人間存在の焦点
人間存在の焦点
──小池天海聖書伝道五十年記念講演会──
中央大学駿河台記念館 1990年9月29日
【目次】
●体験から告白 ●母と長兄 ●内村鑑三・藤井武・塚本虎二 ●手島郁郎・聖霊のバプテスマ ●神の無相の相 ●先生の魂の宗教的土台 ●万人はこれ宗教人 ●我は有りて在らしむるもの ●霊止 ●神に立ち帰る ●エホバ(実存主) ●神の本願の力 ●無者キリスト ●棟方志功 ●ベートーベン ●(詩)「人は誰しも」 ●偉大な霊的な存在 ●神の新天新地の現実 ●キリストわがうちに生き給う ●今日お前は私と一緒にパラダイスだ ●エン・クリスト ●(詩)「使徒らの昔を」 ●(詩)「羔の血を」 ●祈り
●体験から告白
今日はいろいろな方々が、ご事情もお有りだったと思いますが、それらを乗り越えていらっしゃってくださって、感謝いたします。私は、本当にダメなやつなんです。それが、「伝道五十年」とかいって、これは(会場講壇上方の横長看板「小池天海聖書伝道五十年記念講演会」)私が自分で書いたんですが、知らない間に五十年たった。「お祝い」というようなことを言ってくださる方もありますが、私自信はあまり思いたくない。キリストにただ圧倒されているだけです。それが私の生命です。今日は、「人間存在の焦点」なんて出しましたが、これは宗教哲学を語るのでも何でもありません。私の体験から告白させていただきますので、いろいろ私ごとが出てきて申し訳ございませんが、一般的なお話ではない。それが、お聞きになる皆さんの何かご参考になって、お役に立てば結構だと、こういうわけです。
ゲーテは、
「自分の著作は全部、告白である」
と言いました。ゲーテという人は頭でものを書かない、詩作をしない。全存在でしている。私は大学で木村謹治先生のゲーテの講義を聴いて、これは本当に素晴らしい、やっぱりドイツの第一人者だなと思いました。ですから、ドイツ文学の方々は大いにゲーテを日本人に紹介していただきたい。とにかく、世界的なものは大いにそれを取り入れなければいかん。
いろいろご紹介がございましたように、私は明治37年の2月7日に――日露戦争の開戦の直前です――ここに私の二番目の兄がおりますが、兄から聞いたら、丁度お昼頃に産まれたという。
ゲーテが、太陽が中天にかかっている時に、時計が12時を報じている時に産まれたから、
「自分はゾンネンキント、太陽の子である」
と言った。ゲーテの書いたものの中に、非常に太陽のことが出てきます。私も、そうすると、ゲーテさんと近い、太陽の子である。これは、後で太陽のお話もしますけれども。
●母と長兄
私はこの近くの本郷の弓町で生まれた。父は佐渡の人。母は信州松代の人。佐久間象山の生まれた所です。それから、大女優の松井須磨子。母は、私にとっては――父は五つの時に亡くなりましたから――母が全部、私の育ての親で、本当に苦労しました。母は五人の子女を20年間随分苦労して、御茶の水の女学校の先生をしながら、我々を育ててくれた。
それが、さきほどのお話の通り、長男の兄が、大蔵省から北京の方にまわされた。私の兄貴はものすごく英語ができた。一高では「小池」というと、英語の代名詞みたいに言われていた。ですから、本当はロンドンに行くはずだった。それが、北京に回された。それが運のつきで、26年と何か月で、北京で悪性腸チフスのために仆れた。
私にとっては、この兄はキリストへの伝道の最初の恩人です。彼は、小石川同心町の貸家の二階で、二人で同じ部屋にいたんですが、聖書をテーブルの右の方に置いて、毎晩読んでいました。半年で創世記から黙示録まで。夜の九時になると、廊下の手すりの所にいって祈っていました。私に、聖書を読めとか、キリスト教をどうのと、何も言いません。彼の在り方そのものが伝道でした。
ですから、兄が仆れて初めて私は目が醒めた。本当に生きた人の死というものは単なる死ではないですね。その後、天界の兄と、年がたつに従って、「去るもの日に疎し」でなくて、去りし者は日に私に近くなって、いよいよ近くなってきた。私よりか9歳上ですけれども。この兄の生きざま、これは決して忘れるどころではない、非常に鮮やかに私の中に生きています。
そんなことで、私も一高に入りたかった。けれども、家をたたんで、母は失明してしまったし、叔父さんの厄介になった。叔父さんの厄介になって一高を落ちては申し訳ないというので、水戸を受けた。
●内村鑑三・藤井武・塚本虎二
土曜日曜に水戸から帰ってくると、内村鑑三先生の日曜日の講演を承りに行きました。内村先生の『聖書の研究』という雑誌とその著書はほとんど全部残っていましたから。一番先に読んだのは、『宗教と現世』という本。その最初の頁に、
"Religion is man's chiefest concern."
「宗教は人間の最重要関心事である」
と書いてありました。もう、その本を読んで、すっかり私は撃たれてしまった。内村先生というのは――今の若い人たちは是非、内村鑑三の書いたものは古典として読まなければいかんです――明治、大正、昭和にかけての大事な人物の一人です。
そのお弟子さんの藤井武先生。これは私が高等学校を済んでから大学に行った時に最初から承った。ごく僅かの十数人の家庭集会みたいなところでした。最初に承ったのは、黙示録の22章、聖書の一番最後の章。それから、先生が地上を去る時の最後がやっぱり黙示録22章。この「終末」が私には非常に関係がある。そんなことで、藤井先生というのはまた、いわゆる無教会山脈のユニークな存在です。
その後で、私はしばらく自分で独りでいましたが、塚本虎二先生――藤井先生の親友です――その大手町の大集会に承りにいきました。司会をさせられたり、同人になったり、ヘブライ語のクラスを持たされたりで、いろんなことでした。
●手島郁郎・聖霊のバプテスマ
私の兄貴、内村先生、藤井先生、塚本先生、それから最後に、手島郁郎君と言っていますが――「さん」と言ってもいい。これは、「先生」ではない。私よりか後輩だから――この手島郁郎さんが、私の『詩篇』を読んで、「ぜひ来てもらいたい、一緒に集会したい」と、辞を低くしてあまり何回も言って来られるんで、一年位たってから出掛けて行った。とにかく、2回目か3回目かな、あれは。1950年の11月の3日から5日にかけての、手島さんとの集会。彼はその前に聖霊の体験をしている人です。その祈りの場に入って、なるほどこのグループの祈りはちょっと違うなぁと、私は決して違和感を感じない。すぐ私も祈りこみました。そうしたらば、天界から光が臨んで、力が来て、私はぶったおされた。そして、坐っていた身体がちょっと浮き上がった。全身が痺れた。「あっ、これが聖霊のバプテスマか」と。聖霊のバプテスマというのは、人によっていろいろ体験の仕方は違いますけれども、私のはそうだった。
