黙示録的終末
黙示録的終末
詩篇148、イザヤ35、53、ヨエル2、
ロマ8、9、10、コリント前13、後5、黙示録7、21、22
第6回バルナバ・アシュラム(5) 1993年5月5日
小池辰雄
【目次】
●聖霊降臨 ●羔羊の血を浴びて ●万象讃美 ●贖罪の預言 ●天国の展開 ●35/53(53分の35) ●霊の貧しき者、天国はその人のもの ●詩「恵福なるぞ」(八恵福) ●詩「羔の血を」 ●キリストからたまわりたる愛 ●詩「汝れわが衷に」 ●キリストは愛の権化 ●黙示録的な最後の境地
【詩篇】
「1キリスト(エホバ)をほめたたえよ、もろもろの天よりキリスト(エホバ)をほめたたえよ、もろもろの高所にてキリスト(エホバ)をほめたたえよ。2その天使よみなキリスト(エホバ)をほめたたえよ、その万軍よみなキリスト(エホバ)をほめたたえよ。3日よ月よキリスト(エホバ)をほめたたえよ、ひかりの星よみなキリスト(エホバ)をほめたたえよ。4もろもろの天のてんよ、天の上なる水よ、キリスト(エホバ)をほめたたえよ。5これらはみなキリスト(エホバ)の聖名をほめたたうべし。そはキリスト(エホバ)命じたまいたればかれらは造られたり。6キリスト(エホバ)また此等をいやとおながに立てたまいたり。又すぎうすまじき詔命(みことのり)をくだしたまえり。7龍よ、すべての淵よ、地よりキリスト(エホバ)をほめたたえよ。8火よ、霰(あられ)よ、雪よ、霧よ、みことばにしたがう狂風(あらし)よ。9もろもろの山、もろもろの丘、実をむすぶ樹、すべての香柏よ。10獣よもろもろの牲畜(けだもの)、はうもの、翼ある鳥よ。11地の王たち、もろもろの民、地の諸侯(きみたち)よ、地のもろもろの審士(さばきびと)よ。12少(わか)きおのこ、若きおみな、老たる人、おさなきものよ。13みなキリスト(エホバ)の聖名をほめたたうべし。その聖名はたかくして類(たぐい)なく、その栄光は地よりも天よりも上にあればなり。14キリスト(エホバ)はその民のために一つの角をあげたまえり。こはそのもろもろの聖徒のほまれキリスト(エホバ)に近き民なるイスラエルの子輩(こら)のほまれなり。キリスト(エホバ)を讃称(ほめたた)えよ。」(詩篇148・1~14)
【イザヤ】
「1荒野とうるおいなき地とはたのしみ、沙漠はよろこびて番紅(さふらん)の花のごとくに咲きかがやかん。2盛んに咲きかがやきてよろこび且よろこび且うたい、レバノンの栄をえ、カルメルおよびシャロンの美しきを得ん。かれらはエホバのさかえを見、われらの神のうるわしきを見るべし。
3なんじら萎(なえ)たる手をつよくし弱りたる膝をすこやかにせよ。4心さわがしきものに対(むかい)ていえ、なんじら雄々しかれ懼(おそ)るるなかれ、なんじらの神をみよ、刑罰きたり神の報きたらん。神きたりてなんじらを救いたもうべし。
5そのとき瞽者(めしい)の目はひらけ聾者(みみしい)の耳はあくことを得べし。6そのとき跛者(あしなえ)は鹿の如くにとびはしり、唖者(おし)の舌はうたうたわん。そは荒野に水わきいで、沙漠に川ながるべければなり。7やけたる沙(すな)は池となり、うるおいなき地はみずの源となり、野犬のふしたるすみかは蘆葦(あしよし)のしげりあう所となるべし。8かしこに大路あり。そのみちは聖道ととなえられん。穢(けが)れたるものはこれを過ぐることあたわず、ただ主の民のために備えらる。これを歩むものはおろかなりとも迷うことなし。9かしこに獅(しし)おらず、あらき獣もその路にのぼることなし。然ばそこにて之にあう事なかるべし。ただ贖われた者のみそこを歩まん。10エホバに贖いすくわれし者うたうたいつつ帰りてシオンにきたり、その首(こうべ)にとこしえの歓喜(よろこび)をいただき楽しみとよろこびとをえん。而して悲哀(かなしみ)となげきとは逃げさるべし。」(イザヤ35・1~10)
「1われらが宣(のぶ)るところを信ぜしものは誰ぞや。エホバの手はたれにあらわれしや。2かれは主のまえに芽(めば)えのごとく、燥(かわ)きたる土よりいづる樹株(こかぶ)のごとくそだちたり。われらが見るべきうるわしき容(すがた)なく、うつくしき貌(かたち)はなく、われらがしたうべき艶色(みばえ)なし。3かれは侮(あなど)られて人にすてられ、悲哀(かなしみ)の人にして病患(なやみ)をしれり。また面(かお)をおおいて避(さく)ることをせらるる者のごとく侮られたり。われらも彼をとうとまざりき。
4まことに彼はわれらの病患をおい、我等のかなしみを担えり。然るにわれら思えらく彼はせめられ神にうたれ苦しめらるるなりと。5彼はわれらの愆(とが)のために傷(きずつ)けられ、われらの不義のために砕かれ、みずから懲罰(こらしめ)をうけてわれらに平安(やすき)をあたう。そのうたれし痍(きず)によりてわれらは癒されたり。6われらはみな羊のごとく迷いておのおの己が道にむかいゆけり。然るにエホバはわれら凡てのものの不義をかれのうえに置きたまえり。
7彼はくるしめらるれどもみずから謙(へりく)だりて口をひらかず、屠場(ほふりば)にひかるる羔羊(こひつじ)の如く毛をきる者のまえにもだす羊の如くしてその口をひらかざりき。8かれは虐待(しいたげ)と審判(さばき)とによりて取去られたり。その代の人のうち誰か彼が活けるものの地より絶(たた)れしことを思いたりしや。彼は民のとがの為にうたれしなり。9その墓はあしき者とともに設けられたれど死ぬるときは富めるものとともになれり。かれは暴(あらび)をおこなわず、その口にも虚偽(いつわり)なかりき。
10されどエホバはかれを砕くことをよろこびて之をなやましたまえり。斯てかれの霊魂とがの献物(そなえもの)をなすにいたらば彼その末をみるを得その日は永からん。かつエホバの悦び給うことは彼の手によりて栄ゆべし。11かれは己がたましいの煩労(いたずき)をみて心たらわん。わが義しき僕はその知識によりておおくの人を義とし又かれらの不義をおわん。12このゆえに我かれをして大なるものとともに物をわかち取らしめん。かれは強きものとともに掠物(えもの)をわかちとるべし。彼はおのが霊魂をかたぶけて死にいたらしめ愆(とが)あるものとともに数えられたればなり。彼はおおくの人の罪をおい愆あるものの為にとりなしをなせり。」(イザヤ53・1~12)
