小池辰雄日記

1916/4~5
(12才)
「辰雄日誌 1916」 N0.1中学1年乙級(東京高等師範学校附属中学校(旧制))12才、中学1年生の辰雄の日記。(注:当時、中学校の日記課題として、担任教師が生徒の日記を定期的に回収閲覧し朱筆でコメントを入れて指導していた)
1916/7~8「辰雄日記 1916」 N0.3 (1)中学1年生、12才の辰雄の日記。夏休みに宮城県の遠刈田温泉へ家族旅行に行く。暑中休暇日記ほか。
1916/9~11「辰雄日記 1916」 N0.3 (2)9月から新学期が始まる。学校と普段の生活にもどる。修学旅行で千葉県佐原へ行く旅行記ほか。
1916/11~12「辰雄日記 1916」 N0.4 (1)12才、中学1年生の少年辰雄の日記
1917/1~4
(13才)
「辰雄日記 1916」 N0.4 (2)13才、中学1年生の辰雄の日記
1917/4~11「辰雄日記 1917 N0.5 (1)兄政美と江ノ島・片瀬海岸で夏休みを過ごす。「政美日記」(1917/~12)にも「画期的夏」として同様な記事が記されている。
1919/1~11
(15才)
「辰雄日記 1917 N0.5 (2)1919/10/25「兄〔政美〕さんは日曜に学校の僕の質問は決して受けない。勉強(学校)は毫もしない。日曜の午後からは内村先生の御講義を聞きに聖書をもって行かれる。日曜にそこへ行かれることを欠かしたことは一度もない。どんな用があっても、人に誘われても、その方は止める。」
シベリヤに出征の兄〔龍二〕さんから手紙が来る。
1923/4
(19才)
「辰雄日記 1923 N0.2 (1)水戸高校1年生の初夏、腸カタルで入院し、1年休学する間にキリストに入信する。1年前とはガラッと変貌した青年辰雄。
1923/4/11「我が信仰を保ち且つ強からしめるものは、我が聖書と宗教書とのみである。私に友なし。我はただ信仰によって立つのみ。我はどこまでも、独り水戸に主の御旗を守りて立たん」
1923/5「辰雄日記 1923 N0.2 (2)1923/5/3「私は生まれてから未だ3、4ヶ月位しか経っていない。主の赤兒である。聖(霊)戦の開戦のラッパが鳴っている時である。御用はこれからである。」
1923/5/28「なまぬるき基督者ならず、かたき基督者とならん。ただこれのみに生きる。すべては信仰によりて。」
1923/6「辰雄日記 1923 N0.2 (3)1923/6/19「聖安息日には、試験中にも「主の日」なる故に、僕は勉強する心にはなれぬ。この御恵、願わくは、いつまでも変わらずあらんことを。」
1923/6/26「去年の今夜、僕は腸カタルに罹って、酷い下痢をやったのだ。思えばぞっとする。去年の僕は既に今年の僕と全然異なるものとなった。」
1923/7「辰雄日記 1923 N0.2 (4)1923/7/19「我が死せるこの心、我が迷えるこの心。総てを忘れ、総てを棄てて。総ては空のみ。この世は旅路、かりの宿りなり。ただ神にのみ、よりたのまん。」
1923/7/20「北京の兄上よ、僕も兄上の如く。僕の唯一の友なる兄上よ、兄上が僕に宿れば、僕は何も要りません。兄上と共に主の僕となって仕えまつりましょう。」
1923/8/7「自分は、どうしても凡人では駄目である。偏人だか、変人だか、狂人だか知らぬが、とにかく凡人にてはあらざらんことを自ら望む。世と歩調を合わせることはどうも僕には出来ない。」
1923/8/14「兄は生きて天に居らっしゃる。時々、非常に僕の近くまで来られて語られる。その度に兄上に感謝する。兄上に励まされて、この世の旅路を歩む。日、一日と兄上に近づきあることを思うと、また言われぬ歓びがある。目指すところはみくにのみである。僕の道は上る道、栄光の道、主の道、みくにへの道。」
1923/8「辰雄日記 1923 N0.3 (1)1923/8/26「『聖書の研究』8月号を母上に読んで差し上げた。大いに得る処あった。内村先生の言われることは、どうしてこんなによく僕の心に適うのかと不思議な様である。」