帰りの汽車の中で聖書を読むと、ベールがとれてしまってる。なるほど、聖書というのはこの次元にこなければ、本当は読めない本だなということが分かった。神さまは、そのように優秀な先生方を次から次へと――最後には手島さん――私に導いてくださった。私はどの先生にも、それぞれ感謝の念を生涯持っております。しかし、この阿蘇の集会が決定的なものになった。
それで正直、不思議な事がいろいろ起きるんです、使徒行伝的な質のものが。それで、上から私は力が来てしょうがない。よく、「小池さんはどうしてあんなに元気なのか? 八十歳を過ぎているのに。あれは水泳やるからか」と言われる。水泳もしますよ。私はプールは嫌いだから、海で泳ぐ。けれども、そうではない。霊界から、天界からキリストの力が来るんです。だもんだから、楽でしょうがない。「頑張れ」なんて、何も頑張る必要がない。キリストに圧倒されているというだけです。私の信仰がどうだ、そんなことも言いません。ざっとそんなことです。
今日は、どうぞ皆さん、講演を聴くなんていう気持であられては困る。止むをえずして、いろいろ肩書を書いてあるが、あの肩書は問題ではない、あんなものは。あんなものは、と言っては悪いですけれども。私はキリストの僕に過ぎない。パウロは、
「私は罪びとの首(かしら)なり」
と言った。内村先生も、
「自分は罪びとのかしらだ、自分が救われたんだから万人が救われるんだ」
と。私も内村先生の言葉をそのまま使いたいと思うくらいです。
人間の側の、偉いの偉くないのどうのこうの、そんなことはちょうど、太陽の光の前のローソクや蛍光灯や電気の光と同じことで、そんな相対的な光がこの絶対的な太陽の光に比べものになるかと。イエス・キリストというひとは大変な方です。聖書の中心は、何といっても、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、この福音書です。福音書を読んで、キリストの言葉、その行為、その十字架、その復活、使徒行伝の聖霊、この事態の前に降参するまでは、聖書の世界に入れないんです。意味ではない。
「参りました!」
と。(異言)。本当に参らなければ、この世界には入れない。はっきり言います。皆さんどうぞ、聖書入門書なんてあるけれど、入門書なんて何も要らん。キリストに降参していくだけです。
●神の無相の相
創世記のあそこは神話的な表現ですね。神話的な表現にものすごい真理が含まれている。
「神は人をおのが相(すがた)に即して創造した」(創世記1・27)
と書いてある。あれは、「似て」ではない。「即して」です、「ヴェ」というヘブライ語の前置詞は。では、神はどんな姿をしているんだと。ミケランジェロは描いたけれども、ミケランジェロはあれ描かなかった方がよかったね。光だけにしておけばよかった。あんなお爺さんではない。無相の相。相が無い相です。だから、我々も、この神の無相の相として、人間はそのように造られた。
「衆生ことごとく仏性(ぶっしょう)あり」
と、仏教の方でも言うでしょ。
「山川草木ことごとく仏性あり」
とも言っている。「神」といおうが、「仏」といおうが、いいですよ。「アラー」でもいい。人間の側の表現はどうでもいい。その絶対者をキリストは「父」といわれた。キリストが「父」なんて言うから、「あれは神話的で妙なものにキリストはとらわれた」なんて、そうではない。暗号なんです、具体的に。人間には、人間はこういった肉体を持った存在だから、現象面でものを言う方がよく分かりやすいから。「父」でも「母」でもいいですよ。
これはゲーテの好きな言葉ですが、
「人間は本来、神と同じ姿(エーベンビルト・ゴッテス)である」
と。本来そうなんです。ところが、本来そうなんだが、どうも現実はそうなっていない。これが、「楽園喪失(パラダイス・ロスト)」ということで、これも創世記の神話でご承知のとおり。あれは、神話であって我々の現実だものね。
それを回復するために、まぁ、仏教の方でいえばたくさんありますよ。最澄、空海、空也、法然、榮西、親鸞、道元、日蓮、一遍、一休、蓮如、澤庵、良寛。私はこれは年代順に今いったんです。そういったような人たちが、それぞれの把握の仕方でもって言っている。第一級の坊さんたちはすごいですよ。私は無条件に敬意を表します。
仏道の世界も――仏教と言いたくないんだ、これも――仏道です。キリスト道という。本来、日本人は道の民だからね。真理が身に付いているのを道という。存在というのは体(からだ)のことです。我々の全存在。何でも、頭ではダメだ。からだで、全存在で受けとらなければ本ものにならない。今、仏教のことをいろいろ言いだしたが、これもきりがないから止めますけれども。それぞれの伝記を読むと本当に素晴らしい。それはどれでも、私はよく分かるんです。あたまではないですよ。キリストの光で見るとね。とにかく、キリストというのは大変な方だ。
人は「似姿」から落ちてしまった。どうにもならんと。それで、アダムとイブは隠れた。
「汝、いずこに居るか」
と。存在、所在を神さまに尋ねられた。神さまはちゃんと知っておられるんだよ、「いずこに居るか」なんて言ったって。これは、
「私から離れているね。私の言うことを聞かなかった」
ということ。人間の本当の在り方は、
「はいっ」
と、神さまに対して「はい」というのが一番本当の在り方。「それでも」と言って、デモ行進するのではない。「こうだ、ああだ」なんて、すぐ今の若い人は理屈を言うね。それから、小学校の子供たちに、「どう思うか?」なんて聞く。「どう思うか」ではないんだ。まず、先生が権威を持って、学ぶ事をしっかり学ばさなくては。「どう思う」なんて、一人前にしてしまうものだから、傲慢に、高慢になってしまう。それは、考えるということは大事なことですけれどもね。
●先生の魂の宗教的土台
話は少し飛びますけれども、お母さんのお腹にあるときに、胎教とか何とかなんて言っているけれども、この時にお母さんの感情、考え、それが皆、言わず語らずのうちに響いている。だから、美しい音楽を聞いたり、美しいお話に感動したり、お母さんの魂がそういうものでないというと、子供にそれが影響していく。三つ子の魂百までもという。そういう意味で、いかに母、女性というものが第二の国民をつくる大事な存在であるか。
幼稚園の先生、小学校の先生、ここまでだね、本当に大事な教育は。そこでやりそこなうと、もう中学からではちょっと遅い。今、教育論はしません。私は教育の方も五十年やってきましたけれども。日本の教育は、制度も大いに改革しなければならないけれども、今のは受験受験でね、本当に若い魂が、頭がくたびれてしまっている。たくさん受験校があってね。塾なら吉田松陰式ならわかるけれども。