【ヨエル】
「12然れどエホバ言いたもう。今にても汝ら断食と哭泣(なげき)と悲哀(かなしみ)とをなし心をつくして我に帰れ。13汝ら衣を裂かずして心を裂き汝等の神エホバに帰るべし。彼は恩恵(めぐみ)あり憐憫(あわれみ)ありかつ怒ることゆるく愛憐(いつくしみ)大(おおい)にして災害(わざわい)をなすを悔いたもうなり。14誰か彼のあるいは立ち帰り悔いて祝福(めぐみ)をその後にとめのこし汝らをして素祭(そさい)と潅祭(かんさい)とをなんじらの神エホバにささげしめたまわじと知らんや。……
28その後われわが霊を一切の人に注がん。汝らの男子(むすこ)女子(むすめ)は預言せん。汝らの老いたる人は夢を見、汝らの少(わか)き人は異象(まぼろし)を見ん。29その日我またわが霊を僕婢に注がん。……
32凡てエホバの名を呼ぶ者は救わるべし。そはエホバの宣(のたま)いし如くシオンの山とエルサレムとに救われし者あるべければなり。其の遺(のこ)れる者の中にエホバの召し給えるものあらん。」(ヨエル2・12~32)
【ロマ】
「26……聖霊言いがたき呻きをもて執成したもう。……
31然れば此等の事につきて何をか言わん、神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや。32己の御子を惜まずして我ら衆(すべて)のために付(わた)し給いし者は、などか之にそえて万物を我らに賜わざらんや。33誰か神の選び給える者を訴えん、神は之を義とし給う。34誰か之を罪に定めん、死にて甦えり給いしキリスト・イエスは神の右に在(いま)して、我らの為に執成し給うなり。35我等をキリストの愛より離れしむる者は誰ぞ、患難(なやみ)か、苦難(くるしみ)か、迫害か、飢か、裸か、危険(あやう)か、剣(つるぎ)か。36録(しる)して『汝のために我らは、終日(ひねもす)、殺されて屠(ほふ)らるべき羊の如きものと為(せ)られたり』とあるが如し。37然れど凡てこれらの事の中にありても、我らを愛したもう者に頼り、勝ち得て余あり。38われ確(かた)く信ず、死も生命も、御使も、権威ある者も、今ある者も後あらん者も、力ある者も、39高きも深きも、此の他の造られたるものも、我らの主キリスト・イエスにある神の愛より、我らを離れしむるを得ざることを。」(ロマ8・26~39)
「1我キリストに在りて真(まこと)をいい虚偽(いつわり)を言わず、2我に大なる憂いあることと心に絶えざる痛みあることとを我が良心も聖霊によりて証す。3もし我が兄弟わが骨肉の為にならんには、我みずから詛(のろ)われてキリストに棄てらるるも亦ねがう所なり。」(ロマ9・1~3)
「1兄弟よ、わが心のねがい、神に対する祈は、彼らの救われんことなり。2われ彼らが神のために熱心なることを証す、されど其の熱心は知識によらざるなり。3それは神の義を知らず、己の義を立てんとして、神の義に服(したが)わざればなり。4キリストは凡て信ずる者の義とせられん為に律法の終となり給えり。5モーセは、律法による義をおこなう人は之によりて生くべしと録したり。6然れど信仰による義は斯くいう『なんじ心に「誰か天に昇らん」と言うなかれ』と。7これキリストを引下(ひきおろ)さんとするなり『また「たれか底なき所に下らん」と言うなかれ』と。是キリストを死人の中より引上げんとするなり。」(ロマ10・1~7)
【コリント前】
「1たとい我もろもろの国人の言および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃鉢(ねうはち)の如し。2仮令(たとい)われ預言する能力(ちから)あり、又すべての奥義(ミステオン)と凡ての知識とに達し、また山を移すほどの大なる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず。3たとい我わが財産をことごとく施し、又わが体を焼かるる為に付(わた)すとも、愛なくば我に益なし。4愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕(たかぶ)らず、5非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を念(おも)わず、6不義を喜ばずして、真理(まこと)の喜ぶところを喜び、7凡そ事忍び、おおよそ事信じ、おおよそ事耐うるなり。8愛は長久(いつ)までも絶ゆることなし。然れど預言は廃(すた)れ、異言は止み、知識もまた廃らん。9それ我らの知るところ全(まった)からず、我らの預言も全からず、10全き者の来らん時は全からぬもの廃らん。11われ童子(わらべ)の時は語ることも童子のごとく、思うことも童子の如く、論ずる事も童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。12今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧(おぼろ)なり。然れど、かの時には顔を対(あわ)せて相見ん。今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし。13げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存(のこ)らん、而して其のうち最も大なるは愛なり。」(コリント前13・1~13)
【コリント後】
