神讃美
神讃美
詩篇第103編
第6回バルナバ・アシュラム(4)1993年5月4日
小池辰雄
【目次】
●わが霊魂よ ●キリストを讃めまつれ ●願いは聴かれている ●信行一如 ●無のすがたは平伏し ●かくせざるを得ず ●キリスト神秘 ●罪は雲散霧消したから ●詩「賀川の第二故郷」
【詩篇103】
ダビデのうた
1わが霊魂(たましひ)よ、エホバをほめまつれ。わが衷(うち)なるすべてのものよ、そのきよき名(みな)をほめまつれ。
2わがたましひよ、エホバを讃めまつれ。そのすべての恩恵(めぐみ)をわするるなかれ。
3エホバはなんじがすべての不義をゆるし、汝のすべての疾(やまい)をいやし、
4なんじの生命をほろびより贖いいだし、仁慈(いつくしみ)と憐憫(あわれみ)とを汝にかうぶらせ、
5なんじの口を嘉物(よきもの)にてあかしめたもう。斯てなんじは壮(わかや)ぎて鷲のごとく新になるなり。
6エホバはすべて虐(しいた)げらるる者のために正義(ただしき)と審判(さばき)とをおこないたもう。
7おのれの途(みち)をモーセにしらしめ、おのれの作為(しわざ)をイスラエルの子輩(こら)にしらしめ給えり。
8エホバはあわれみと恩恵(めぐみ)にみちて怒りたもうことおそく仁慈(いつくしみ)ゆたかにましませり。
9恒(つね)にせむることをせず永遠(とこしえ)にいかりを懐きたまわざるなり。
10エホバはわれらの罪の量(かさ)にしたがいて我らをあしらいたまわず。われらの不義のかさにしたがいて報いたまわざりき。
11エホバをおそるるものにエホバの賜うそのあわれみは大にして、天の地よりも高きがごとし。
12そのわれらより愆(とが)をとおざけたもうことは東の西より遠きがごとし。
13エホバの己をおそるる者をあわれみたもうことは父がその子をあわれむが如し。
14エホバは我等のつくられし状(さま)をしり、われらの塵なることを念(おも)い給えばなり。
15人のよわいは草のごとく、その栄は野の花のごとし。
16風すぐれば失せてあとなくその生(おい)いでし処にとえど尚(なお)しらざるなり。
17然(しか)はあれどエホバの憐憫(あわれみ)はとこしえより永遠まで、エホバをおそるるものにいたり、その公義(ただしき)は子孫(こら)のまた子孫にいたらん。
18その契約をまもりその訓諭(みさとし)を心にとめて行うものぞその人なる。
19エホバはその寳座(みくら)をもろもろの天にかたく置(すえ)たまえり。その政権(まつりごと)はよろずのもののうえにあり。
20エホバにつかうる使者(つかい)よ、エホバの聖言(みことば)のこえをきき、その聖言をおこなう勇士(ますらお)よエホバをほめまつれ。
21その万軍よ、その聖旨(みこころ)をおこなう僕等よ、エホバをほめまつれ。
22その造りたまえる万物(よろずのもの)よ、エホバの政権(まつりごと)の下なるすべての処にてエホバをほめよ、わがたましひよエホバを讃めまつれ。
●わが霊魂よ
今日は詩篇第103篇をいたします。
1わが霊魂(たましひ)よ、エホバをほめまつれ。わが衷(うち)なるすべてのものよ、そのきよき名(みな)をほめまつれ。
私は旧約を読むときは、「エホバ」は「キリスト」なんです。全部、キリストに変えて読みます。創世記から黙示録まで中心は、主人公はイエス・キリストです。
「わが霊魂(たましひ)よ、キリストをほめまつれ。わが衷なるすべてのものよ、そのきよき名をほめまつれ」
自分の魂に向かって、「わが霊魂(たましひ)よ」という言い方をする。この場合の魂という字は「ルーアッハ」(霊)ではなくて、「ネフェシュ」(魂)という字が使ってありますが、英語でいうと、「スピリッツ」(霊)ではなくて「ソウル」(魂)に当たる。「ネフェシュ」という言葉は、ある時は「自分自身」という意味のこともあります。