大事なのは先生それ自身。先生の魂が宗教的な土台を持っていなかったならば、本当の教育ができない。私は高等学校の校長していた時に、全国私立高等学校長会議で、二千人位の人にはっきり言いました。三度も。
「校長さん方、どうですか、山に籠もって瞑想してから教育にかかろうではないですか」
と。文部省の役人も並んでいたが、一向に差し支えない。公立の学校で、いわゆる特定の宗教を語るわけにはいかんでしょうけれども、しかし、教える人がその世界を持たなかったら、本当の教育は成り立たない。
ビスマルクが、
「あなたは何に一体、感謝するか?」
と聞かれたら、
「小学校の先生だ」
と答えたという。それだけドイツの小学校の先生には素晴らしい人がいた、ことに校長さんが。私も、小学校の校長さんは素晴らしい方でした。あの方はたおれて、本当に惜しかった。第九巻に、「佐々木吉三郎先生」のことを書きましたが、この方は本当の教育者だった。哲学、宗教に対する関心が深かった。毎週、お話があったが、私は感動してた。何を承ったかは覚えていませんけれども。また、先生方も、生徒を本当に打ち込んで愛し、叱る時にははっきり叱った。そういう先生が今、どれ位いらっしゃるんだろうね。
とにかく、仏道でも、キリスト道でも、何道でもいいですよ。本ものの、本当の次元の高い世界を持っていなくては。これは日本の教育の一番の欠陥です、そこが欠けているということが。高等学校でも、中学でも、大学でも、本当はそうなんだよな。
●万人はこれ宗教人
「万人はこれ宗教人なり」
と私は申します。魂があるから。魂は霊界に属するものです。だから、万人は宗教人である。いやぁ、本当にその世界に入ったら、もうこれは他のものとは代えられないですよ。私は、この聖霊を他のものと代えようたって、代えるわけにいかん、ありがたくて。聖霊をいただいたから、私は聖人みたいかと、そうではないよ。躓いたり転んだりする、しょうがない野郎です。けれども、私は後退は絶対にしない。前進あるのみ。
日本では、民主主義なんて言ってますね。これが本当の意味で思想的に消化されていない。自由というならば、ルターを読まないで、自由が言えない。特に、ルターの『キリスト者の自由について』という本。東では、親鸞の『歎異鈔』。これは双璧だね、双珠玉。『歎異鈔』は本当に素晴らしい。ある意味においては、ルター以上のところがある。バルトがその『ドグマティーク』(教義学)の脚注のところに書いている。こんな素晴らしい信仰があるかと、バルトが驚いた。
また、法然、親鸞、それから、一遍。あれは凄いやつだ。何でも棄ててかかった。とにかく、あの坊さんたちの実存というものは驚嘆すべきものだ。良寛もそうです。お鉢ひとつでもって、御飯を炊いたり、足を洗ったり、顔を洗ったり。
まぁ、日本は困ったね。土地問題だとか何とかいって。さっきからちょっと民主主義なんて言いましたが、ところがあの、
「人民の、人民による、人民のための政治」
と言ったゲチスバークのたった三分間のリンカーンの演説の最初に、
「神の下において(アンダー・ゴット)」
と書いてある。人本主義ではない。神本なんです。神が本なんです。神の下においてということ。
結婚式の時に神主さんのごやっかいになって、葬式の時には坊さんのごやっかいになる。どういうことですかね。悪いと言っているのではない。日常生活の中で宗教が生きていなくてはダメなんです。預言者ホセアも、キリストもそれを使って言われた。
「生贄とか、宗教儀式ではないぞ。毎日の生活の中に本当に神と一緒に歩いているか」
と。これが本当の宗教だと。
●我は有りて在らしむるもの
創世記から、今度はちょっと出エジプト記に来ましてね、エジプトに半奴隷状態になっているところのイスラエルの、特にヨセフの族を救ってやろうと、神さまがモーセに言いました。詳しいことは言いません。出エジプト記の3章に出てます。それで、モーセが、
「皆があなたの名前を何というのかと聞いたら、何と答えたらいいですか」
と聞いた。神さまは、
「我は有りて在るものなり」
と。ルターの訳だと、
"Ich werde sein, daß Ich sein werde."
「私は在ろうとするところのもので在るであろう」
なんて。それはまぁヘブライ語の未完了の形だから、始めはそう訳したけれども、今は、
「我は有りて在るもの」
という。ところが、私は文法を超越しまして、
「我は有りて在らしむるものなり」
と訳す。このことは、太陽を見て気がついた。夏の夕べにスーッと光線が雲を通ってくるのを見て、
「ははぁ、太陽が有ることで地球は在らしめられているな」
と。そんなことは分かり切っている。そこで、パッと、モーセへの神さまの言は本当は、
「有りて在らしめるもの」
と、それが本当の内的な内実ではないかと思った。人間は、信じようが信じまいが、とにかく在らしめられている。絶対者に、霊的実在者に。地球にとっては太陽は絶対的な存在です。その引力、その光熱、その距離の良さ、いろんなことでもって、美しい地球が、楽園のような地球が在らしめられている。
これは本当に楽園なんだよな。それを20世紀文明が、特に原子力文明が、いろいろ自然を傷めてしまっている。
「人間が自然を勝手に利用していると、今に自分の造ったもので逆に困る時が来るぞ」
と、これもゲーテの預言です。ゲーテは自然を征服するなんて思いやしない。自然に親しみ、融合した人です。良寛さんもそうだね。大自然と融合の世界。これは日本人が一番持ち得るところの環境にあるのではないですか。
●霊止
天然とか、自然とか、これは素晴らしい言葉だ。私は好きだね。自ずから然りという。漢字の熟語というのはいいもんです。神の命によって動いている在り方を、「霊然」と言います。キリストだけはもう一つ桁が違う。これは「神然」の世界です。
辞典の「大言海」を見ると、「ひと」というのは、
「霊止(ひと)」
霊が止まると書いてある。本来、神の霊が止(とど)まっているのを、内に宿っているのを霊止(ひと)という。我々はそういう霊止であるかどうかということ。もう人ごとではないですよ、正直ね。我々一人びとりが本当にそこでもってその実存の中にあるか。そういった事態が本当の焦点ではないですか。内に神霊を宿す世界。
「神─キリスト─聖霊─我」
が四位一体になる。「たましい」という言葉は、「魂(たま)之(し)霊(ひ)」と書く。この「ひ」は「霊(ひ)」なんだ。魂霊なんです。
太陽は地球において焦点を結んでいるような存在だ。大変なもんだ、地球は。他の惑星はダメだもんね。地球は本当に太陽の恩沢をそのまま現象しているわけだ。日本人は、太陽が国旗ではないですか。あの国旗は軍国主義だと思っている。冗談ではないよ。もぅ旧来の因習的な考えをどしどし破っていかなければ。世界最高の国旗です。「崇高なる単純性」(Edele Einfalt)です。
「心に太陽を持て」(Hab' die Sonne im Herzen.)