「13我等もし心狂えるならば、神の為なり、心慥(たしか)ならば、汝らの為なり。14キリストの愛われらに迫れり。我ら思うに、一人すべての人に代りて死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり。15その凡ての人に代りて死に給いしは、生ける人の最早おのれの為に生きず、己に代り死にて甦えり給いし者のために生きん為なり。16されば今より後われ肉によりて人を知るまじ、かつて肉によりてキリストを知りしが、今より後は斯の如くに知ることをせじ。17人もしキリストに在らば新に造られたる者なり、古きは既に過去り、視よ新しくなりたり。」(コリント後5・13~17)
【黙示録】
「9この後われ見しに、視よ、もろもろの国・族・民・国語の中より、誰も数えつくすこと能わぬ大なる群衆、しろき衣を纏(まと)いて手に棕梠(しゅろ)の葉をもち、御座(みくら)と羔羊(こひつじ)との前に立ち、10大声に呼ばわりて言う『救は御座に坐したもう我らの神と羔羊とにこそ在れ』11御使(みつかい)みな御座および長老たちと四つの活物(いきもの)との周囲に立ちて、御座の前に平伏し神を拝して言う、12『アァメン、讃美・栄光・智慧・感謝・尊貴(とうとき)・能力・勢威(いきおい)、世々限りなく我らの神にあれ、アァメン』13長老たちの一人われに向いて言う『この白き衣を著(き)たるは如何なる者にして何処より来りしか』14我いう『わが主よ、なんじ知れり』かれ言う『かれらは大なる患難(なやみ)より出できたり、羔羊の血に己が衣を洗いて白くしたる者なり。15この故に神の御座の前にありて昼も夜もその聖所にて神に事(つか)う。御座に坐したもう者は彼らの上に幕屋を張り給うべし。16彼らは重ねて飢えず、重ねて渇かず、日も熱も彼らを侵(おか)すことなし。17御座の前にいます羔羊(こひつじ)は、彼らを牧して生命の水の泉にみちびき、神は彼らの目より凡ての涙を拭(ぬぐ)い給うべければなり』」(黙示録7・9~17)
「1我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前(さき)の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。2我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく準備して、神の許をいで、天より降(くだ)るを見たり。3また大なる声の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みずから人と偕に在(いま)して、4かれらの目の涙をことごとく拭い去り給わん、今よりのち死もなく、悲歎(かなしみ)も、号叫(さけび)も、苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり』5斯て御座に坐し給うもの言いたもう『視よ、われ一切のものを新にするなり』また言いたもう『書き録(しる)せ、これらの言は信ずべきなり、真(まこと)なり』6また我に言いたもう『事すでに成れり、我はアルパなり、オメガなり、始なり、終なり、渇く者には価なくして生命の水の泉より飲むことを許さん。7勝を得る者は此等のものを嗣(つ)がん、我はその神となり、彼は我が子とならん。』」(黙示録21・1~7)
「22われ都の内にて宮を見ざりき、主なる全能の神および羔羊はその宮なり。23都は日月の照すを要せず、神の栄光これを照し、羔羊はその燈火(あかり)なり。24諸国の民は都の光のなかを歩み、地の王たちは己が光栄を此処に携えきたる。25都の門は終日閉じず(此処に夜あることなし)。26人々は諸国の民の光栄と尊貴(とうとき)とを此処にたずさえ来らん。」(黙示録21・22~26)
「1御使また水晶のごとく透徹(すきとお)れる生命の水の河を我に見せたり。この河は神と羔羊との御座より出でて都の大路の真中を流る。2河の左右に生命の樹ありて十二種の実を結び、その実は月毎に生じ、その樹の葉は諸国の民を医(いや)すなり。……
13我はアルパなり、オメガなり、最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、始なり、終なり。」(黙示録22・1~13)
●聖霊降臨
「十字架・聖霊は離すことができない関係である」
と申しましたが、聖霊降臨のことを預言している預言者があります。ヨエル書2章、
「12然れどエホバ言いたもう。今にても汝ら断食と哭泣(なげき)と悲哀(かなしみ)とをなし心をつくして我に帰れ。13汝ら衣を裂かずして心を裂き汝等の神エホバに帰るべし。
この「帰る」という字はヘブライ語では「シューブ」という字で、「そらちの方へ向かって行く」という意味です。
彼は恩恵(めぐみ)あり憐憫(あわれみ)ありかつ怒ることゆるく愛憐(いつくしみ)大(おおい)にして災害(わざわい)をなすを悔いたもうなり。14誰か彼のあるいは立ち帰り悔いて祝福(めぐみ)をその後にとめのこし汝らをして素祭(そさい)と潅祭(かんさい)とをなんじらの神エホバにささげしめたまわじと知らんや。」(ヨエル2・12~14)
「28その後われわが霊を一切の人に注がん。汝らの男子(むすこ)女子(むすめ)は預言せん。汝らの老いたる人は夢を見、汝らの少(わか)き人は異象(まぼろし)を見ん。29その日我またわが霊を僕婢に注がん。」(ヨエル2・28~29)
ここにヨエルが聖霊降臨のことを預言している。そして32節に、
「32凡てエホバの名を呼ぶ者は救わるべし。そはエホバの宣(のたま)いし如くシオンの山とエルサレムとに救われし者あるべければなり。其の遺(のこ)れる者の中にエホバの召し給えるものあらん。」(ヨエル2・32)
「遺(のこ)れる者」という言葉はイザヤが言いだした言葉で、皆さんもこの「遺れる者」なんです。キリスト者は審判やいろいろなことがあるけれども、最後に残される。遺れる者が本当の神の民です。「遺れる者」というのは大事な言葉ですから、覚えておいていただきたいと思います。
「終りまで耐え忍ぶ者は救わるべし」
というのは、終りまで残ることです。
●羔羊の血を浴びて
今日は黙示録の第7章9節から、