「キリストをほめまつれ。わが衷なるすべて」
五臓六腑全部、全身と言ってもいい。
「全身でキリストを、そのきよき御名をほめまつれ、讃美せよ」
と。詩篇103篇というのは非常に福音的な詩篇です。
「何でもいい、とにかくキリストを讃美せよ」
と。自分自身に向かって、そう言っている。おもしろいです。「わが魂よ」といって、自分に言いかけている。「わが魂は」ではない。
「この人を見よ」
というのがありますが、これは「この人を見よ」と訳してはいけいない。
「見よ、この人だ」
ということです。
「見てみろ、この人だぞ」
と、キリストが捕まった時にピラトが、
「見よ、この人である。これは大変な人だ」
と言った。あれは「この人を見よ」と訳したらまちがいです。
●キリストを讃めまつれ
詩篇139篇の、
「汝知りたもう」
という言葉は私のひとつの大好きな言葉です。
「人にどう扱われようと、どう思われようといい。汝知りたもう。孤独の私はキリストが知ってらっしゃるから、どんな人が知るよりも、キリストが知りたもう」
と。
「汝知りたもう」
が非常な慰めであり力である。それは自己を義認して言っているのではない。
自分自身に向かって、
「全身でもってキリストを讃美せよ」
と言っている。
2わがたましひよ、キリストを讃まつれ。そのすべての恩恵(めぐみ)をわするるなかれ。
この「恩恵(めぐみ)」というのは、キリストの恵はいろいろな形で現れる。或る事柄を通して、或る人を通して。大体、直接でない。キリストはいろいろな事態を通して恵をたまわる。恵というのはそういう具体的なものです。どこまでも、キリストはいろいろな事態を通して私たちを顧みてくださっている。大体、人を通すことが多い。その人においてキリストの姿を、愛の姿を見る。いろいろな形で顕してくださっているところのキリストの恵に感謝する。忘れてはいかん。忘れても、キリストは忘れない。
「我れ汝を忘れじ」
という言葉がイザヤ書の中にもある。
「たとえ、父母がお前を忘れても、私はお前を忘れない。私はお前を棄てない」
という。我々は皆そのようにしてキリストからいろいろな事を通して、人を通して顧みられている。
●願いは聴かれている
3キリスト(エホバ)はなんじのすべての不義をゆるし、汝のすべての疾(やまい)をいやし、
全くその通り。我々は相対的には病んでいることはいくらでもありましょう。けれども、根源的には癒されている。
「祈りたることは既に聴かれたりとせよ」
という。
「願いは聴かれているんだ」
と。そういう現実を私は根源現実と言う。我々の根源現実においては、魂も身体も渾然として救われている、潔められてある。
「十字架の血に潔めたまえ」
という讃美歌がある。「潔めたまえ」ではない。もう既に潔められているんです。贖われている。
「贖われている現実だから、心配いらんぞ。帰って来なさい。既に贖ったから、帰ってきなさい」
という。これはイザヤ書にもエレミヤ記にも書いてある。神さまの言、キリストの言は具体的な根源的な現実がもとになっている。それでものを言っていらっしゃる。「お前が帰ってきたら、そしたら贖ってやるよ」ではない。
「既に贖いたり。故に帰り来たれ」
と。
「本願は成就しているから心配するな。既に天国は私が与えているから心配要らん。我々の現実は正にドラマだけれども、大丈夫だ」
ということ。
「天国は汝らのうちに」
とはそういう意味です。キリストの恵を破るものはない。「十字架!」と言えば、サタンは逃げていく。「聖霊!」と言えば、逃げていく。
例外なしに、