1923/8/28「兄と僕は一心一体である。兄の続きが僕である。兄は僕に宿る。故に僕は兄の肉体を見ずとも寂しくないのである。兄の強健なりし身体と、絶倫なりし才能、精力と来たりて、僕に宿れかし。それよりも更に更に兄の信仰、敬虔なるその信仰の心、僕の心となれかし。」
1923/9/1「地震〔関東大震災〕も火災も、神の聖旨と知り奉って感謝である。このことを悟らしめて戴いたことは僕が今回、火災の害を蒙らなかったことより遥かに感謝なことである。」
1923/9/23「この罪の塊の辰雄、いくじなき辰雄、だらしなき辰雄、こんな虫けらは死んでしまえと自分で自分に言いたくなる。しかし、罪を何回となく繰り返すにも拘らず、神はより深く僕に臨み給いで、危なければ危なきほど強き御力をかし給う。聖霊を強く宿らせて戴き、ここに奮然として立たん。」
1923/10「辰雄日記 1923 N0.3 (2)1923/10/3「僕はどこまでも人のためになる人間になりたい。……叔母様の喜び、母上の喜び、まま様の喜ばれる辰雄となりたいのである」
1923/10/15「藤井先生がわざわざ来られた。恐縮であった。藤井先生には初めてお目に懸かるのであった。好い先生と云うよりほかに無い。……亡兄の遺稿の出版に関して有難き報せを今日承ったのである。来春出版の御予定で居られるとのことである。先生は一切を引き受けて下さった。僕は印刷物の校正に出来るだけ尽力するつもりである」
1923/10/19「生まれて初めて母上と共に散歩した。一日の清遊をなした。母上も子供と共にこんな散歩の(ピクニック)をされたことは、生まれて初めてであると申された。……僕の務め、否、やりたいことは総て母上を喜ばせ奉らんことである」
1923/11「辰雄日記 1923 N0.3 (3)1923/11/1「高等学校で大いにやりたいこと、希望、抱負は英語と独逸語の力をうんと養うこと。それからもっと大事なこと。頑丈なルーテルの様な、リヴィングストーンの様な、リンカーンの様な、グラッドストーンの様な、精力絶倫な身体を鍛え上げること」
1923/11/10「僕の心に告げるものがあった。Die Bibel、ルーテルの聖書、これを汝に与えんと。正にルーテルの誕生日に当たってこの霊感を得たのは偶然の出来事ではない。早速、洋服を来て、飛び出た。星が輝いていた。足は進む、勇み行く。川又書店にただ一冊あったことを記憶している。嘗て瞥見したその書は今晩、僕の手に入るのだと思ったとき、言うに言われぬ嬉しさを感じた。水戸であの一冊の黒い無言の書を買うものは僕の外になかったのであった。ベルリンから水戸の僕ために、かの書は来ていたのである。我がルーテルよりその誕生の晩に、聖書を授けられた。神様よ、御聖旨、誠に感謝し奉ります。願わくは、しっかり御導きあらんことを。聖手にすがりて」
1923/12「辰雄日記 1923 N0.3 (4)1923/12/1「神よ、12月は来れり。我が救わるべきときは来れり。願わくは、聖手によりてしっかりと御導き給わんことを。深く深く主の御心をうかがわんために沈黙に、実行に。ああ、全身を主に投げ出してゆだね奉らん」
1923/12/31「今年最後の日である。僕は今年を追想して見る勇気もないほど哀れなものである。総てを神の前に告白してお赦しをねがわねばならないのである。健康々々と言って遂に健康は得られなかったではないか。信仰々々と言って遂に己れに真の信仰がないではないか。語学々々と言って遂に英語が進歩していないではないか。この不徹底なウジ虫め。何と罵詈をあびせかけられても一言の答うる言を有たぬこの身を如何せんである。涙も何も我が罪を購うことは到底出来ぬ。牢獄につながれているどの悪人よりも勝りて大なる罪人は僕である。1923年の終りの日に、最も力をこめて神様に申し上げて、お赦しを乞わねばならぬことは正に之である。大なる罪人のすべての罪をお赦し下さいませ」
1924/1「辰雄日記 1924 N0.4(1)1924/1/2「僕は神に帰らねばならない。神様は僕に生命の力を与えて居られる。僕の霊魂が神に帰れば、神様はそれに従って、僕に立派な健康体を与え給う。僕の身体は物質上からは如何に方法をつくすとも救われない」