というドイツの詩の一句もある。いや、
「心が太陽であれ」
ということ。影がなくなるぞと。影がない人になりたいと、一生懸命に法然はやったんだよな。ダメだと。とうとう、「南無阿彌陀仏」になったんだけれどさ。
とにかく、我々の存在はお父さんやお母さんによって――社会の恩沢、自然の恵み、祖先からの伝統――これは自分が造ったなんてものは一つもない。「所与」なんだ。与えられたるもの、与えられたる存在(Gegebenessein)。だから、本来、自分は何ものでもない。「本来無一物」というのがあるね。
どうも、とかく今日はゲーテが出てきて困りますけれども、『ウェルテル』の五月十日のところを読んでみてください。
「中空の太陽、その光線は森の聖所に忍び入っている。そして、僕が渓流沿いの小高い草地の中に身を横たえ、羽虫の無数の姿を胸もとに感じ、そして、我々をその似姿に創造された全能者の現在を体感し……
全能者の現在を体感する魂であったんです、このゲーテという人は。思ってなんかいやしない。身体で感じている。
我々を永遠の歓びの中に漂わせつつ荷ないかつ保っておられる、一切を愛する者のいぶきを感ずる。」
20何歳のゲーテのこの言葉は彼の生涯を貫いてます。
「一切を愛する者のいぶきを感ずる」
という。ゲーテにおいては、恋愛だろうと、夫婦愛であろうと、親子愛であろうと、師弟愛であろうと、およそ愛は全部、神から来ている。だから、彼はエロースの、フィロースの、アガペーのなんて、そんな区別はしない。キリスト教神学では、よくそんな区別をやるけれども。
「みんな神から来ているではないか。それを、神から来ていることをお留守にするもんだから、みんないろんなおかしなことになっていくんだ」
と。ゲーテ自身が一生間違っていなかったとは言いませんよ。けれども、彼の魂はそういうところにちゃんと座を占めていた。
「光が太陽から来ているように、神さまから愛の力が、生命が来ているんだ。それがいろいろな形で現象しているだけのはなしだ」
と。エッカーマンが鳥のことを聞いた時に、ゲーテが同じようなことを言って答えた。
「周囲の世界も天空も全く僕の魂の中に、あたかも恋人の姿のように休らっている。僕はこれらの現象の素晴らしさに圧倒されている。」
20何歳かのゲーテです。神さまにはこういうわけだと、『神と世界』(Gott und Welt)という序詩の中に書いてある。
「世界をあるいは宇宙を、内奥において動かし、自然をおのが内に、おのれを自然のうちに包蔵するところに、神の神らしさがある。されば、神のうちに生き動きまた在るところのものは、神の力、神の霊を失うこと絶えてなし。」
これは私の大好きな句です。
「神のうちに生き動きまた在る」
というのは、パウロがアテネで演説した、その中に出てくる言葉です。ゲーテの文学には、ゲーテに限りませんが、向こうの文学や哲学には、もう一流のものには、みんな聖書の言葉が溶け込んでいるんですよね。
●神に立ち帰る
今度は、預言者の方にかかります。旧約の預言者です。「ナーバー」という言葉から来るんですが。「叫ぶ、報せる」というような意味も持っています。その「ニッバー」という形がありますが、これは、
「神の感動において捕まえられている」
という言葉です。それから預言者というのは「ナービー」というんですけれども。要するに、神に捕まえられて感動して、その言葉を伝えている者が「預言者」という。だから、言葉を預かっているので、予(あらかじ)めではない。過去のことも言うし、特に現在が多い。未来のことも言いますけれども。
預言者というのはみんな個です。一人びとりが神さまにとっつかまって、ものを言わされる。その預言者たちが言っている一番大事な言葉は「シューブ」(立ち帰れ)という。「汝ら立ち帰れ」は「シューバー」ですけれども。
「神さまに立ち帰れ」
と、ほとんど、どの預言者も言っている。また、高慢はいかんと。「謙って平伏して神に立ち帰る」ということが、預言者の音信の焦点です。立ち帰ることが、本当の実存の前進になる。神さまのもとに行くということ。
「6また我汝らの一切の邑(まち)に於て汝らの歯を清からしめ 汝らの一切の処において汝らの食を乏しからしめたり 然るに汝らは我に帰らずとエホバ言い給う」(アモス4・6)
「歯を清からしめ」というのは、食物をあまりやらないで、歯が汚れないことをいう。ヘブライの言い方は、対句でもって同じことを別な言い方をする。預言者アモスに対するところの一つの消息です。私との間が切れているではないか、ダメだぞと。
「11主エホバ言たもう。視よ日至らんとす、その時我飢饉を此国におくらん。是はパンに乏しきに非ず水に渇くに非ず、エホバの言を聴くことの飢饉なり。」(アモス8・11)
神さまの言葉をさっぱり聞かない、そういう飢饉にお前たちはあるなぁと。アモスは北のイスラエルの国に行って、サマリアで預言した。紀元前8世紀頃のはなしです。旧約の預言者の本をお読みになってください。
そして、神の義を非常に強調した。「義」というのは、正義ではないですよ。そりゃ、正義の面がありますけれども。義の本来は、
「6アブラハム、エホバを信ず。エホバこれを彼の義となしたまえり。」(創世記15・6)
という。
「神さま、どうも常識的には分からないけれども、あなたが仰るなら、これを受けとります」
「よし(義)」
と。神意を無条件に受けとるのを「義」という。それから派生して、人間の関係の義とか不義とかいうこともあるけれども。神さまとの縦の関係です。
ところが、今度は横の関係を言った預言者が同じ時に出てきた。ホセアというのが。これは、けしからん女性との結婚を体験させられてしまって、
「でも、お前はその妻を棄てるな。ちょうど、イスラエルの民が私を棄てているが、けれども私はお前たちを棄てないように。そのことをお前は結婚生活で体験させられている。それを預言しろ」
と。やっとホセアはその妻を取り戻して、
「もう他に行くなよ」
「我も汝に対して然せん」
という。
「私も同じように他にはいかないよ」
と、ホセアは相手の現実に自分を、身を落としてそう言っている。責めない。
●エホバ(実存主)
旧約聖書の預言書の中で一番すごいのはイザヤ書です。全66章。1章から39章までが第一イザヤ書、本来のイザヤ書。40章から55章までが無名の預言者で第二イザヤ、56章から66章までが第三イザヤという。この三人の縦の関係で一つのイザヤ書というのができあがっている。旧約聖書からどれか一巻を取れと言われれば、私は文句なしにイザヤ書を取ります。全聖書の縮図みたいです。その中にもう黙示録も入っています。ヨハネが黙示されて語っている中には、イザヤ、エゼキエル、ダニエルあたりの言葉がかなり入っている。新約聖書からイザヤ書の文句を取り出したら、もぬけのからでもないけれども、非常に大事な部分が抜けてしまう。それくらいイザヤ書というのは凄い書です。
北イスラエルの国が紀元前721年にアッシリヤに亡ぼされた。その頃の預言者がさっきのホセアですが、南ユダの国がその後で、紀元前587年あたりにいよいよ亡びてしまうんですが、その時の預言者がエレミヤという預言者です。それで、さっきから申し上げている「立ち帰れ」という言葉を、多少ここに揚げてみましょう。
「22背(そむ)ける諸子(こどもら)よ我に向き直れ、われ汝の退違(そむき)を直さん」(エレミヤ3・22)
エレミヤの3章に出ている言葉です。「向き直る」も「立ち帰る」も同じ言葉です。私から向き変えてどこかへ行くのも、私の方に向かって来るのも、同じヘブライ語です。言い方が違うだけで。
