかでか易行(いぎょう)の一門に入ることを得んや。全く自見(じけん)の覚悟を以て他力の宗旨(しゅうし)を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣(おもむき)、耳の底に留むる所、いささかこれを註す。ひとえに同心行者の不審(ふしん)を散ぜんがためなり。云々
後の人たちが相続して、いろんな疑いを生ずることを思う。縁の有るところの「知識」――その道に非常に優れた人のことを「知識」という――によらずば、いかでか本願の易行の一門に入ることをえんや。「覚悟」とは自分の主観的な見解のことです。「他力の宗旨」とは、他力本願の本質。「御物語」とは、我々に語ってくれたこと。同じ信仰の行者がいろいろ問題にしているものを全部、これを読めば、疑問はみな解けてしまう、ということ。
●(第一条)弥陀の誓願不思議
(第一条)弥陀(みだ)の誓願(せいがん)不思議にたすけられまいらせて、往生(おうじょう)をばとぐるなりと信じて、念仏(ねんぶつ)まうさんとおもひたつ心のおこるとき、すなわち摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の利益(りやく)にあずけしめたまうなり。。
「誓願」とは、本願のことです。「弥陀」は「阿弥陀」の略です。本当は、「阿」は略したらいけないんだ。「阿(あ)」は否定の字ですからね。サンスクリット語でも、ギリシヤ語でも。「ア・ミッタユー」は「無量寿」、永遠の生命。「アー」は量が「無い」。この「無い」は、否定して、とても数えられない、という意味です。「ア・ミッタバー」というのは、永遠の光、「無量光」。キリストのことですよ、要するにね。如来のことだけれども、キリストは正にアミダユー、アミダバーなんだ。その覚者、それを悟り持った人に、「南無」する、帰依する。これが「南無阿弥陀仏」だね。念仏すれば往生する、必ず往きて生きる。死なないでいる。死んで、死の向こうでもって本当に生きる。本当の永遠の生命の中に入っていく。「往生」とはいい言葉だね。往きて生きる。本当の後生願いだ。念仏すればね、仏を念ずれば。ところが、福音の世界は、往生よりか前に、「今生(こんじょう)」だ。今生きている。私たちの祈りの世界は今生の世界。今、現に、永遠の生命の中にいる。
「我を信ずる者は、永遠の生命に、死ぬとも死なない」
と。現に、今生の世界。だから、
たゞ信心を要とすとしるべし。
大事なのは信心だけだと。それで、
念仏にまさるべき善なきゆへに。
念仏以上の善きことはないと。
悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。
悪も何も恐がることはないんだと。弥陀の本願は力を持っていますよ。単なる願望じゃないですから。弥陀が、如来の本願は力をもってやってくるから。だから、こっち側がどうであろうと、問題じゃないんだ。いわゆる相対的な善悪じゃないと。だから、
「悪をもおそれることはない。躓いたり転んだりしたってくよくよするな。本願の力がみんなそいつを乗り越えさせてくれる。だから、念仏ほどいいことはないんだ」
と。仏を念ずること。我々でいうと、祈り入ることです。主に祈り入ることにまさることはない。この聖霊の世界だと、祈り入ると、その中に入ってしまって、「エン・クリスト」になってしまうから、だから、今生の世界だ。親鸞がもし、我々のこの福音の世界、キリストの直弟子の福音の世界を聞いたら、
「じゃあ、私は今度は、福音の世界に入ろう。仏さんはやめた」
なんて、親鸞は言うかも知れない。けれども、親鸞の信仰の質は、これで終わるわけじゃないですよ。
●(第二条)親鸞にをきてはたゞ念仏
(第二条)……親鸞におきては、たゞ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細(しさい)なきなり。
「よきひと」というのは法然のこと。
「念仏して助けられると、法然がそう言ったから、無条件に私はそれを受けとるんです」
と。キリストの弟子たちが無条件にキリストを受けとりましたね、「はいっ」と言って。親鸞は法然を信ずることが、百パーセントなんだ。
念仏は、まことに浄土(じょうど)に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業(ごう)にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。