「なんじのすべての不義をゆるし、汝のすべての疾をいやす」
という。さきほど、いろいろな方が私に祈ってくれと、いらっしゃいました。私は既に癒されている現実をもって祈った。
「心配いりません。どこが悪いなんて思いなさるな」
と。キリストを受けとる時は、全身でキリストを受けとれば、知らない間にその局部が治ってしまう。肉体の欠陥がある方は決して自分を病人だと思ってはいかん。局部を治そうとする必要はない。全的にキリストを受けとれば、自然に局部が治ってしまう。渾然たる一体です。霊肉渾然としている。我々の救は霊肉渾然たる救ですから。
ギリシアの考え方には、
「魂が肉体に閉じ込められているから、死ぬことは閉じ込められた肉体を去って魂が行く」
と考えられているが、そうではない。霊肉渾然として天界にいく。肉が霊体に変えられてしまう。
「肉の体あり、霊の体あり」
とパウロが言っている。変質変貌してしまうわけです。変質変貌と言うけれども、キリストの復活というのがある。私は復活という言葉はあまり好きではない。キリストはもの凄い霊的な生命力を地上で持っている。だから、その霊的な生命力がもっと凄い形で現れたのが、あの復活体です。息を吹き返したなんていう意味の復活では絶対にない。十字架に架かったキリストは当然、もの凄い霊体をもって現れてくる。だから、お魚も食べるほどの凄い現実なんです。
「私は幽霊ではない。何か食べるものがあったら食べるぞ」
と、ルカ伝の終りの方に出ている。ああいう現実は凄い現実だ。大変な方だ。
●信行一如
4なんじの生命をほろびより贖いいだし、仁慈(いつくしみ)と憐憫(あわれみ)とを汝にこうむらせ、
5なんじの口を嘉物(よきもの)にてあかしめたもう。斯てなんじは壮(わかや)ぎて鷲のごとく新(あらた)になるなり。
これはイザヤ書のあの言葉よりも、もっと凄いんだ、前提が。「鷲のごとく」とはイザヤ書40章31節と同じ言葉だけれども、その前の言葉が、
「生命をほろびより贖いいだし、仁慈(いつくしみ)と憐憫(あわれみ)とを汝にこうむらせ」
という言葉が凄い。
6エホバはすべて虐げらるる者のために公義(ただしき)と審判(さばき)とをおこないたもう。
7おのれの途をモーセにしらしめ、おのれの作為(しわざ)をイスラエルの子輩(こら)にしらしめ給えり。
「おのれの作為(しわざ)」とはモーセの出エジプトだ。ゲーテがヨハネ伝の最初の言の、
「太初(はじめ)に言(ことば)あり」
を『ファウスト』の中で、
「太初に行為あり」
と訳した。神さまの言、キリストの言は全部、行為に裏付けられている。我々の言葉は行為になかなか裏付けられないことがあるけれども、キリストの言は行為をもって裏付けられている。パウロもルターも「信仰、信仰」と言った。けれども、「信仰、信仰」と言ったパウロもルターも一番行為的であった。だから、彼らの信仰は本ものだ。
その点で、ヤコブ書は大事なんです。
「アブラハムはその業(わざ)によって義とされた」
とヤコブ書には書いてある。パウロは、
「アブラハムはその信仰によって義とされた」
と書いた。両方とも本当の意味では一つになる。信行一如です。本当の世界は分裂のない世界です。「信仰はできるけれども、行為は難しい」なんて、そんな二段構えの考え方をしたらダメです。どんなにボロな行為であっても、信行一如の角度からいかないと。信ずること自身が魂の行為なんだから。
「キリストの中に自分を投げ入れる」
ことが信行(しんこう)(信仰)です。信行というのは、
「魂がキリストの中に入って行く」
正に内的行為なんです。私たちはジーッとしているね。静中の動、動中の静という。静の中に動がある。動の中にまた静かな静けさがある。静動一如です。そういうのが本当の世界です。そういうことを普通の人に言っても、分からないんだな。