「9この後われ見しに、視よ、もろもろの国・族・民・国語の中より、誰も数えつくすこと能わぬ大なる群衆、しろき衣を纏(まと)いて手に棕梠(しゅろ)の葉をもち、御座(みくら)と羔羊(こひつじ)との前に立ち、10大声に呼ばわりて言う『救は御座に坐したもう我らの神と羔羊とにこそ在れ』11御使(みつかい)みな御座および長老たちと四つの活物(いきもの)との周囲に立ちて、御座の前に平伏し神を拝して言う、12『アァメン、讃美・栄光・智慧・感謝・尊貴(とうとき)・能力(ちから)・勢威(いきおい)、世々限りなく我らの神にあれ、アァメン』13長老たちの一人われに向いて言う『この白き衣を著たるは如何なる者にして何処より来りしか』14我いう『わが主よ、なんじ知れり』かれ言う『かれらは大なる患難(なやみ)より出できたり、羔羊の血に己が衣を洗いて白くしたる者なり。
これは贖罪のことを言っているわけです。
15この故に神の御座の前にありて昼も夜もその聖所にて神に事(つか)う。御座に坐したもう者は彼らの上に幕屋を張り給うべし。16彼らは重ねて飢えず、重ねて渇かず、日も熱も彼らを侵(おか)すことなし。17御座の前にいます羔羊(こひつじ)は、彼らを牧して生命の水の泉にみちびき、神は彼らの目より凡ての涙を拭(ぬぐ)い給うべければなり』」(黙示録7・9~17)
素晴らしいところです。それから、黙示録21章、
「1我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前(さき)の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。2我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく準備して、神の許をいで、天より降(くだ)るを見たり。3また大なる声の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みずから人と偕に在(いま)して、
これは最後の世界が非常に素晴らしく描いてある。
4かれらの目の涙をことごとく拭い去り給わん、今よりのち死もなく、悲歎(かなしみ)も、号叫(さけび)も、苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり』5斯て御座に坐し給うもの言いたもう『視よ、われ一切のものを新にするなり』また言いたもう『書き録(しる)せ、これらの言は信ずべきなり、真(まこと)なり』6また我に言いたもう『事すでに成れり、我はアルパなり、オメガなり、始なり、終なり、渇く者には価なくして生命の水の泉より飲むことを許さん。7勝を得る者は此等のものを嗣(つ)がん、我はその神となり、彼は我が子とならん。』」(黙示録21・1~7)
「22われ都の内にて宮を見ざりき、主なる全能の神および羔羊はその宮なり。23都は日月の照すを要せず、神の栄光これを照し、羔羊はその燈火(あかり)なり。24諸国の民は都の光のなかを歩み、地の王たちは己が光栄を此処に携えきたる。25都の門は終日閉じず(此処に夜あることなし)。26人々は諸国の民の光栄と尊貴とを此処にたずさえ来らん。」(黙示録21・22~26)
「1御使また水晶のごとく透徹(すきとお)れる生命の水の河を我に見せたり。この河は神と羔羊との御座より出でて都の大路の真中を流る。2河の左右に生命の樹ありて十二種の実を結び、その実は月毎に生じ、その樹の葉は諸国の民を医(いや)すなり。」(黙示録22・1~2)
非常に象徴的なことが書いてある。
「13我はアルパなり、オメガなり、最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、始なり、終なり。」(黙示録22・13)
「終」ということは目的を果たした世界ということです。
先程、ヨエルの聖霊の預言のことと「遺れる者」のことを言いましたが、「遺れる者」ということがイザヤ書に書いてある。イザヤは自分の息子の名前を、
「シェアール・ヤーシューブ」
とつけた。「シェアール」とは「遺れる者」、「ヤーシューブ」とは「帰りきたらん」という字で、
「遺れる者帰り来たらん」
という意味です。帰るという言葉はそちらの方へ行くという言葉と同じ言葉です。イザヤは「遺れる者帰り来たらん」という名前を自分の息子につけた。ヘブライ語の「シューブ」という言葉は、そういう意味で非常に大事な字で、「帰る」とか「行く」とかいうどちらの意味にもなります。
だから、常にキリストのもとに帰ること、そのことが本当に神の世界に進んで行くことと同じことになる。キリストのみ許に行くもみ許に帰るも同じシューブという字なんです。私たちの生活も常にキリストの許に帰り行く。日本語で「帰り行く」というと、ちょうどそれがヘブライ語のシューブという字になる。
さきほど読んだところに、
「14我いう『わが主よ、なんじ知れり』かれ言う『かれらは大なる患難(なやみ)より出できたり、羔羊の血に己が衣を洗いて白くしたる者なり。』」(黙示録7・14)
とある。「羔羊の血を浴びて白くなった」とは、贖罪でもって罪から潔められることを、「羔羊の血で潔くなる」という。
●万象讃美
万象讃美の詩篇が詩篇148篇です。「エホバ」は我々にとってはみな「キリスト」です。
「1キリスト(エホバ)をほめたたえよ、もろもろの天よりキリスト(エホバ)をほめたたえよ、もろもろの高所にてキリスト(エホバ)をほめたたえよ。2その天使よみなキリスト(エホバ)をほめたたえよ、その万軍よみなキリスト(エホバ)をほめたたえよ。3日よ月よキリスト(エホバ)をほめたたえよ、ひかりの星よみなキリスト(エホバ)をほめたたえよ。4もろもろの天のてんよ、天の上なる水よ、キリスト(エホバ)をほめたたえよ。5これらはみなキリスト(エホバ)の聖名をほめたたうべし。そはキリスト(エホバ)命じたまいたればかれらは造られたり。
キリストが万象を造られたというのは、ヨハネ伝の初めの方に書いてある。