「念仏して、浄土に往くか、或は地獄へ往くか、どっちでもいいよ」
というんです。そこらがまた親鸞の素晴らしいところです。天国であろうと地獄であろうと、大事なのは念仏だけだ、本願の言うとおりになると。だから、絶対に御利益教じゃないです。自分の救いのためでもない。念仏は、もちろん、結果が救いになるけれども、ただ救いを主題として言っているのではない。だから、「地獄に落ちたって結構です、もともと地獄の人間だから」なんて書いてあるんだ、後の方で。パウロの言った、「罪びとの首」みたいなことを言っている。だから、「子細ない」、「総じてもって知りません」と。
たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。
「法然を信じたら、法然のように念仏したら、私は地獄へ行ったとしても、ひとつも後悔しない」
という。これだけ先生を絶対信頼して、そして動いているような親鸞というのは、凄い魂だね。師弟関係もそこまで行ったら、もう極致だ。しかも法然の言うことは、結局、さかのぼるというと、お釈迦さんの言ったことになるんだ。だから、
「お釈迦さんが地獄へ行けと言ったら行きますよ」
というわけだ。ヨブが、
「自分は地獄に落ちても、陰府に落ちても、神さまにしがみつく」
と言った。まぁ、あの辺はまだ「しがみつき」のところがありますけれども、これは、しがみつきもしないんだ。ああ結構でございますと。
「いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちぢゃう)のすみかぞかしいずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定(いちぢゃう)のすみかぞかし。
どんな行いをしても、とてもおよびがたい。俺はダメなんだ、地獄はもう決まったすみかだ、落ちたって当たり前のはなしだ、と。
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊(しゃくそん)の説教、虚言(きょごん)なるべからず。仏説(ぶっせつ)まことにおはしまさば、善導(ぜんどう)の御釈(おんしゃく)、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か。詮(せん)ずるところ、愚身(ぐしん)が信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御計らいなり、と云々。
「愚身」とは自分のこと。
「信心は、もともと向こうからやって来ているんだから、地獄に落ちたって一向に差し支えない。捨てられたって、一向に差し支えない。念仏というものは、ただ救いを求めている念仏ではなかった。ただ本願にこれ従うだけだ」
と。そういう意味において、
「御意を成させ給え」
というキリストのあの言と、非常に質的には同じなんです。だから、キリストは十字架にかかってしまった。とにかく、
「神の御意が成ることが自分の一切である」
と。いわゆる幸福でも何でもない。幸せでも何でもない。「幸いなるかな」という言葉があるけれどもね。極まるところは、この角度が非常に大事なわけです。
●(第三条)善人なをもて往生
(第三条)善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
善人が念仏すれば往生をとげるのに、いわんや、悪人においてをや。
「我は罪びとを招かんとて来たれり」
と、キリストが言われた。
「善き者は要らない。パリサイは結構だ。お前たち、自分を義人だと思っているのは勝手にしろ」
と。ところが、本当の義人はいない。自分をダメだと思う奴ほど、本当の世界に入っていく。ダメだと言って、絶望したらダメだ。そいつもダメなんだ。
「ダメだから、いよいよ本願に依ります、その本願によって、たとえ地獄に落ちても、それはもう仕方がない」
とこういう角度なんですね。ところが、
「善人が救われたら、いわんや悪人はもう。本願はどん底を救うためにある本願であるから」
ということですね。だから、この救いの世界は、決して単なる論理では分からない。一面は、地獄へ行っていいと、しかしながら、悪人は必ず救われていくんだと。そういう矛盾構造の表現が本当の世界なんです。