「18……エホバよ、汝はわが神なれば我を牽転(ひきかえ)したまえ、然ば我転(かえ)るべし」(エレミヤ31・18)
エレミヤの31章に出てくる言葉です。
神さま、「エホバ」というのは、今は本当は「ヤハウェー」とか言ってますけれども、学問的にはそうですけれども。昔の言い方の「エホバ」というのは、「ヤーヴェー」(実存者)というヘブライ語の子音に、「アドナイ」(わが主)という言い方の母音を付けると「エホバ」と読めるので、
「実存者にしてわが主である」
ということで、「エホバ」と言う言い方をむしろ「実存主」と私は訳して字を当てている。かえってその方が面白いと思うものだからね。
●神の本願の力
「エホバよ、汝はわが神なれば我をひきかえしたまえ。然らばわれ帰るべし」
とは何ですか。これは自分では帰って行けない。
「あなたは私の神さまだから、どうぞ、私をひきかえしてください、私を吊り上げてください。そうしたら行きます。私はあなたの所へ行く力がありません」
と。これは本当の信仰です。本願の力、弥陀の本願の劫力というが、この本願の力に自分を任せる。自分の方から一生懸命で帰ろうとしたって帰れない。ぶっ倒れて、小さな子供は「お母ちゃん」と言えば、お母さんの方からやって来て抱えてくれる。それが本当の姿だという。我々はそんなもんですよね。さすがはエレミヤです。
「あなたが神さまなら、どうぞ、私を引き戻してください。そうしたら、帰りますから」
と。自分からは帰れない。
「帰れません。帰ろうとしたって、帰れません」
と。ぶっ倒れてみたら、神さまの腕の中だったという世界です。
「19われ転(かえ)りし後に悔い、教を承(うけ)しのちに我髀(もも)を撃つ……」(エレミヤ31・19)
「帰ってから悔いました。帰されてから自分の悪かったことが分かりました」
と、こういうわけだ。「悪かった、それだから帰ります」ではない。
「神さまの力でもって帰されたら、そうしたら後に悔いました」
と。エレミヤという人は本当に神さまと取っ組んで、
「神さまにねじふせられた」
なんて言っている。非常に深い愛の人だった。涙の預言者といってもいい。ユダの国が滅亡するときに。国亡びて後なおユダヤ民族あり、という。
とにかく、ユダヤ人というのは神さまとの取っ組み合いの民族だから。日本人はどうですかね。日本人は宇宙的な世界的な神に、それの現象体に、
「我を見し者は父を見しなり」
と言ったキリストに取っ組み合わなくては。
「12然どエホバ言いたもう。今にても汝ら断食と哭泣(なげき)と悲哀(かなしみ)とをなし心をつくして我に帰れ。13汝ら衣を裂ずして心を裂き汝等の神エホバに帰るべし」(ヨエル2・12~13)
これはヨエル書というところに出ている。素晴らしい言葉ですね。「断食となげきと悲しみ」と、もうしょうがないではないかと。「心を尽くして」、全身でということ。私に帰って来い、衣を裂いたってダメだ。「心を裂きて汝らの神エホバに帰るべし」と。「ヨエール」とは、「ヤーヴェは神なり」という名です。
「3……汝が心の傲慢なんじを欺けり……4汝たとい鷲のごとくに高く挙り星の間に巣を造るとも我そこより汝を曳(ひき)くださん。エホバこれを言いたもう」(オバデヤ3…4)
ダメだ、高慢なのはと。高慢はサタンの手下ですから。サタンは高慢の霊、またエゴイスト。これもゲーテが言っているとおりです。
「15エホバの日万国に臨むこと邇(ちか)し。汝の為せるごとく汝も為(せ)られ、汝の応報(むくい)なんじの首(こうべ)に帰すべし」(オバデヤ15)
因果応報だぞと。
「18ヤコブの家は火となりヨセフの家は火焔となりエサウの家は藁とならん……」(オバデヤ18)
これはエサウというイスラエルの仇敵に対する審判の言葉です。
●無者キリスト
今度は新約にいきます。マタイ伝の4章。
「17……なんじら回帰せよ、天国は近づいたから。」(マタイ4・17)
洗礼のヨハネ、キリストもおっしゃった言葉です。めぐり帰る。「悔い改める」というあの訳はあまり感心しない。向きを変えて全存在で帰っていく。「回心」は、心だけでもダメなんです。ダメということもないけれども、心だけでは、全体が動かなければダメなんだから。回身、回帰。全存在で身で帰っていかなくては。
「天国は近づいた」
とキリストが言ったけれども、「天国」というのは彼自身が天国体だから。
「私だよ」
と。神さまの愛がちゃんと掌握している世界が「天国」という本来の言葉です。ヘブライ語もギリシヤ語も大体そうです。
「3幸福(さいわい)なるかな、魂の貧しき者、天国はその人のものなり。」(マタイ5・3)
「恵福(さいわい)なるぞ、霊の貧しき者、……義の為に責められたる者、天国はその人のものである」
と。山上の垂訓の言葉です。「垂訓」というのは、私はあまり感心しない。キリストの山上の大告白です。キリストは自分の体験したことを仰っているので、教えようなんていうのではない。大告白、大きな告白です。「霊が貧しい」というのは、キリストは自分を何者ともしませんでした。
「我自ら何事をも為し能わず、ただ聴くままに審くなり」(ヨハネ5・30)
神さまが言えということを、為せということをしているだけのはなしだと。
「16……わが教はわが教にあらず、我を遣し給いし者の教なり」(ヨハネ7・16)
自分は無教である。
「18……なにゆえ、我を善しと言うか、神ひとりの他に善き者なし」(マルコ10・18)
これもみんなキリストの言葉ですよ。ヨハネ伝やマルコ伝に出ている。
キリストが、最後の旅で北から南の方へいらっしゃるときに、ある青年が、
「善き先生、永遠の生命を受けるためにはどうしたらいいですか」
と聞いた。なかなかいい質問なんだよ。けれども、キリストはそれに答えないで、
「なぜ、私を善いというか、善いものは神さまの他にいないんだ」
と言われた。彼は無善、無行、無教、無言。だから、私は、キリストを「無者」と申し上げている。自分を何者ともしない。神の子といわれるキリストが、
「自分は何もできない。何ものでもない」
と言うんだから。イエスという人はゼロで割られている。そうすると、数学的にもこれは無限大だ。神という無限大。だから、何者でも無いと言ったキリストが、
「我を見しものは父を見しなり」
と、「私を見た者は神さまを見たもの」と言えた。
キリストを見ないで、神をいくら捜そうとしたって、出てこない。キリストは神さまの現象体だから。太陽の光は見えないけれども、その光でもってこういう花ができている。これは現象体だ。みんなそうです。本質と現象が一つになっている。ゲーテさんもそういう気持でいました。
私は、こういう言葉に本当に感動した。そうだと。キリストは自分を何者ともしなかった。霊が貧しいというのは、キリストの魂は自分を何者ともしない。「私はローソクの光でござい」なんて言ってない。太陽の光の前には、こんなものは問題ではない。そうすると、神の力、光、愛、生命、言葉が全部キリストに臨んで来る。
「わが意(こころ)に非ず、汝の聖意を為させ給え」
という。傍観して言っているのではない。
「どうぞ、この私をお使いください」
と言っている。
"Our wills are ours, to make them Thine."
「我々の意志は我々のものではあるが、これは貴方のものとせんが為に在るのだ」
と。これは、テニスンの言葉だ。
エラスムスが自由意志論を言った、相対的にはエラスムスの言っていることも真理です。けれども、もう一つ次元の高いところにいくと、マルティン・ルターがこれに反駁して奴隷意志論を言った。