7おのれの途をモーセにしらしめ、おのれの作為(しわざ)をイスラエルの子輩(こら)にしらしめ給えり。
イスラエルのユダヤ人というのは歴史を通して神さまに教育され鍛えられているわけだ。歴史というのは大事なんです。ユダヤ人は「歴史」という言葉を知らない。けれども、歴史を行為しているから、歴史という言葉がなくても、もっとも歴史的な民族なんだ。逆に、ギリシアは歴史ということを知っていても本当の歴史をもたない。
ゲーテがやっぱり偉い。
「行為をもって認識せよ。本当の認識は行為によってするんだ」
と言っている。ゲーテは非常にものを見る人だけれども、そのゲーテが行為ということを非常に言っている。
「行為が一切である」
と、『ファウスト』の第二部に書いてある。
●無のすがたは平伏し
8エホバ(キリスト)はあわれみと恩恵(めぐみ)にみちて怒りたもうことおそく仁慈(いつくしみ)ゆたかにましませり。
9恒(つね)にせむることをせず永遠(とこしえ)にいかりを懐(いだ)きたまわざるなり。
10エホバ(キリスト)はわれらの罪の量(かさ)にしたがいて我等をあしらいたまわず、われらの不義のかさにしたがいて報いたまわざりき。
旧約にこういう言葉があるとは。これは素晴らしい言葉だ。「罪の量にしたがいてあしらわれ」たら、我等は滅びてしまう。なんとエホバの神さまは憐れみ深いか。
「いいよ、いいよ、心配するな」
というわけです。
「そんなことではダメではないか」
なんては言わない。愛は包む。人の欠点を見て、なんのかんの言うのは皆サタンの手下です、サタンはマイナスの霊だから。キリストはプラスの霊です。
11エホバ(キリスト)をおそるるものにエホバの賜うそのあわれみは大にして天の地よりも高きがごとし。
素晴らしい言葉だ。「エホバをおそれる」というのは「恐がる」ではない。「畏れる」とは「平伏す」ということです。
「エホバの前に平伏す者は」
と私は言いたい。畏れるという言葉の本当の意味は平伏しです。全身が平伏さなければダメです。床の上に平伏して祈る。平伏しが神さまの前の本当の我々の姿です。そうすると、本当に起こしてくださる。
「キリストの前に平伏す者をあわれみ給うこと大にして、天の地よりも高きがごとし」
ということ。
12そのわれらより愆(とが)をとおざけたもうことは東の西より遠きがごとし。
なかなか詩的な言い方をするね。
「そんな愆(とが)は問題にしない。遠くて見えない」
というわけです。「無」というものは姿でいうと「平伏し」なんです。無は形に表すと平伏しです。
「平伏しは無のすがた。無のすがたは平伏しなり」
と。
13エホバの己をおそるる者をあわれみたもうことは父がその子をあわれむが如し。
これは、
「父がその子を憐れむこと、エホバの愛のごとし」
ならいいけれども。逆なことを書いているけれどもしょうがない。分かりやすくこう書いたんでしょうね。
14エホバは我等のつくられし状(さま)をしり、われらの塵なることを念(おも)い給えばなり。
創世記2章に、
「泥をこねて人を創った」
と書いてある。あれは神話的表現です。ああいうような事が書いてあると、「聖書というものはしょうがない」なんて言って、普通の人は、ああいう表現で大事な真理が表されているということが読めない。神話的な表現は非常に文学的なんです。それだけ現実なんです。本当の現実を神話的な形で表現している。
15人のよわいは草のごとく、その栄は野の花のごとし。
これはイザヤ書40章6節と同じだ。この詩篇はイザヤ書をヒントとしたかも知れません。大体、預言書の方が先だからね。