1924/1/4「未だ顔色がよくないと斎藤様に言われた。全く面目ない次第である。総て自分の不徹底、不信仰の結果である。神の御恵を戴いて、強い辰雄になるぞ。人々よ、強くなる僕を見ていてくれ」
1924/1/8「人生の第21年に棹さす僕、希望に輝く僕、確信に燃ゆる僕、信仰に歩まん僕。聖霊、願わくは僕に宿り給いて御導きあらんことを」
1924/1/22「ああ、神様、どうして母上からその眼をとり給いしぞ。聖旨ならば願わくは、母上の肉眼をも開き給え。この天然を見るべき眼を再び母上に与え給え。僕の霊魂は消え入るばかりであります。僕は片眼となるとも、母上の一眼を開かれんことをお願い致します。母上のあの御不自由を思うと、僕の胸は一杯になります。どうした聖旨でしょうと。母様を懐う情にかられて泣き叫びたくなるのでございます。十字架を負いにし母様なればこそ。ああ、僕もまた母様にならい、亡き兄上にならい、十字架を負いて主に従わん」
1924/2
(20才)
「辰雄日記 1924 N0.4(2)1924/2/1「母上様から御手紙を戴く。有難く拝読した。母上のために、僕のすべては母上のために」
1924/2/7「20才、青年の花である。前途は希望のみである。絶対に神にこの身を捧げ奉って、その希望にのみ歩むべきである。己れの身を棄てて初めて生命を受け得るのである。新たに迎えられるこれからの生涯をして神の光栄のためにのみ捧げて送らしめよ」
1924/2/16「兄上よ。僕は兄上なり。兄上、我がために死に給えり。兄上は僕に宿り給う。僕は兄上である。総て兄上の如く。兄上の如く。Like Masami my Brother in Him.〔彼(神)にある我が政美兄上の如く〕。神よ、"Be" Christian〔キリスト者で在る〕たらしめ給え」
1924/2/22「政美は辰雄である。辰雄は政美である。故に、僕は淋しからず、楽しきこととて此の如きはない。どこに居るとも、兄上は我と共に在ます。困ったら兄に聞けばよい。悪いこと、過ちたることをせんとしたときは、叱責せられればよい」
1924/3「辰雄日記 1924 N0.4(3)1924/3/7「政美は辰雄に宿る。辰雄よ、確乎として政美の道を歩め。之誠に歓ばしき感謝なる而して大なる希望の光に進むものなり。ルーテル、守りて在り。心を強うせよ」
1924/3/19「ぐずぐずしていないで。偉くなろう。とらわれないで、しっかりと。身体を先ず強健に。それには、精神。僕の心である。人である。人とならん。辰雄は政美と同心同体であるべきものなのである」

1924/4「辰雄日記 1924 N0.4(4)1924/4/5「神よ、鞭を以て、僕の神に立ちかえるまで如何ほどでも打ち給え。この大罪人を。兄上よ、天に在りて瞰下し給う、わが兄上よ。このなさけなき弟、ああ、もう何も申し上げることが出来ません。ゆるして下さいますか。明日は如何に戦うかを見給え。父なる神よ。まよえる羊は神の御手によりたのむか否かためし給え」
1924/4/11「兄──御許に逝ける──の霊、我が内に深く宿り給え。兄──今我とこの世につかわされ働ける──の手足となりて我を用い給え。ああ、主よ! 主よ! もっともっと。計画と決心のみに走り勝ちなる我に、実行とBe〔である、存在〕との御力を与え給え」
1924/4/13「「大きい兄さん」──一基督者──はこの辰雄のために逝かれた。悔い改めて、新生涯に入れよ。働け、働け、神のため、キリストのため、あくまでも」
1924/4/15「ああ、しかれども、内なる心は如何に。汝、迷える羔よ。頼みまつるべきは、ただ主のみ、主のみ。単純なれ。主のみ! ただ主のみ。神よ、ゆるし給え。主よ、一途に僕が身を十字架に。すべてをすてて、迷うことなく、一途に、一途に、十字架に、十字架にアーメン」
1924/4/24「母上様から感謝なる御手紙が来た。涙ながらに読んだ。母上様のために、辰雄は起たねばならぬ。兄上様のために、辰雄をしっかり歩まねばならぬ。すべて主なる神のために、辰雄は十字架を負わねばならぬ。栄光神に在れ」
1924/4/26「しかし、深く考えて、すべてはありがたく終る。基督者となって、ついに失望に終ることはない。実に感謝なる生涯はクリスチャンライフである」