「我々の意志が奴隷にならなければ、本当の自由の世界には来れない」
と。これは、もちろんパウロから来ている。パウロはキリストの奴隷になっている。もう自分は囚人だと。キリストにとっ捕まってしまって、ダマスコ途上でひっくり返された。
「サウロ、サウロ、なんぞ我を迫害するか」
と、キリストにぶっ倒された。あんな鮮やかな回身――身がひっくり返ること――はない。だから、私は「信ずる」というのは、「身(しん)ずる」と書く。しょっちゅう書くわけではないですよ。「身(み)する」と書く。全存在で、身体で受け止めるまでは本ものではないぞと。もう私は正直、やり切れんです、あり難くて、力が来て。だから、
「無者キリスト」
と申し上げている。無即無限無量の世界です。これはいつか全国放送のラジオで言ったことがありますけれども。
●棟方志功
そうしたら、皆さん、なさることが、それが学問であろうと、医術のことであろうと、台所のことであろうと、何をなさっていても、そこに創造的なものが、クリエイティブなものが出てくる。神さまは創造の神だから、目的をもって完成しようとしてやった。
東洋でも西洋でも、古典的なものはこれから本当に尊重しなければダメです。もうその時が来ている。日本はいろんな意味で行き詰まっているから、これは突破しなければダメです。もう体裁の問題ではない。
棟方志功がその自伝『板極道』の中で、
「日本が生む絵にもっとも大切な、この国のもの、日本の魂や執念を、命がけのものをつかまねば、わたくしの仕業にならない。そのとき、わたくしの想いのなかに一つの天啓というか、火の玉というのでしょうか、からだ全体をもやす焔がひらめいたのです」
と。棟方志功が絵を書いているところをいっぺんテレビで見たけれども、本当に気違いみたいだね、狂えるが如く。あれはもう本当に動かされて描いている。
「私が描いているのではない、絵が絵を描いている」
てなことを言っている。ゴッホの日本の木版画に対する評価が動因となって、彼は木版画を描き始めたんです。
「そのころからわたくしは、からだの中に宗教の世界がひそんでいるということを識らずのうちに感じとって来たような気がしました。……わたくしの祖母は、信心がからだに入っていた女でした。」
私はとにかく、全存在を打ち込んでいるいろんなものに――ベートーベンもそうです――感動せざるを得ない。いい加減なものはひとつも面白くない。
●ベートーベン
ベートーベンの言葉を引用しましょうか。
「本当に過酷な運命が私に襲いかかってきた。
もちろん、聾のことです。
だが、私は運命の意志に自分を委ね、そして、絶えず神にのみ、この運命を神の意志がこの欠陥において護り、しかるべく取り扱ってくださることを祈る。即ち、私がこの地上の生活で死を忍ばねばならぬ限り、それがどんなに恐ろしいものであろうとも、至高者、神の意志に全托することをもって、私の運命を担う力を与えてくださるに違いない。」
ベートーベンのある手紙の言葉です。即ち、ベートーベンは神の意志により自分の存在を受けとって、一遍はハイリゲンシュタットで遺言状まで書いたんだけれども――あの遺言状それ自身もすごいね――思い止まった。
「私の心と私の思いは、小さい時から好意をもったところの繊細な感情を持っていました。たとえ大きな仕事をするにも、そういうものが在りました。ただ、芸術即ち音楽、彼が私を引き戻してくれました。私を支えてくれました。私にとっては、この世を、私が一切自分のことをやり遂げるまでは、ここを去ることはできないと思われます。とにかく、この惨めな生活をなお引きのばしています。神さま、あなたは私の内容をご覧でございます。私の中には人に対する愛がちゃんと巣くっていることを、それを貴方はご承知でございます。人々よ、もしあなた方がこれ(遺言状)を読むときには、あなた方が私に対して間違ったことをなさったことを思われるでしょう。この不幸なる者、これは私と同じようなものを見つけたら、それで慰めるでしょう。しかし、私が賜っているところの自然(性来の耳の欠陥)にもかかわらず、その為し得るところの一切を私は為しました。それは、芸術家の中に、また本当の人間の中に自分が数えられるためです。」
というような文句もありまして、そして、いよいよドナウ河に身を投じようと思ったんだが、これは思いとどまった。それは、正にこの芸術、即ち音楽のためであった。だから、彼のその後の音楽は本当に棄身の、人への自分の愛を音楽であらわした。それで、素晴らしい交響楽がたくさんできた。第九シンフォニーはご存知のとおり。
"Plaudite, amici, comedia finita est."
「人々よ、友らよ、喜劇は終わった、どうか皆で喜んで歓呼してくれ」
という。それでもって、彼はほとんど遺言のようにして生きた。我々も生涯を本当に火の如く燃やして終わりたいと思う。
20世紀の大事な人にもう一人、シュヴァイツァーがいる。
"Das wahre Verhältniss zu Jesus ist das des Ergriffenseins von ihm.
Alle christliche Frömmigkeit nur so viel wärt als in ihr hingaben
unsres Willens an dem seinen Sttat hat."
「イエスとの本当の関係は彼に圧倒されている事態である。あらゆるキリスト教的敬虔は、我らの意志を彼の意志に献げるという姿においてこそ価値がある」
という文句です。さすがにシュヴァイツァーさん。
これはシュヴァイツァーの言葉を葉書にした刷りものです。これは、実は今日いらっしゃりたかった、シュヴァイツァーと親しかった野村稔さんが私に、「今度は来れない」といってくださった葉書です。
●(詩)「人は誰しも」
人間はしょうがないですよ、正直。こういう詩を私は書いたので、ちょっと読ませていただきます。
召団讃歌A55「人は誰しも」
(1989年8月20日作 中山晋平作曲「さすらいの唄」の曲で)
1 人は誰しも 長所(とりえ)と短所(きず)よ
互いに美点 みとめ合い
落度見棄てて 交りゆけば
雲は遁げゆき 陽は光る
2 人は誰しも 躓くものぞ
されど互に ゆるし合い
交るところ 喜びが湧く
そこに花咲き 鳥歌う
3 人は誰しも ドラマの中ぞ
不遇の時に 思い遣(や)り
愛し労(いたわ)り 助くるところ
天の涙に 虹が立つ
4 人は誰しも 噂(うわさ)や陰口(かげぐち)で
パリサイになる 虞(おそ)れあり
かかるときしも 十字架のもと
語り合うこそ いと善けれ
5 十字架の贖罪(ゆるし)に 救われし我
うちに聖霊(みたま)の 力あり
さればいかなる 誹謗(そしり)も迫害(せめ)も
忍び荷いて 祈りぬく
6 十字架はイザヤ書 五三(ごさん)の預言
聖霊はイザヤ書 三五(さんご)の現実(うつつ)
これぞキリスト! この主にいつも
祈り入りてぞ 生き貫(ぬ)かん
7 自然も国土も 神の有(もの)ぞ
個人(ひと)も国家(くに)も 使命あり
然るに慾の 渦(うず)巻きのため
サタンは世界を 掌(て)の中に
8 人は誰しも 救済(すくい)を要する
つみびとならずや 世の人よ
神の御(み)前に 平伏さざれば
いつか世界は 大破局(カタストローフェ)!
●偉大な霊的な存在