6キリスト(エホバ)また此等をいやとおながに立てたまいたり。又すぎうすまじき詔命(みことのり)をくだしたまえり。7龍よ、すべての淵よ、地よりキリスト(エホバ)をほめたたえよ。8火よ、霰(あられ)よ、雪よ、霧よ、みことばにしたがう狂風(あらし)よ。
一切のものにこうやって呼びかけている。自然界の植物にも動物にも。讃美しろと。万象がキリストを讃美する。ヨハネ伝に、
「一切のものはキリストによって成った」
とあるように、それにもう既に詩篇では応じている。ここは「エホバ」ですけれども、我々にとっては「キリスト」ですから。
9もろもろの山、もろもろの丘、実をむすぶ樹、すべての香柏よ。10獣よもろもろの牲畜(けだもの)、はうもの、翼ある鳥よ。11地の王たち、もろもろの民、地の諸侯(きみたち)よ、地のもろもろの審士(さばきびと)よ。12少(わか)きおのこ、若きおみな、老たる人、おさなきものよ。13みなキリスト(エホバ)の聖名をほめたたうべし。その聖名はたかくして類(たぐい)なく、その栄光は地よりも天よりも上にあればなり。14キリスト(エホバ)はその民のために一つの角をあげたまえり。こはそのもろもろの聖徒のほまれキリスト(エホバ)に近き民なるイスラエルの子輩(こら)のほまれなり。キリスト(エホバ)を讃称(ほめたた)えよ。」(詩篇148・1~14)
霊的なイスラエルはクリスチャンです。詩篇148篇は「エホバ」の代わりに「キリスト」にして読んでいいわけです。旧約から新約にわたって、神さまの蔭にはキリストがいらっしゃるわけですから。
「我につきて証しするなり」
というわけです。この「つきて」というのはよくない。「我を証しするなり」です。何しろ、私はキリスト一点張りなものですからしょうがない。
だいぶ早走りにものを言ってしまいましたけれども、皆さんと今日は黙示録的な境地に入って、讃美しようと思ったから、こういうことになってしまった。
●贖罪の預言
イザヤ書53章はキリストの贖罪の預言です。53章は是非しっかり読んでいただきたい。
「1われらが宣(のぶ)るところを信ぜしものは誰ぞや。エホバの手はたれにあらわれしや。2かれは主のまえに芽(めば)えのごとく、燥(かわ)きたる土よりいづる樹株(こかぶ)のごとくそだちたり。われらが見るべきうるわしき容(すがた)なく、うつくしき貌(かたち)はなく、われらがしたうべき艶色(みばえ)なし。3かれは侮(あなど)られて人にすてられ、悲哀(かなしみ)の人にして病患(なやみ)をしれり。また面(かお)をおおいて避(さく)ることをせらるる者のごとく侮られたり。われらも彼をとうとまざりき。
4まことに彼はわれらの病患をおい、我等のかなしみを担えり。然るにわれら思えらく彼はせめられ神にうたれ苦しめらるるなりと。5彼はわれらの愆(とが)のために傷(きずつ)けられ、われらの不義のために砕かれ、みずから懲罰(こらしめ)をうけてわれらに平安(やすき)をあたう。そのうたれし痍(きず)によりてわれらは癒されたり。
全くキリストの預言です。素晴らしいね、この53章というところは。私が「砕けの神学」ということを言ったことがあるが、ここの「砕け」というところから来ている。十字架は砕けである。痛みではない。我々のために全身を砕かれた。
6われらはみな羊のごとく迷いておのおの己が道にむかいゆけり。然るにエホバはわれら凡てのものの不義をかれのうえに置たまえり。
7彼はくるしめらるれどもみずから謙(へりく)だりて口をひらかず、屠場(ほふりば)にひかるる羔羊の如く毛をきる者のまえにもだす羊の如くしてその口をひらかざりき。
だから、キリストのことを羔羊というでしょ。十字架に架かる前のキリストが黙っていたこともありましたね。
8かれは虐待(しいたげ)と審判(さばき)とによりて取去られたり。その代の人のうち誰か彼が活るものの地より絶(たた)れしことを思いたりしや。彼は民のとがの為にうたれしなり。9その墓はあしき者とともに設けられたれど死るときは富るものとともになれり。かれは暴(あらび)をおこなわず、その口にも虚偽(いつわり)なかりき。
10されどエホバはかれを砕くことをよろこびて之をなやましたまえり。斯てかれの霊魂とがの献物(そなえもの)をなすにいたらば彼その末をみるを得その日は永からん。かつエホバの悦び給うことは彼の手によりて栄ゆべし。11かれは己がたましいの煩労(いたずき)をみて心たらわん。わが義しき僕はその知識によりておおくの人を義とし又かれらの不義をおわん。
「知識」とはエピグノーシスという字で本当の超智、霊智です。
12このゆえに我かれをして大なるものとともに物をわかち取らしめん。かれは強きものとともに掠物(えもの)をわかちとるべし。彼はおのが霊魂をかたぶけて死にいたらしめ愆あるものとともに数えられたればなり。彼はおおくの人の罪をおい愆あるものの為にとりなしをなせり。」(イザヤ53・1~12)
この53章は本当にキリストの贖罪の預言です。
●天国の展開
この贖罪の素晴らしい預言をイザヤ書53章はしていて、それのひっくり返しの、35章はまた素晴らしいところです。
「1荒野とうるおいなき地とはたのしみ、沙漠はよろこびて番紅(さふらん)の花のごとくに咲きかがやかん。2盛んに咲きかがやきてよろこび且よろこび且うたい、レバノンの栄をえ、カルメルおよびシャロンの美しきを得ん。かれらはエホバのさかえを見、われらの神のうるわしきを見るべし。
やがて十字架に架かって贖罪する彼は、福音書に書いてある、そういう楽園的なものを展開した。十字架前のキリストというのは楽園を、天国を展開しながら歩いていらっしゃった。それがイザヤ書35章で預言されているわけです。一切の病を癒し精神的に苦しんでいる者を治した。福音書というのは、即ち天国を現じながらキリストは歩いておられた。その預言がイザヤ書35章です。
3なんじら萎(なえ)たる手をつよくし弱りたる膝をすこやかにせよ。4心さわがしきものに対(むかい)ていえ、なんじら雄々しかれ懼(おそ)るるなかれ、なんじらの神をみよ、刑罰きたり神の報きたらん。神きたりてなんじらを救いたもうべし。