けれども、大事なことは、いつも本願が主体で、人間は客体なんです。エラスムスが人間を主にして自由意志論を言った。ルターは、「そうじゃない、人間は奴隷なんだ」と、奴隷意志論を言った。神さまの言いなりになるのが本当の意志の、汝の御意が人間に成っているという。自由意志論では、御意が成らないです、人間を主にしたら。人間の相対的な世界では、エラスムスの言うことは、いわゆる道徳哲学の世界は、人間が主で、自由でいいけれども。そんな自由はまだ次元の低い自由だ。
「本当の自由は、自分の自由を捨てているところの、本当の奴隷となっているところに、上から来るところの力が、この世界が本当の自由の世界だ」
と。これが『クリスチャンの自由』の、あの言葉です。だから、『クリスチャンの自由』と、こちらの『歎異鈔』は双璧だと、私は言ったでしょ。ある意味においては、歎異鈔の方が上です。
他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因(しょういん)なり。
往生するところのまことの原因、その往生の正因は、こちらが悪人である、ダメな奴、罪びとであること。罪びとであるから、往生の正因であると。それはもう、パウロが、
「我は罪びとの首」
と言ったでしょ。「私は罪びとの首、私は罪びとのどん底だ」と言ったパウロはもの凄くキリストの中に入って、最大の使徒になった。内村先生が、
「自分もそうだから、私が救われたんだから誰だって救われる」
と、本当に彼はそう言ったです、戦場ケ原の会話の中で。
●(第五条)親鸞は父母の孝養
(第五条)親鸞は、父母(ぶも)の孝養(きょうやう)のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。
そりゃそうだよ。親鸞は、念仏する頃にはもうお父さんもお母さんも地上には居ないんだから。けれども、天界の、向こうの世界のお父さんとお母さんのためにも念仏しない、と。「しない」というのは、ただしない、という意味じゃないです。
そのゆえは、一切の有情(うじょう)は皆もって世々(せせ)生々(しゃうじゃう)の父母兄弟なり。
キリストが、
「神の御意を為す者はすべて兄弟姉妹だ」
と言ったでしょ。あれと同じ角度です。だから、誰でもが兄弟姉妹です。私たちが「兄弟姉妹」というのはそのことだからね。地上のいろいろな人間関係というのは、相対的な関係はあるさ。けれども、この福音の世界では、それが妻であろと夫であろうと何であろうと、みなお互いに兄弟姉妹だ。これは福音の世界の次元の表現ですからね。キリストを主としたところの兄弟姉妹。だから、そういうことを親鸞も言っているんです。そのためにはいくらでも念仏する。そして、
有縁(うえん)を度(ど)すべきなり、と云々。
と。そういった、みなお互いに縁があるから、そのために救いのことをやることを、「度す」という。
●(第六条)専修念仏のともがら
(第六条)専修(せんじゅ)念仏の輩(ともがら)の、わが弟子、ひとの弟子という相論(そうろん)の候らん こと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候。
「いや、誰の弟子だ」と、無教会ではしゅっちゅうやっているよ、「何々先生の弟子だ、ああだこうだ」と。そして何か、別な目で見ているような。そんことではダメです。教会であろうと、無教会であろうと、召団であろうと、原始福音であろうと、何だって構やしない。そんな事を何故言うかと、パウロも言っているでしょ、
「キリストだけだ。お互いにゴタゴタ、誰の弟子だ、どうだこうだなんて、そんなことじゃないぞ」
と。ルターも、
「ルター派なんてものをつくるな」
と、彼自身が言っているんです。ところが、ルター派というのがある。
だから、親鸞には一人も弟子はいないと。
そのゆえは、わが計らいにて、ひとに念仏を申させ候わばこそ、弟子にても候わめ、ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏 申し候人を、わが弟子と申すこと、極めたる荒涼(くわうりゃう)のことなり。
自分のはからいで、さぁやれ、と言ったら、それは弟子かも知れないけれども、如来が、弥陀の「御もよおし」によって――これが大事なんだ――上からの御もよおしによって、その世界に入った者を、何故、弟子なんかと言えるか、と。
それは、御もよおしの取次ぎをするようなことはありますよ。だけれども、本当は、ただ取次ぎは取次ぎだけれども、本当に救われるところは、直線の世界だからね。私は皆さんのお取次ぎはしてます。けれども、神・キリストと直結している世界、この世界が大事なんで、この世界があれば、弟子の弟子でないのと、そんなことを言う必要はないんだ、と。親鸞の気持はそれなんです。だから、