「声きこゆ云く、よばわれ。答えていう何とよばわるべきか。いわく人はみな草なり。その栄華(はえ)はすべて野の花のごとし。草はかれ花はしぼむ。エホバの息そのうえに吹きければなり。実(げ)に民はくさなり。草はかれ花はしぼむ。されどわれらの神のことばは永遠にたたん。」(イザヤ40・6~8)
人生は無常である。花は、切り花は段々枯れてしまう。
「エホバを畏るる者」とは「エホバの前に平伏す者」ということ。私は、「畏れ」と書いてあったら、みな「平伏し」と読む。畏(かしこ)まる必要はない、平伏さなくては。福音書の中に平伏すと、キリストは立たせてくださる。
「参りました! 降参します」
「よし、お前を立たせてやるぞ」
というわけです。
●かくせざるを得ず
16風すぐれば失せてあとなくその生(おい)いでし処にとえど尚しらざるなり。
17然はあれどエホバの憐憫(あわれみ)はとこしえより永遠まで、エホバをおそるるものにいたり、その公義(ただしき)は子孫(こら)のまた子孫にいたらん。
18その契約をまもりその訓諭(みさとし)を心にとめて行うものぞその人なる。
ここにも「行う」と書いてある。
「神の聖意を行う者が天国に入る」
と、キリストの言にもある。「信ずる者」とは言わない。「行う者」と言っている。
「聖意を行わなければ天国に行けないぞ」
と。そうかと思うと、十字架の片一方の盗賊が、
「どうも私はしょうがない。あなたが聖国にいらっしゃるときに、せめても覚えてください」
と言ったら、キリストは、
「お前は今日、私と一緒にパラダイスだ」
と仰った。そういうことです。その時その時に、キリストの仰ることは、その時のその人にふさわしいことをおっしゃる。方程式なんかありはしない。それが本当の魂の世界です。「そうか、最後にそうやって救っているなら、散々悪いことして、最後に悔改めよう」なんて、そんなことを考えたら、ちゃんと神さまは知っているから、
「ダメだ、お前は。あの盗賊の真似をしても違うぞ」
なんて、そういうことになる。
「声前一言、千聖不伝」
という言葉がある。
「声の前の一つの言は千の聖(ひじり)もこれを伝えることができない」
という。ところが、神・キリストはちゃんとそれを、声前の一言をご存じなんだ。
本当の行為というのは、「さぁ? こうしようか、ああしようか。まぁ、こうやっておけ」なんて、そんなものは一つも本当の行為ではない。
「斯(か)くせざるを得ず」
というのが本当の行為なんです。選択がない。選択の世界は道徳の世界です。道徳を乗り越えた世界は霊的必然の世界です。
自然界が必然です。雨が降れば地面が濡れる。これは自然界の必然法則だ。ところが、霊界の本当の法則は必然なんです。天的必然です。「斯くせざるを得ず」と言って動く。
「愛せざるを得ず、人を救わざるを得ず、助けざるを得ず」
と。この「ざるを得ず」というのが大事なんです。これはヒルティも『眠られぬ夜のために』の中で言っています。英語でいうと、
「ノー アザー キャン アイ ドゥー」
という世界です。霊的必然が、天的必然が本当の自由なんです。霊法の世界が本当の自由です。
●キリスト神秘
私たちは行わしめられる。キリストも、
「自分は何もできない」
と言っているでしょ、ヨハネ伝6章、7章のところに。
「何も言えない、何もできない。神さまがさせているんだ。神さまが言わせているんだ」
と、キリストは無言無行なんだ。ところが、それがもの凄いことを言ったり、したりした。
奇蹟ではない。あれはみな霊的な力ですから。何か摩訶不可思議な奇蹟ではない。聖書に奇蹟なんかありはしない。神さまの驚くべき「ミステリオン」「奥義」、神秘です。霊の世界の神秘です。ダイスマンがパウロのことを書いた有名な本がある。その最初の第一行に、
