小池辰雄の妻順子にあてた手紙(1933、1945、1961~1962年)の一部を掲載します。
| 1933/5 | 小池辰雄書簡(許婚者へ) | 辰雄29歳。結婚七カ月前に許嫁にあてた手紙。 1933/5/11「愛する順子様、あなたと二人の時を有つことは何と楽しいでしょう……」 |
| 1945/3 | 小池辰雄書簡(妻へ) | 辰雄41歳。戦時下、疎開先の妻へあてた手紙。 1945/3/15「日本は天譴(てんけん)をうけつつある。僕もその一員として死すべくば死なり。しかし、僕の魂は断じて死なない。いつか完全な霊肉をあたえられて楽しき天国生活を順子たちとすることになる。理想の日本がその日に天上で成就する様に!」 1945/3/16「朝に昼に夕にわが心を専らにするものは「神の幕屋」。詩の書き出しは東京の大空襲とその猛火の中から僕が天へ昇るところから始まる、エリヤの如く。中篇に於て藤井先生に会い、先生と共にその世界パラダイスの構造を学ぶ。後篇に於ては、審判をへて、救いに入りし人々がどんな人々であるか……。僕はあと20年でなければ(還暦の頃)これを真に書きあげることは出来ない」 |
| 1945/4 | 小池辰雄書簡(妻へ) (2) | 1945/4/1「魂と意志の僕は、日本の最大の詩人として独一の使命観の中に在る。何人(なんぴと)も僕の畢生の大業に追随をゆるさぬ。……僕が中道で斃れるときも順子の腕に抱かれて天国への旅につく。たとい順子が一緒にここに居なくとも順子の愛の心が僕を抱いてくれるのを信じているから。僕の魂を抱いておくれ。順子の抱擁を絶対に必要とする男であるから。ダンテがベアトリーチェを恋し、藤井先生が奥様を慕われたより以上に僕は順子を愛する。」 1945/4/2「はなし相手の順子を神様が僕からひきはなし給うた。それは僕をして詩作に没頭せしめんためなのだろう。お前を慕い焦がれれば焦がれるほど、私の心は詩の国へ没入してゆく」 1945/4/4「讃美歌をひとりで口ずさんでいる。或いは道を自転車で行くとき、ひとりでうたう。野べの鳥と共に! 戦の現実から却って最も超現実の国へ僕の心は飛ぶ」 1945/4/7「聖書は涙と血を通さねばわからぬ書だ。天国と来世と終末の国を語っている。どうか子供たちに真剣に、時が来たら聖書の真理を、はなしや読書を導いて教えてやってくれ。そのことに成功すれば外のことはどうでもいい。順子の役目は果たされたのだ。僕の祈りはきかれたのだ」 |
| 1945/6 | 小池辰雄書簡(妻へ) (3) | 辰雄も群馬県吾妻郡嬬恋村新鹿沢に疎開(長期演習)。 1945/6/22「順子もひとに愛され尊敬される婦人になってもらいたい。そして、それは僕のところへ来たときより向上していることをうれしく思う。いよいよ床しき婦人になってもらおう。僕もそういう人間になるから。両親が立派にならなければ子供が立派にならぬことはあたり前である。子供らが気品のある人になる様に……。ゴタゴタ書きましたが、いつも中心は一つ。神をすべてを通して学び、彼に信頼せんことのみ。而して我々は真実一点張りで全力をそそがんのみ」 1945/6/27「断然、偉大なる人物の、詩人の一人となる覚悟、のぞみを僕の将来に充分託してもらいたい。神様がその意味で僕を山間に置いて下さると信ずるから責任を深く感ずる。ルター、日蓮の如き信仰の英雄にもなる。預言者にして詩人。僕は永遠の青年、この魂を世界無比のものに!」 |
| 1945/7 | 小池辰雄書簡(妻へ) (4) | 1945/7/14「あの新町の藤井先生のお宅で聖書の真理を、先生から直接教えていただいた昔を心から想い起こしましょう。我々二人を結んだのはあの霊の講筵であったわけです。私が順子を勝手にえらんだのではなく、神様が私に順子を与え順子に辰雄を授け給うたのです。その摂理があの先生の集まりの室にあったことを今にしてしみじみ思います。それ故に私達は普通の結婚とはちがった特別な使命を帯びている結婚をしたわけです。聖書の真理が我々を結んだのです。……幸にしてこの戦争の終局まで僕が身を完うし得たあかつきには、僕はいよいよ今の職を棄て、順子と共に福音のため全力を尽くしたいと覚悟いたしました。……「神の幕屋」を詠わんとする私の使命はいいかげんなものではなく、私の存在も重いのです。必ず神様は護って下さいます。私たちが、ま心こめて努力する限り、信頼し奉る限り。」 |
| 1961~1962 ドイツのハンブルクから妻への手紙・日記(渡欧だより) | ||
| 1961/4 | 小池辰雄書簡(妻へ) | ハンブルク大学哲学部門の日本学ゼミナールの講師として一年間赴任。ハンブルク・ウェリングスビュッテル・ヴァルディング通り パウルス方に居住する。 |