5そのとき瞽者(めしい)の目はひらけ聾者(みみしい)の耳はあくことを得べし。6そのとき跛者(あしなえ)は鹿の如くにとびはしり、唖者(おし)の舌はうたうたわん。そは荒野に水わきいで、沙漠に川ながるべければなり。7やけたる沙(すな)は池となり、うるおいなき地はみずの源となり、野犬のふしたるすみかは蘆葦(あしよし)のしげりあう所となるべし。8かしこに大路あり。そのみちは聖道(きよきみち)ととなえられん。穢(けが)れたるものはこれを過ぐることあたわず、ただ主の民のために備えらる。これを歩むものはおろかなりとも迷うことなし。9かしこに獅(しし)おらず、あらき獣もその路にのぼることなし。然ばそこにて之にあう事なかるべし。ただ贖われた者のみそこを歩まん。10エホバに贖いすくわれし者うたうたいつつ帰てシオンにきたり、その首(こうべ)にとこしえの歓喜をいただき楽とよろこびとをえん。而して悲哀となげきとは逃げさるべし。」(イザヤ35・1~10)
これは黙示録的終末の世界ですが、その黙示録的終末の世界を私たちは、この現世において現実にいただきながら歩いていくわけです。これが本当の福音の現在性です。未来を現在化していく。過去の恵もまた現在化する。だから、これを永遠の現在といいたいわけです。永遠ということは不滅ということです。不滅の現在ということ。時間的な長さではない。質的な不滅です。
●35/53(53分の35)
イザヤ書の、
「35/53」(53分の35)
というのは、キリストの贖罪(53章)と福音書の現実(35章)であると私は見ているわけです。53と35とは数字的にも面白い。
我々は決まった所に住んでいるけれども、旅人ということ。新天新地が来るまで、また我々の生涯が終わるまでは、神の国に向かっての旅人です。神の国を現実にいただきながら、終末に向かっての旅人です。
だから、クリスチャンというものは大変なものです。過去の恵を現在化し、未来をまた現在化して、現在に天国をいただきながら、また回りに天国を現じながら歩くのが本当のキリスト者というわけです。旧約聖書をそのようにして本当に活かしていかないと。ただ歴史的に研究したってしょうがない。
モーセの十戒は本当は「十言」というので、これは隠れた福音です。モーセは隠れた福音を、キリストは露なる福音を顕したということになるわけです。隠れた福音を全く律法にしてしまったのがイスラエルの民の間違いだ。すべての関係は信愛関係でなければダメです。
「10エホバに贖いすくわれし者うたうたいつつ帰りてシオンにきたり、その首(こうべ)にとこしえの歓喜をいただき楽しみとよろこびとをえん。而して悲哀となげきとは逃げさるべし。」(イザヤ35・10)
とは、
「キリストに贖い救われし者歌いつつ帰りて天のシオンに向かって、その首にとこしえの歓喜があり、そして悲哀となげきとはなくなった」
と、こういうイザヤ書35章というのは全く福音的な新約の角度から読まないとね。また、それ自身が新約の預言みたいになっていますから、そんな具合にしてお読みいただきたいと思います。34章というのは審判のような凄いところで、その審判の後にこの35章の福音が来ている。34章と35章は地獄と天国の対照みたいになっている。
●霊の貧しき者、天国はその人のもの
聖霊降臨の預言をヨエルがやっている。
「万人に聖霊が臨むぞ」
と。マタイ伝の5章で無の世界を言いました。
「恵福なるかな、霊の貧しき者、天国はその人のものなり」
と。みんなこれは相通ずるわけです。霊が貧しいという世界は、我々はその霊の無の世界を十字架でたまわった。そうすると、天国即ち聖霊の世界、無限無量の世界がやってくる。そういうことになっているんです、この第3節そのものが。だから、十字架と聖霊は離すわけにいかない。その構造を福音の世界でハッキリつかまえているのはパウロです。パウロはその点で非常に大事な使徒です。
ステパノに殉道の死を遂げさせたのは、パウロにも責任があるので、
「我は罪びとの首(かしら)なり」
なんて言いだした。けれども、本当の罪びとの首はキリスト自身です。キリスト自身が罪びとの首になって十字架にかかられた。ですから、本当の救主です。
そして、キリストは宇宙的な霊ですから、あらゆる善きもの、正しきもの、美しいものは全部キリストの中に入る。包括してしまう。本当にキリストを受けとると、文学であろうが、音楽であろうが、事業であろうが、全部、それがその角度から神の栄光が現れるようになる。キリストを受けとると、やること為すことが全部、神の栄光の、キリストの栄光の現れということになる。同時に讃美ということになる。こういう生き方というものは、本当のクリスチャンの他にはできないでしょうね。
しかも、世界の二大宗教の一つの仏教の善さというのも全部、福音の中に入ってしまう。だから、何を読んでも本当に楽しい。およそ偽りでないものは全部これをキリストの光でもって、中に包んでしまうし、本当の意味でそれを認識することができる。
本当の認識は、我々の生活そのもの、行為そのもので認識していく。それが本当の体認であり体現になる。体で認識し、また体で現ずるようになる。体(からだ)とは全存在ということです。福音の構造というものは説明できるものではない。自分で体験し体現して初めて分かる世界であって、頭で分かる世界ではない。
個人の行動でも、魂が、心がそのようなもの凄い世界に入ってくると、身体が自然にそれに沿って健全になってくる、力を得てくる。これが霊肉渾然ということです。だから、身体を癒すということの局部的なことをお考えにならない方がいい。どこまでも、キリストを受けとっていく。そうすると、知らない間に治ってしまう。
●詩「恵福なるぞ」(八恵福)
山上の大告白のところを歌った「恵福(さいわい)なるぞ」という私の歌をご紹介します。
召団讃歌A47「恵福なるぞ」
――八恵福――
(1987年9月1日作 田中穂積作曲「美しき天然」の曲で)