この19世紀に素晴らしい政治家が三人いました。アメリカではリンカーン(1809~865)、ドイツではビスマルク(1815~1898)、イギリスではグラッドストーン(1809~1898)。グラッドストーンはリンカーンと同じ時1809年に生まれて、ビスマルクと同じとき1898年に亡くなっている。面白いね、この三人というのは年号の上で非常に相通ずるものを持っている。この方々は本当に聖書を読んだ。ゲーテが聖書を本当に身体で読んだ人。それから、この三大政治家は、聖書を本当に離さないで、これに読み入りこれに親しんだ人。それで、本当の政治ができたんです。
なんで日本人は魂がこんなにちっぽけなんだろうね。偉大な霊的な存在に、なぜ魂のスイッチを切り変えないかと。聖書ぬきで西洋文化を入れたってダメですよ。内村先生がそのことをいつか言っていた。
「いつか日本は亡びるぞ、こんなことをしていれば」
と。正直、一遍やっつけられた。高慢です、やっぱり。
今日いらっしゃった方々は、どうぞ、この私みたいなやつが棄身で申し上げております、これを単なる講演とはしないで、何ものかを上から受けとってください。私なんかどうでもいいですから。そして、
「なるほど、小池という変わり者が言っていたのはやっぱり本当だった」
と。それでなければ、つまらないですよね。
ところが、このごろゴルバチョフという人物がでてきた。彼は不思議な人物だね。やはり彼の中に宗教があります。私は、聞かなくたって、それは分かる。本当の人間だね。いろんな相対的な事情があったでしょう。ソ連としてはそういうやり方に政治家としては出なければならないところがあったでしょう。しかし、それが本当の原因ではない。いわゆる共産主義の大欠陥に気がついた。
それぞれのイズムにはそれぞれの真理性はありますよ。けれども、それ自身を絶対化するからみんなおかしなことになる。いわゆる自由主義だって決して良くはない。イズムを超えたところの世界を持たなければ、イズムはダメになる。イズムが逆に災いになる。さっきからゲーテ、ゲーテと言っているけれども、本当にゲーテはイズムを超えた人なんです。「ゲーテはどういうイズムだ」なんて、そんなことを言い切れるような人間ではない。マクロコスモスを投影しているミクロコスモスだから。
ゴルバチョフはそのようにして、とうとう西ドイツとの鉄のカーテンをはずすようにしたではないですか。もちろん東ドイツのプロテスタントは素晴らしい。陰で本当の力をもって彼らは忍んでいた。彼はそれらのことをちゃんと観察している。北の方の三国のことでも、またその他のことでも。本当に人間らしい態度をもってやっているね、彼は。さっきの霊止(ひと)だ、霊がとどまっている。まぁ、批評家がいろいろなことを言っているよ。だけれども、その人の一番大事なものを直観していかないとね。
このごろの北朝鮮との関係も、日本が北と南を本当に融和させるところの、それだけの気持をもって、心を低うしてやってもらいたい。この20世紀の最後の危機にあたって一つの光がさしてきた。日本の政治家の魂に是非とも、このグラッドストーン、リンカーン、ビスマルク的な魂が出てもらいたい。日本では、維新の時には素晴らしいのがいた。それはみんな仆れた。佐久間象山、吉田松陰、坂本龍馬。渡辺崋山もその一人だ。あの天下をとったのはみんな二流品だよな。本当の隅の首石(おやいし)になっていかなければね。
もう一人、別な世界で素晴らしいのがいた。チャップリンです。チャップリンの『独裁者』という映画を観たですか。私はあの最後のせりふに非常に感激した。床屋(チャップリン)が言った言葉の中に、
「貪欲が人々の魂を汚し、世界に憎悪の砦を築きました。それは軍隊式の歩調をとって、私たちを悲惨と流血に追い込みました。私たちは機械よりも人間性を必要とします。知恵よりも親切や柔和を必要とします。」
と。チャップリンという人は、やはり喜劇をつくりながら、人を泣かせたり感動させたり、あんな役者はちょっともう出てこないね。あれもユダヤ人だ。
●神の新天新地の現実
「エホバはもろもろの国のあいだを裁きおおくの民をせめたまわん。斯てかれらはその剣をうちかえて鋤(すき)となし、その槍(やり)をかえて鎌(かま)となし、国は国にむかいて剣をあげず、戦闘のことを再びまなばざるべし。」(イザヤ2・4)
イザヤ書の第2章に出てくる言葉です。同じような言葉がミカ書の5章に出てます。そんな時が来るか。来ないね、これ。預言者というのは、その実現しそうもない凄い現実をはっきりと示している。これは終末的な現実です。そこに向かって行けと。核兵器が恐いのではない。人間の心が一番恐い。地獄の心だから。
「この日には目をあげて高ぶるもの卑(ひくく)せられ驕(おご)る人かがめられ、唯エホバのみ高くあげられ給わん。」(イザヤ2・11)
驕れる者はみんなダメ。これはサタンの手下だから。
イザヤ書、エレミヤ、いろいろあげれば出てきますけれども、要するに、預言者たちはそのような現実を、普通の相対的な歴史の現実では考えられないところの終末の世界を、神の新天新地を預言している。しかも、その神の新天新地の現実をもたらしたものがキリストなんです。福音書のキリストの現実は、預言者たちが言っているその世界を彼自身が現象していたんです。その天国的な現実を現象している。そのキリストを十字架にかけた。とんでもないはなしなんだ、本当は。
「その日イスラエルはエジプトとアッスリヤとを共にし、三つあいならび地のうえにて福祉(さいわい)をうくる者となるべし。万軍のエホバこれを祝して言いたまわく、わが民なるエジプトわが手の工(わざ)なるアッスリヤわが産業なるイスラエルは福(さいわ)いなるかな」(イザヤ19・24~25)
今でいうところの、あの近東のいろいろな所だよ。それがみんな一つになるぞ、幸いなことだなぁと。それをイザヤは既に預言している。ところが、なかなか成らない。大騒ぎしている。みんな神から離れているから。お互いに本当に融通しあって、本当の意味の貿易をしたらいい。我々日本人はどうもガメツイようだね、儲けばっかり考えている。そうすると、逆に自分が困る。
もう望みは、我々の願望ではダメなんです。上からの本当の、上から臨んで来る力によらなければ、光によらなければ。それは地上でどんなに惨憺たる結果に終わろうとも大丈夫です。決して空しくない。歴史において殉教の死を遂げた人たちがそれをやった。長崎にありますね。
●キリストわがうちに生き給う
「神は万物に超在し、万物に貫在し、万物に内在し給う。」(エペソ4・6)
そして、もう一つ、
「われキリストと偕に十字架せられたり。もはや、われ生くるに非ず、キリストわがうちに在りて生き給うなり。」(ガラテヤ2・20)
これはプロテスタントの金科玉条の言葉だけれども、
「われキリストと偕に十字架せられたり。もう私は生きていませんよ」
と。だから、過去・現在・未来の相対的人間小池の罪なんてものは、全部これは贖われてしまって、問題ないんだ。何を考えているかと。
「われ汝の内に在り。キリストわが内に生き給うなり。キリストの霊が私の中で生きてくださっている」
と。そういう根源現実なんです。根源現実。そうして、神は超在し、内在し、貫在し、遍在する。どこにでも居られる。それが見えるかと。
漱石さんが「則天去私」と言ったけれども、漱石さんの終わりの方の手紙に書いてある。自分はとうとう本当はそこまで行かなかったと。漱石の文学も、藤村もいいけれども、もう一つ足りない。それは、絶対界を持たないから。
ペスタロッチが言いました、
"Für sich nichts, alles für Andere."
「自分の為には何も考えていない、一切は人々の為に」
という。これがペスタロッチの教育の精神であった。愛は力を持っていますよ、人を助ける。単なる感情でない。
これはヒルティの好きな言葉で、
"AMOR OMNIA VINCIT."