「弟子は一人もいない。きっかけになったからお前は私の弟子だよと、そんなことは言いたくない」
と。こういうことなんですね。だから、私は皆さんと兄弟姉妹で、この集会に来ようが、出て行こうが、帰ろうが、そんなことは一向に差し支えない、とやっているでしょ。教会の牧師みたいに、さぁ出て行った、どうだこうだ、とそんなことは言わない。
「出て行きたい人は、どうぞ出て行ってください。入りたい人は入ってください。私はただ福音を語っているだけだ」
と。それが私の本質なんだから。ところが、本ものにぶつかるというと、皆さんが一緒に本ものになって進んで行くから、これは切ることのできないような本当の交わりになる。これが、「親鸞は一人も弟子を持たず」という彼の気持です。
●(第七条)念仏者は無礙の一道
それから大事な言葉が、
(第七条)念仏者は無礙(むげ)の一道なり。
という言葉。「念仏は」というのは「念仏者」と書いてある。「者」というのは、「は」という、ただ「もの」というふうに読まないときがあるね。念仏は、どんな事が礙(さまた)げるようにみえても、実は礙げにならない、ということです。だから「無礙の一道なり」という。それほど念仏というのは強いんだと。この「念仏は無礙の一道」というときの「念仏」が、我々の側のただ祈りというような意味だったら、ダメなんです、この「念仏」は。念仏それ自身が、実は、弥陀に念仏せしめられている。この受け身。このことは、法然よりも親鸞の方が深いところに入っている。だから、法然は一生懸命に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と何回もやっているでしょ。何回もやる必要はないんだ。上から来ているんだから、念仏は。ただ一回で結構なんです。
上から来ているところの念仏は、念仏させられているから、力が来ている。祈らされている。我々は「祈り入る」と言うけれども、「祈り入らしめられている」んですよ、本当は。いいですか。「自分はなかなか祈り入りません」なんて言ってね、一生懸命やったら、これは自力の世界になるんですよ。本当の他力というのは、祈らせられて、祈らざるを得ない世界に入るんです。キリストの愛、キリストの光、キリストの力、その贖い、これを受けとったら、もう祈らざるを得ないというのが、この念仏なんです。本願は本願によって本願がやってくるから、念仏せざるを得ない念仏がこの念仏なんです。そういう念仏は無礙の一道だという。それは、どんな事にぶつかっても、絶対にそれでへこたれない。妨げのないところの一道である。その原因が自分にあろうが、身辺にあろうが、一向差し支えない。そんなことではないんだ、この本願の力は、念仏の力は。
これは、キリストの言葉が非常に躓きになる。
「汝の信仰、汝を救えり」
という言葉が。
「信仰うすき者よ」
なんて仰るから。「弱ったな、まだ私はうすいから強くしなくてはいかん」なんてやったら、くたびれてしまうよ。だから私は、
「絶信しろ、自分の信仰なんか捨てろ。上から信がくるぞ」
と言っている。圧倒されなければ本当の世界に入れないんです。福音は圧倒の世界ですから。圧倒の愛ですから。
「神は愛なり」
なんてね、体裁のいいことを言ってもダメだよ。
「神の愛に、キリストの愛に圧倒されて生きています」
と言える、その境地にきたら、これは祈らざるを得ない。その祈りは力を持たざるを得ない。みんな、「ざるを得ない」世界です。いいですね。この点は本当に普通のクリスチャンもダメなんです。
念仏させられている。祈らされている。ざるを得ない。この「ざるを得ない」世界が一番本当の世界ですからね。天的必然の世界が。そこが本当の自由なんです。天的必然は本当の自由なんです。妨げられない。妨げられないどころじゃない。
「いろんな事にでっくわせば、逆に聖霊の力は働くぞ」
と私は言っているでしょ。聖霊の力というのは、上から来ている念仏の力だよ。そこへいくともう、キリストのこの御霊の世界は最高の素晴らしい世界なんだ、具体的に。本願の実体は、福音でいえば、聖霊なんです。法然の祈りには、まだ、こちらからの角度が強かったが、親鸞は上からだ。そいつを受けとる。それをまた徹底したのは、一遍上人です。キリストの光で見ると楽しいんです、全部見えてくるから。
●(第八条)念仏は行者のために
(第八条)念仏は行者のために非行(ひぎょう)・非善(ひぜん)なり。