1 恵福(さいわい)なるぞ 汝(な)が霊(たま)は
わが十字架に あがなはれ
無の貧しさに 澄む菫(すみれ)
汝のものよ 天国は
2 恵福なるぞ 侘(わび)しらに
野に咲く桔梗(ききょう) 昨日(きのう) 今日(きょう)
悲しむ人よ キリストは
なぐさめ給ふ 涙して
3 恵福なるぞ 柔和なる
影は河原の 撫子よ
斯かる人こそ 地を嗣(つ)がめ
この世の末の 聖(み)国にて
4 恵福なるぞ 夏の日の
向日葵草(ひまわりそう)の すがたにて
天つ義の陽(ひ) に 飢え渇く
そのたましひは 飽くを得ん
5 恵福なるぞ 紅(くれない)の
薔薇(そうび)の如く 芳(かぐ)はしく
人を憐(あわ)れむ 愛の人
主のあはれみに 愛せらる
6 恵福なるぞ 谷川の
白百合の如(ごと) 清らけき
心の人は 隠れたる
神を見るなり 現世(うつしよ)に
7 恵福なるぞ 平安の
床(ゆか)しきすがた コスモスよ
平和を醸(かも)す その人は
げに神の子と 称(とな)へらる
8 恵福なるぞ 義のために
責められし人 天国は
その人の有(もの) 桜花
散りゆく相(すがた) 美(うる)はしや
これはキリストの山上の大告白の最初の八つの言を8節の歌につくったわけです。
●詩「羔の血を」
さて、黙示録のところにとうとう来てしまったわけですが、これも歌になってしまった。
召団讃歌A15「羔の血を」
(1980年10月16日作 田中穂積作曲「美しの天然」の曲で)
1 羔(こひつじ)の血を 身に浴びて
あがなわれたる 白き群
苦難(くるしみ)経たる 生涯(いのち)ゆえ
栄光(さかえ)ゆたけき 御座(みざ)の許(もと)
2 神の幕屋(まくや)の 張られたる
その天然の 霊泉に
渇(かわ)きを知らぬ 永遠(とこしえ)の
生活(いのち)たのしむ パラダイス
3 数えつくせぬ 国民(くにたみ)の
星と散らばる 幕屋かな
類は相呼び 集りて
主のエクレシヤ(召団) ここに成る
4 我らも地にて 聖名(みな)ゆえに
十字架を負いて 生き貫(ぬ)かん
み霊の光 身に浴びて
主のみ生命(いのち)を 身証(あかし)せん
これは黙示録の印象から受けたところの歌です。
●キリストからたまわりたる愛
「31然れば此等の事につきて何をか言わん、神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや。
「神もし我らの味方ならば」なんてパウロは言っているけれども、
「神は我らの味方であるから誰か我らに敵せんや」
と読む。
32己の御子を惜まずして我ら衆(すべて)のために付(わた)し給いし者は、などか之にそえて万物を我らに賜わざらんや。」(ロマ8・31~32)
宇宙は私たちの庭です。飛行機に乗る必要はない。聖霊の翼に載って、どこへでも飛び歩く。そういうずばぬけた次元の魂にさせられていく。そして、人を審かない。全部包んでしまう。「たまわる」とは、何も、私のものにするということではない。全部それは生命的な共同体の繋(つな)がりになる。そういう生命的な愛の繋がりを本当に生きたのがアッシジのフランシスです。小鳥も皆なついでしまう。
愛は最大の力である。相手を救い上げる。パウロがそれをちゃんと言っている。ヨハネは愛の人、ペテロは希望の人、パウロは信仰の人、それが大体の特色です。ところが、そのパウロがコリント前書13章で、
「1たとい我もろもろの国人の言および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃鉢(ねうはち)の如し。
「御使の言」とは異言的なものです。
2仮令(たとい)われ預言する能力あり、又すべての奥義(ミステオン)と凡ての知識とに達し、また山を移すほどの大なる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず。3たとい我わが財産をことごとく施し、又わが体を焼かるる為に付すとも、愛なくば我に益なし。4愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕(たかぶ)らず、5非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を念わず、6不義を喜ばずして、真理(まこと)の喜ぶところを喜び、7凡そ事忍び、おおよそ事信じ、おおよそ事耐うるなり。
素晴らしい言葉だね、これは。
8愛は長久(いつ)までも絶ゆることなし。然れど預言は廃れ、異言は止み、知識もまた廃らん。9それ我らの知るところ全からず、我らの預言も全からず、10全き者の来らん時は全からぬもの廃らん。11われ童子(わらべ)の時は語ることも童子のごとく、思うことも童子の如く、論ずる事も童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。12今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧(おぼろ)なり。然れど、かの時には顔を対(あわ)せて相見ん。今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし。13げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存(のこ)らん、而して其のうち最も大なるは愛なり。」(コリント前13・1~13)
この「愛」はキリストの愛です。キリストからたまわりたる愛です。
●詩「汝れわが衷に」
私の讃美歌にこういうのがあります。
召団讃歌A10「汝れわが衷に」
(1980年2月7日作 讃美歌48「静けき夕の調べによせて」の曲で)
1 「汝(な)れ我が衷(うち)に しかと宿りて
祈り求めよ さらば成るべし
2 み父のわれを 愛する如く
汝を愛す わが愛に居れ」
3 キリストのため 生命(いのち)を賭(か)けて
人を愛せん み霊(たま)は助く
4 「汝れは愛なり 愛の炎ぞ!