「パウロは神秘者であった」
と書いた。パウロの神秘は「キリスト神秘」という。キリストと本当に一つとなって自由自在になる。これをキリスト神秘という。我々もキリスト神秘の人間にならなければダメなんだ。普通の常識では分からない不可思議な人間に。
19エホバはその寳座(みくら)をもろもろの天にかたく置(すえ)たまえり。その政権(まつりごと)はよろずのもののうえにあり。
この「天」という言葉はみな複数になっている。新約の「天国」という字も複数です。
20エホバにつかうる使者(つかい)よ、エホバの聖言のこえをきき、その聖言をおこなう勇士(ますらお)よエホバをほめまつれ。
21その万軍よ、その聖旨(みこころ)をおこなう僕等よ、エホバをほめまつれ。
22その造りたまえる万物(よろずのもの)よ、エホバの政権の下なるすべての処にてエホバをほめよ、わがたましいよエホバを讃めまつれ。
讃美歌の中に、
「カルバリの十字架はわが為なり」
という言葉がある。
「キリストの十字架はわが為なり」
と、この告白が本当にできるまでは、本当は十字架がつかめていないことになる。
「弥陀の本願はわが為である」
とは親鸞が言った。本当の真理を自分との関係において、
「参った!」
と、そういうつかみ方をしなければ、第三者的に見ている者は何も本当にならない。我に関わりのあることとして把まないと。キリストとの関わりは――私の足を洗ってくださったキリスト――贖罪です。洗足です。キリストとの関係は洗足関係なんです。
「お前の足を洗わなければ、何の関わりあらんや」
と、キリストに逆にやられてしまう。
「お前の足を洗いにきたんだよ」
という。過越の祝いの時にペテロが言い損なったことが、却って、本当の恵の世界を表していることになった。ペテロの言い損ないが却って、本当のことを教えることになった。
聖霊を受けるまでのペテロは沈んだり浮いたりしている。ペテロは波的な存在です。ヨハネというのはスーッとキリストの胸に寄りそうような存在です。ヨハネ伝には、
「キリストに愛されたる弟子」
と自分のことを書いている。パウロは電光石火的な、非常に曲線の強い男だ。ペテロとヨハネとパウロの三つの型がある。波型と直線型と曲線電光石火型だ。人間はこの大きな三つの型に分かれるかも知れない。
テサロニケ前書5章23節にパウロが、プネウマ(霊)とプシヘー(心)とソーマ(体)の三つを表している。この霊・心・体は人間の三次元の構造です。霊で祈り、心で祈り、全身で祈る。
●罪は雲散霧消したから
ところで、イザヤ書44章に、
「21ヤコブよイスラエルよ此等のことを心にとめよ。汝はわが僕なり。我なんじを造れり。なんじわが僕なり。イスラエルよ我はなんじを忘れじ。22我なんじの愆(とが)を雲のごとく消し、なんじの罪を霧のごとくにちらせり。なんじ我にかえれ。我なんじを贖いたればなり。」
日本語でいうと、罪を「雲散霧消させた」ということだ。これはいいねぇ、
「無罪だよ」
という。
「罪は全部消してしまって、贖ってしまったから、だから、帰ってこい」
と。「帰って来たら、罪を消してやるよ」ではない。これは恵が先立っている。恵の行為が先立って、
「お前はもう贖われているのだから、帰ってきなさい」
という。「帰ってきたら贖ってやるよ」ではない。既に旧約でもってちゃんとそう言っている。これはいい言葉だ。
「罪は雲散霧消したから、だから帰って来なさい。既に贖いたればなり」
と。だからもう、帰らざるを得ない。無条件に、
「ありがとうございます」
と言って帰ってくる。キリストの恵もまたこれです。