「愛は一切に勝つ」
という。勝つというのは、倒すのではない。相手をみんな救い上げてしまうこと。
●今日お前は私と一緒にパラダイスだ
私は50年伝道したなんて、大したことないんですよ。けれども、正直、動きましたね、かなり。そしてまた、友人たちが出たり入ったり。みんな私が悪いからです。いいですよ。ただ、私の中に本当に光っているものを見損なった。どこへ行っても、キリストに帰ってくだされば、それで結構です。私は一人も人を恨んでいません。そんな気持は全然ありません。どうして私はこんなに広い気持になってしまったかと思うと、自分でも不思議に思う。どう思われても、どう扱われても、「ああそうですか、それで結構だ」と。地上では三日月ですよ、ただ必ず満月になります。
「二つなき心を君にとどめおき我さえ我に別れぬるかな」
自分とも別れを告げた。これは、手島さんも好きな句だ。
「35/53」(53分の35)
というのは分数でも何でもない。「53」というのはイザヤ書53章。キリストの預言、こんな文字があるかというような文字です。読みませんから、ご自分でお読みになってくださいね。「35」というのはイザヤ書35章。素晴らしい天国的なところが書いてある。これはどっちもキリストが自分で体現された。53章が十字架です。35章は福音書の現実で、しかも聖霊の現実です。
「22われ都の内にて宮を見ざりき、主なる全能の神および羔羊(こひつじ)はその宮なり。23都は日月の照すを要せず、神の栄光これを照し、羔羊はその燈火(あかり)なり。」(黙示録21・22~23)
「羔羊(こひつじ)」というのはキリストのことです。神さまに無条件に従って、牧人に抱かれたり、従っている羔(こひつじ)というのは、およそ従順の象徴です。しかし、この従順な人が最大の英雄なんです。黙って十字架に懸かることのできたひと。
「46……わが神、わが神、なんぞ我を棄てたまいし」(マタイ27・46)
という凄い言葉を発したひと。
「あなたにこれだけ、百パーセントに付き従って来たのに、なぜ私をお棄てになるか」
と。それは人の罪に対する審判の言葉でもある。義の叫びであるんです。ところが、
「34……彼らは私に為すことを知らず、彼らを赦してやってください」(ルカ23・34)
これは十字架にかかりながら、愛のどん底の言葉。
二人いた盗賊の片一方のやつは、
「39……お前は神の子ならば俺たちも救ってくれ」(ルカ23・39)
と言った。もう片一方は
「40……お前は散々悪いことをしていて……41俺たちはこうやって十字架にかかっているのはしょうがないではないか。……42イエスよ、せめても、聖国にいらっしゃるとき、私を覚えてください」(ルカ23・40…42)
と、片一方の盗賊は心砕けてそう言った。
「43……お前は、今日、私と一緒にパラダイスだ」(ルカ23・43)
とキリストは、最初にパラダイスに伴れていったのは、片一方の心砕けた盗賊です。これが福音なんです。
私は、第十巻『聖書は大ドラマである』(1988年刊)という一巻を書きました。創世記から黙示録までの間の聖句を選んで、366日読めるようになっている。私の詩も入っているし、まぁ、いろいろです。この一巻を書き終わって、私はいつ死んでもいいと思った。これは日本に対する贈り物だと思ったから。けれども、私はジャーナリズムにのっかりませんから、決してそこらに売られていません。いいですよ、何でも。まぁ、私が向こう側に行ってから、「ああ、こんな本があったか」で結構です。けれども、全存在はこの中に打ち込んであります。
ただもう一つ仕事があるから、多分もう10年はかかるでしょう。「へぇー、まだ10年生きれるんですか」と。生きますよ。使命のある限り、神さまは必ず護り給う。私は健康法なんか何もしてません。身体をしょっちゅう動かしている、勉強していない限りは。お遣いにいったり、ゴミを運んだり、何でもやります、日曜大工もすれば。
●エン・クリスト
信じ仰いでいたってダメなんだ、「信仰」の仰の字ではいつまでも。「信行」。行かなければ、キリストのところへ。
「立ち帰れ、立ち帰れ」
という。行って、その中に入らなければダメ。今度は、「信交」。交わる世界、霊的な交わりの世界。
「エン・クリスト」
です。「キリストの中に」「イン・クライスト」。それは、
「我が汝か、汝が我か」
という世界です。
このことは、キリストがヨハネ伝の17章の祈りでもってさんざん言っておられる。神さまに、
「私は彼らと一つになるんだ」
と。「一如」の世界ですね。一如の世界に入るまでは本ものでないんです、まだ「我と汝」なんて言っているうちは。ブーバーの『我と汝』という本があるけれども。
一体それでは、「人間存在の焦点」とは何ですか。知りませんよ。私の話の中にどっかに焦点があるはずだ。火を発しなければダメなんだからね。あなた方ご自身が即ち焦点になっていただきたいわけだ、火を発しているところの存在に。この火は嵐がきても消えない。
日本人はひとつ次元の違ったところに本当に入る。エレミヤにエホバの神さまが、
「もし、エルサレムに一人の本ものがいれば、エルサレムを許してやるぞ」
と言った。本ものにならなければいかんですよ、何でもいいから。ウソッパチはダメ。かざりものはダメ。そうしたら、本ものが必ず勝ちます。どう思われたっていいではないですか。どう取り扱われたっていいではないですか。もう私は異言が出そうで困る。
今日は私は皆さんと、何か知らんけれども、単なる現世でない世界に入って来た。黙示録の終わりの方で、
「その宮は神さまの宮で、キリストは灯火である」
と。いわゆる神殿でも何でもないと。キリストは到る所を宮とした。野原であろうと、海辺であろうと。また、神殿を本当の神殿にした。
本当の世界というのは概念で掴めない。だから、預言者たちの表現は全部これは詩、ポエムなんです。キリストの言葉も散文詩ですから。パウロのコリント前書13章にしろ。
「人類の母語は詩である」
という言葉もある。そして、それがまた歌になる。
●(詩)「使徒らの昔を」
私は今日は讃美歌を歌いたい。エレミヤは、
「我は神の言葉に酔えるなり」
というが、我々は酔うように、歌ってその世界に入らなければ。ちょっと歌おうかな。
召団讃歌B2「使徒らの昔を」
(1979年 12月9日作 讃美歌359「夕陽はかくれて」の曲で)
1 使徒らの昔を 慕いて我は
聖書(みふみ)に読み入り 祈りてあれば
み霊(たま)の我が主は わが身を抱き
十字架に耐え得る 力を給う
2 聖書(みふみ)の現実(うつつ)は 次元の高き
み霊のたばしる 生命(いのち)の世界
み霊の我が主は わが身を抱き
十字架に耐え得る 力を給う
3 主の日を遵(まも)りて 戦いあれば
聖(み)霊も呻きて 執り成し給う
み霊の我が主は わが身を抱き
十字架に耐え得る 力を給う
4 聖旨(みむね)のまにまに わが業(わざ)をなし
主に在る生きざま 貫き往かん
み霊の我が主は わが身を抱き
十字架に耐え得る 力を給う
5 わが世の旅路も 日暮を迎え
夕(ゆうべ)の鐘の音(ね) 暮韻(ぼいん)嫋々(じょうじょう)
み霊の我が主は わが身を抱き
十字架に耐え得る 力を給う
6 終末(おわり)の峠を 踏み越え進み
星のしるべにて 嶮路を往かん
み霊の我が主は わが身を抱き
十字架に耐え得る 力を給う
7 常世(とこよ)の晨(あした)の 明くるときには
天使(みつかい)天降(あも)りて 昇らせ給え!
み霊の我が主は わが身を抱き
十字架に耐え得る 力を給う
●(詩)「羔の血を」
召団讃歌A15「羔の血を」
(1980年10月16日作 田中穂積作曲「美しき天然」の曲で)
1 羔(こひつじ)の血を 身に浴びて
あがなわれたる 白き群
苦難(くるしみ)経たる 生涯(いのち)ゆえ
栄光(さかえ)ゆたけき 御座(みざ)の許(もと)
2 神の幕屋の 張られたる
その天然の 霊泉に
渇きを知らぬ 永遠(とこしえ)の
生活(いのち)たのしむ パラダイス
3 数えつくせぬ 国民(くにたみ)の
星と散らばる 幕屋かな
類は相呼び 集まりて
主のエクレシア ここに成る
4 我らも地にて 聖名(みな)ゆえに
十字架を負いて 生き貫(ぬ)かん
み霊の光 身に浴びて
主のみ生命(いのち)を 身証(あかし)せん
●祈り
祈ります。我らの贖主(あがないぬし)キリストの父なる御(おん)神さま、今日はこの中央大学の記念館という素晴らしい講堂を与えられまして、有り難うございました。ここにちょうど満堂になる兄弟姉妹たち、同胞が、それぞれの所から勇んでやって来られました。
しもべと、聖書の活ける真理を、キリストを偕に味わうことができ、食らうことができ、ありがとうございました。
「我を飲め、我を喰らえ」
と言われた、この生命の中に入り、あなたのみ光に入って、私たちはそれぞれ自由自在にそれぞれの仕事にこれから立ち向かって参ります。
どうぞ、この方々のその将来をいよいよ、その故に祝福してくださるように、切に願い奉ります。
たくさん祈りたきことがございますが、誠に簡単な、この感謝とまた讃美を兄弟姉妹たちのそれと共に、聖名に在って捧げ奉る。アーメン。


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