これがそうです。「非行」、念仏は自分で念仏しているのではないから、非行なんです。「非善」、ちっとも善くない。
「なぜ私を善いというか、神の他に善きものなし」
という、キリストのあの角度。
わが計らいにて行ずるにあらざれば非行という、
そうでしょ。
「自分のはからい、自分の思いでもって念仏しているのではない。だから、非行だ。上から念仏させられているんだ」
と。
わが計らいにて つくる善にもあらざれば非善という。ひとえに他力にして自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・ 非善なり、と云々。
非常にはっきりしてます。
「本当の他力だ。こっちは完全に受け身だ。本当の受け身の世界が本当は、実は一番実力を持っている」
とこういうことです。「ゼロ=無限大」の世界だ。
●(第九条)念仏まうしさふらへども
(第九条)念仏申し候えども、踊躍歓喜(ゆやくくわんぎ)の心おろそかに候こと、またいそぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらんと申しいれて候いしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円坊(ゆいえんぼう)、同じ心にてありけり。
念仏すれば楽しくて踊りたくなる、というのが本当なんだ。上からの力だからね。ところが、
「なかなかそうはいきませんが、これはどうしたことでしょう。どうも、しょうがないんですよ、私はそこまでいきません」
と、唯円が言ったら、
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを 喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。
と、親鸞がそう言った。
「それはもう、嬉しくてしょうがないのが本当だけれども、そうでなくたって心配するな。そういう奴を本当は、本願はつかまえて救ってしまうんだ」
と、どこまでも本願の力を言っているわけだ。
「こちら側の信仰の実存の在り方でもって、向こうは量ってはいないぞ。心配するな」
と。凄いね、これ。だから、それを聞いて、今度また唯円は嬉しくなってしまった。
「まだ私はそこまで行きませんが」
「いつ行く、なんて考えるな。もうそれでいいんだ」
と。そうしたら、本当の喜びがわいてくるんです、なるほどそうだと。
「自分の側の喜びの加減を考えているからダメなんだ。自分の側の信仰の加減を考えているからダメなんだ。自分の行いの考え、そんなものはダメだ。ただ一途に本願だけを受けとって行け。そうしたら、みんなぶっとばしていくぞ」
と。え、楽しいね、これ。本当の福音の世界ですよ。
「他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけり と知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。
いよいよたのもしくおぼえた、と書いてある。
「それは有難い、これは本当の他力だったなぁ。こっち側の努力精進は何も要らなかったなぁ」
と。お釈迦さんが、
「一生懸命努力精進したがこれは無駄だった」
というのと同じことです。もし、努力精進ならば、上の力でもって努力せざるを得ない、精進せざるを得ないならば、わかりますよ。それは、上からの力でやっているんだからね。人間の現実というのは、そういった、単なる割り切れる世界じゃないから。この努力精進が自力だったらダメです。
ロマンチックな願いでも、上から来ているところの光でもって願っているのならいいけれどもね、理想主義でも。こちらからの理想主義や、こちらからの浪漫主義じゃダメなんです。全部上からのもの。だから、太陽の光と同じだ。太陽の光で物が光っているし、見えてくる。全部、他力なんだ、この自然界も。自然界は太陽が無くなったらどうにもならないでしょ。我々は他力で生きているんだから、本当に。私たちの身体は、絶対他力で生きている。魂ばっかりは、本当に絶対他力の世界になぜ入らないか。簡単なんだ。そうしたら、力が湧いてくる。あなた方、なさる事にも全部、もの凄いものが展開していくから。