23天ようたえエホバこのことを成したまえり。下なる地よよばわれ、もろもろの山よ林およびその中の木よこえを発(はな)ちてうたうべし。エホバはヤコブを贖えり。イスラエルのうちに栄光をあらわし給わん。」(イザヤ44・21~23)
いいねぇ、
「自然も一緒になって大いに讃美してくれ」
と。詩篇の148篇がそうです。あれは恐らく、アッシジのフランシスの『太陽の歌』の基になっているでしょうね。詩篇103篇というのはとにかく非常に新約的なんです。
20エホバにつかうる使者(つかい)よ、エホバの聖言のこえをきき、その聖言をおこなう勇士(ますらお)よエホバをほめまつれ。
聖霊の力あるものは勇士(ますらを)だ。
21その万軍よ、その聖旨(みこころ)をおこなう僕等よ、エホバをほめまつれ。
22その造りたまえる万物(よろずのもの)よ、エホバの政権の下なるすべての処にてエホバをほめよ、わがたましひよエホバを讃めまつれ。
「讃美せよ、讃美せよ」
と書いてある。エホバの中にはキリストがいらっしゃる。キリストを讃えることは同時に神さまを讃えることになる。私はそういう意識でやっているものだから、「父よ」と言わないで「主さま」と言っている。何しろ、キリストでなくては私はあり得ない人間だから仕方がない。
「汝ら祈る時に斯く祈れ『天にまします我らの父よ……』」
と書いてある。けれども、あれを方程式みたいに考えたらダメです。キリストのあの言は、「例えば、こんなわけだ……」ということです。
「儀文は殺し、霊は活かす」
という。我々は霊をもって神の聖言を活かす。ただ表向きでその形に従ったら、これは「儀文は殺し」の方になってしまう。
エレミヤの言に、
「9預言者輩のために我心はわが衷(うち)に壊(やぶ)れわが骨は皆震う且つエホバとその聖言(きよきことば)のためにわれは酔える人のごとく酒に勝たるる人のごとし。」(エレミヤ23・9)
「自分は神さまの聖言に酔えること、酒に勝たるる人のごとし」
という。エレミヤは聖言に酔っていた。私たちはキリストの福音に酔っていなくては。酔ったって倒れないよ、この福音に酔ったら。満ち溢れる。「酔う」という言葉は少し躓きになるけれども。
●詩「賀川の第二故郷」
私は近代のクリスチャンの中で賀川先生を一番尊敬しています。賀川先生は本当に地で行った人だ、貧民窟を訪ねて行ったり。先生の歌、
「一枚の最後に残ったこの衣神の為には猶脱がんとぞ思ふ」
それを実践した人です。
私は『エン・クリスト』誌51号(1992年7月夏季号)に「賀川の第二故郷」という詩(独和対照、ソネット、1992年6月12日作)を書いた。その詩を紹介します。
「賀川の第二故郷」(独和対照)
~ ソネット ~ 1992年6月12日作 天弓
賀川純一と益榮(ますえ)という名の
美貌の芸者、彼の妾(そばめ)との間に
豊彦が一八八八年に次男として生(あ)れ出でた。
エリコの遊女ラハブがサルモンによりボアズを産んだように。
この少年は道ならぬ誕生(うまれ)を時折歎いた、
自分は生れるべきではなかったと。
だが神は神秘にもかかる豊潤な天賦の女性によって
全く有為な憫み深い人物賀川を世に遣はし給うた。
神戸市の一角新川で彼は見た
極めて貧困な人々の住居を、鳴何たる悲惨!
そこで彼はこの一角を第二の故郷とした。
即ち彼は最も惨(みじめ)な借間に住んだ。
悪い八九三(やくざ)どもにすら彼の魂は深い愛を現はした。
花嫁ハルと共に彼は新婚の旅をこの一角へと! 人力車で。
新婚の旅をそのどや街に行ってやったわけです。本当に福音をどん底の姿でもって伝えた人ですね。皆さんは聖霊にあっては何でもできますから、そのどん底の力をいただいて進んで行きましょう。