聖霊(みたま)の愛を 貫き生きよ」
これは自分の誕生日に作った歌です。私はもうキリストに酔っているようなわけで、話が話にならない。
●キリストは愛の権化
さっき読みかけていたパウロのローマ書8章に戻ります。
「31然れば此等の事につきて何をか言わん、神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや。
「神もし我らの味方ならば」ではない。「神は我らの味方であるから誰か我らに敵せんや」です。
32己の御子を惜まずして我ら衆(すべて)のために付(わた)し給いし者は、などか之にそえて万物を我らに賜わざらんや。
万物は本当に生命の連なりであるということ。
33誰か神の選び給える者を訴えん、神は之を義とし給う。
「義とし給う」ではない。「神は之に義を与え給う」です。
34誰か之を罪に定めん、死にて甦えり給いしキリスト・イエスは神の右に在(いま)して、我らの為に執成し給うなり。35我等をキリストの愛より離れしむる者は誰ぞ、患難(なやみ)か、苦難(くるしみ)か、迫害か、飢か、裸か、危険か、剣か。36録(しる)して『汝のために我らは、終日(ひねもす)、殺されて屠(ほふ)らるべき羊の如きものと為られたり』とあるが如し。37然れど凡てこれらの事の中にありても、我らを愛したもう者に頼り、勝ち得て余あり。38われ確(かた)く信ず、死も生命も、御使も、権威ある者も、今ある者も後あらん者も、力ある者も、39高きも深きも、此の他の造られたるものも、我らの主キリスト・イエスにある神の愛より、我らを離れしむるを得ざることを。」(ロマ8・31~39)
大変な言葉だね。これは、パウロは感嘆して言っている。キリストは愛の権化です。この力から誰が離せるか、何事が離せるかと(異言)。主さま! ありがとうございます。
「1我キリストに在りて真(まこと)をいい虚偽(いつわり)を言わず、2我に大なる憂あることと心に絶えざる痛あることとを我が良心も聖霊によりて証す。3もし我が兄弟わが骨肉の為にならんには、我みずから詛(のろ)われてキリストに棄てらるるも亦ねがう所なり。」(ロマ9・1~3)
こういうパウロの言葉は本当にキリストの愛の言葉ですね。
「人の救われん為には、私自身はどうなったっていい。この救を如何せん」
というわけです。こういうパウロの手紙はいい加減な気持では読めません。
「1兄弟よ、わが心のねがい、神に対する祈は、彼らの救われんことなり。2われ彼らが神のために熱心なることを証す、されど其の熱心は知識によらざるなり。
この「知識」というのは「エピグノーシス」という字で霊的な智、霊智のことです。み霊による知のことです。
3それは神の義を知らず、己の義を立てんとして、神の義に服(したが)わざればなり。4キリストは凡て信ずる者の義とせられん為に律法の終となり給えり。5モーセは、律法による義をおこなう人は之によりて生くべしと録したり。6然れど信仰による義は斯くいう『なんじ心に「誰か天に昇らん」と言うなかれ』と。7これキリストを引下(ひきおろ)さんとするなり『また「たれか底なき所に下らん」と言うなかれ』と。是キリストを死人の中より引上げんとするなり。」(ロマ10・1~7)
パウロはユダヤ人ですから、そういう角度から律法の義のことを責めて、
「新しくキリストの義によっているので、自分は旧約の義とは違うんだ」
ということを言った。
聖書はいきなり読んだって、分かりっこない。だから、「もうごめんだ、ごめんだ」と言ってみな止めてしまう。いきなり、パウロを読むと分からない。むしろ、初めに福音書を読んで、それからパウロにかかっていかないと。パウロは躓きになる。けれども、パウロの構造はしっかり掴んでおかないと、他のことにさらわれる。何といっても、パウロは選びの器です。
さっき読んだコリント前書13章も、「愛は」というのを「キリストは」と読んだっていい。「愛なるキリストは」「キリストの愛は」といって読む。キリストぬきにしたら、みなダメになってしまう。
コリント後書5章の言葉もいい言葉だね。
「13我等もし心狂えるならば、神の為なり、心慥(たしか)ならば、汝らの為なり。14キリストの愛われらに迫れり。我ら思うに、一人すべての人に代りて死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり。15その凡ての人に代りて死に給いしは、生ける人の最早おのれの為に生きず、己に代り死にて甦えり給いし者のために生きん為なり。
ガラテヤ書2章と似ているところがある。
16されば今より後われ肉によりて人を知るまじ、かつて肉によりてキリストを知りしが、今より後は斯の如くに知ることをせじ。
生まれつきの我々の判断を「肉」という。
17人もしキリストに在らば新に造られたる者なり、古きは既に過去り、視よ新しくなりたり。」(コリント後5・13~17)
ここに「に在る」と書いてあるでしょ。「によりて」とは書かない。「キリストに在るが故に」と言った方がいい。新人になっている。もちろん、我々は割り切れる人間ではない。いろいろな要素が重なっていますけれども、何が中心になっているかということが大事なんです。
●黙示録的な最後の境地
兼好法師が『徒然草』の一八八段のところで、
「いろいろな事をやるな。ただ一つのことに打ち込め」
と言っている。本当にそうです。我々一人びとりは、何かその人でなければという、その人の最も神さまに委ねられているところの特色と使命がある。男の人でも女の方でも。天から授かったところのその天賦、才能、資質、そこにその人の存在の使命がある。十字架・聖霊を中心にして、その天賦をもってそれを果たしていくことが本当に神の栄光を現すことになる。
クリスチャンというのは、「一人びとりがその人でなければ」というものをいただいていますから、それでもってお互いに尊重しあいながら、助け合いながら、大交響楽を自然に奏でながら進んでいく。そういうのが本当の交わりというものです。
皆さんは、ここでいろいろな方とお話し合いしながら、そういう気持のいい交わりをなさったと思います。この三日間というものは天国的だったと思います。帰るといろいろな雑然たる環境に入っていく。非キリストが、非福音が非常に多いわけです。
特にこの日本はキリスト教国ではないから。その点はヨーロッパは伝統的にキリスト教国だからいいけれども。だから、クリスチャンというのは、特に女の方は十字架が非常に多い。しかし、決してそれに負けずにいってください。負けずにとは力むことではない。よく「頑張れ」と言うが、何も頑張る必要はない。
「福音は言にあらず、力なり」
とパウロが言ったが、その人を通してキリストの力が、愛の力がおのずから周囲にいくから、「なるほど、あれは本ものだ。その世界はいいなぁ」ということになる。その点では絶対に負けません。
日本は特に雑然としている。理屈を言って論議する必要はひとつもない。論議やいわゆる話合いでもって片付くようなものは大したことではない。本当は片付かない。黙って――黙ってとはただ沈黙ということでもないけれども――福音することです。生活は福音することなり。それでいけば、一人二人と、知らない間に回りが化せられていく。
「どうも、私は行き詰まっているが、やっぱりあの世界は本当らしいな」
と。人間の魂というものは、どの人でも、本ものにぶつかると何か感ずるはずなんです。それを感じなかったら、その人は本当の良心を持たないことになる。
不信の世の中だから、私は皆さんに語りながら、溜め息をついているわけだ。
「聖霊言いがたき呻きをもて執成したもう。」(ロマ8・26)
という。
そういうわけで、皆さんと黙示録的な最後の境地に今日は入れられて、非常に私は感謝しております。皆さんとこうやって福音の世界に没入して、私は大変感謝しております。また、あなた方の言わざる、聞かざるご友情をありがとうございました。