あぁ、これは本当だ。私自身がもう九十歳になろうという奴が、これから十年かかって詩を書くなんていうバカなことを言っている奴は世界中にいないでしょう。なぜ、そんなことをはっきり言えるか。聖霊の、本願の力が来るから、言わざるを得ない、為さざるを得ない。それが終わるまでは死にません、生きざるを得ない。みんな「ざるを得ない」。病気なんかすっ飛んじゃう。病気がとっつかない。烈々たるものが来ているんです、正直。皆さんも、この福音を受けて、この集会に来たら、そうでなかったら、つまらないよ。
●(第一四条)一念に八十億劫重罪
(第一四条)一念に八十億劫(おくごう)の重罪を滅すと信ずべしということ。
凄いね、これは。念仏のただ一念でもって八十億劫の重罪を消してしまう、というんだ。それくらいの力を持っている。
一念発起(ほっき)するとき、金剛(こんごう)の信心をたまわりぬれば、
上から来るんだからね。私たちが「主さま!」と言うのは、「主さま!」と呼べば、もう呼ばない前に主の方では来ているんです。呼び方が悪いからじゃないんです、何も。呼べなかったら、今度は逆に上からかかってくる。逆らっていたパウロがひっくり返されたでしょ。あれが本願の劫力だからね、復活のキリストの。
結文)……聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
「弥陀の五劫思惟」とは、弥陀の非常に深いところの思いです。
「ひとえに親鸞一人がためなりけり」
この言葉です。それはただ親鸞一人のためだったと。この他力本願の大きな――こちらで言えば福音だね――大きなおとずれは、その内容は素晴らしいたくさんのもので深いものであるが、それは親鸞一人のためだった。
「他力本願の驚くべき内容は親鸞一人のためである。自分と如来との関係、一対一のこの関係は、ひとがどう思おうと、そんなことではない。ただ私のためだ。このしょうがない奴が救われるためだ。このしょうがない奴が本願の中に入るためだ」
と。「親鸞一人のためである」ということは、親鸞はどん底に立っているわけです。「罪びとの首」なんだ。地獄は当然の所という人間だ、と。地獄は当然の所である人間のために、この他力本願の驚くべきおとずれがやって来たので、問題は私のためだったと。
「福音は私のためだ、十字架は私のためだった、聖霊は私のためだった」
と。一人びとりが本当にそのどん底に立っているか。だから、私が「第三の罪びとの首」だと言うのは――「三番目」というのは何も何番目だっていいけれども――「罪びとの首」というのは、
「私はこの親鸞やパウロと同じようにどん底に立たせられました。そうしたらエライことになりました」
ということですよ、あの詩の言葉は。いいですか、間違わないでください。どん底に立って、もうしょうがない野郎だと。そうしたらば――或はゼロでもいい――ゼロが無限大になる。ゼロで割られたら無限大になる。だから、パウロの、
「我は罪びとの首」
というのと同じで、
「弥陀の五劫思惟は親鸞のためだ」
という、この親鸞は正に「罪びとの首」だ。どん底に立っている。極悪人なんだ、言葉はおかしいけれども。ところが、そのどん底に本当に立ったのはキリストなんだ。キリストが十字架でどん底に立って、
「お前たちの罪は全部引き受けた。過去・現在・未来の全部を引き受けた。何をゴタゴタしてるか」
と。もう、全身で――口じゃないよ――全身で、
「有り難うごさいます!」
とひれ伏せば、聖霊はやってくる。それを体験するまでは、魂の世界はゴマかしがきかないからね。自分をまだエトバス(なにものか)、サムシングと思っているうちは、ダメですよ。「いや、私はまだこれだけのことができます」と、何を言ってるか。太陽の光がなかったら、何が光ることができるか。相対的な光はみんな太陽の光のおかげでしょうが。だから、こっちは無に等しいんだ、本当は。だから、どん底に立って、自分のエトバスなんてものは何も思わない。
「己自身を憎まずば、我が弟子となることができない」
と言ったのが、その世界です。自分自身を吐きすてるようにしているような、その世界に入ると、その人を本当に神さまは使いたもう。それが、私が今日言いたいところの一番大事なことなんです。
だから、本願の劫力は全部、祈らせられている。祈らざるを得ない。力が来ざるを得ない。この「ざるを得ない」という世界と、「親鸞一人のためなりき」という、その「親鸞一人のためなりき」を、「ああ、そうですか、親鸞はそんなことを言いましたか」じゃないです。
「私一人のためだ」
といって読まなければダメなんです。歎異鈔を本当に読むのは、そこに来なければダメ。だから、これが歎異鈔の一番、最後の所の一番大事なところです。
それでは、今日はそこまで。