1924/5「辰雄日記 1924 N0.4(5)1924/5/13「罪の黒魂。塵の塵、芥の芥。物の数にもあらぬ虫けらが僕である。何故に然るか。不信の心。ただこれのみによりて然りである。迷える心。ただこれのみが総ての禍を醸す。真理に向かって直進。徹底的の献身。神への絶対的信頼。ただこれのみによりて救わる。救の道はただ之あるのみ。而して他に一つもあるなし。……汝、今、齢正に20に満つ。汝の生まれかわるべき時は正に今日なり。汝の霊の聖霊を迎え奉るべきは今である。今にして汝、霊的に甦らずんば遂に救われざらんとす。神よ来り給え。聖霊宿り給え。さて、汝の日常のことを考え見よ。日常の生活が神に導かるる信仰の生活に非ずしては、遂に信仰も何かあらん。汝の知も何かあらん。汝の聖書も宗教書も悉く死なり。……汝は神の在るときに誠に偉大な人間である。キリスト我れに在り、我れキリストに在るときに如何に汝は偉なることよ。その汝の偉、之即ちキリストの偉なればなり。然るに見よ、一旦、汝キリストを離れてサタンに弄せらるるところとならんか。汝の醜態、たとえんにものなしである。……神は救い給う。必ず救い給う。雄々しかれ、信仰の戦を戦え。主よ。最早、我、何も誓うことをせじ。ただ主に任せてのみ歩まん。主は幾度、我が手を採り給いて救わんとし給いしぞ。而して、我は幾度聖手を自らはなして主より遠ざかりしことぞ。そして罪に、サタンにくみしし事ぞ。そしてサタンに別れては主を慕いまつり、主にすがらんとせしぞ。そして主は、やさしくも聖手を伸ばし給いて救わんとし給えり。我聖手にすがりて完全に救われんとするやまた聖手より自らはれしこと幾度なりしぞ。かくすること誠に誠に幾度なりしぞ。信仰薄弱なるこの辰雄をゆるし給え。神よ。信仰なる、真剣なる、謹慎なる、真勇なる、沈着なる、快活なる、歓喜なる、感謝なる、讃美なる、祈祷なる、よき日々を送らしめ給え。
1924/5/25「まず身体の強健である。それ心の平安と信仰より生まるである。神よ、益々よき信仰の戦をたたかわしめ給え。よき実を結ばしめ給え。我思い煩わじ。すべて神にゆだねまつりて、信頼によるその日暮らしをなさん。なさしめ給え。栄光神に在らしめ給え。アーメン」
1924/5/30「やや夏めいてきた。春も終りを告げんとしている。庭の青桐の葉が、はや蔭を宿す様になった。人の成長もかくの如しである。庭の青桐が今青春期にある。僕もまた然りである。彼の生々たる青色の如く僕の心も生々溌剌たるものであらねばならぬ。神経衰弱だの、信仰衰弱だの、胃腸アトニーだのは最早我に何のかかわりあらんや、と云う様にならねばならぬ。かりそめなるあやまちもほろびに入る門ぞかし。よくよく心に銘ずべきである」
1924/6「辰雄日記 1924 N0.4(6)1924/6/1「藤井先生も言って下さった様に、僕は先ず身体を丈夫にしなければならない。僕の身体の丈夫になるのはその原(もと)は精神の健全にあるから一層その必要なるを感ずるのである。身体の不健康は僕の場合にあっては精神の不統一、不信仰を表わすものである。節食主義、菜食主義、規則的生活、信仰を本として」
1924/6/2「ジャガイモで育つ僕、太れ太れである。胃腸アトニー症も神経衰弱もとんで行け。我は頼らじ、人に問わじ、人を当てにせじ。我が友は上にあり、我が友は中にあり。我はそれにて足れり、強し
1924/6/5「辰雄よ、信仰に生きよ。汝の一動一動は皆その源を信仰に置きてなせよ。一言一句は皆、信仰より之を発せよ。時は常に新たなり。汝の生命もその如く常に新たに信仰へ、信仰へと進み行けよ。凡ては信仰なり。動ずるなかれ。千代経し磐に頼りて在れ。耐え忍びて汝の生命を全うせよ。神よ、御力を与え給え。独り立たしめ給え。信仰のよき戦を戦わしめ給え。アーメン」
1924/6/7「我がなすべきは信仰の行である。愛の言行に生きねばならない。宗教書を研究、読書しなければならない。読書の習慣を養うこと。節制と規則正しきこと。凡そ信仰のあるところ過なしである」
1924/7「辰雄日記 1924 N0.4(7)1924/7/2「片瀬!……その広い砂浜! 砂丘をかけ下りた。海へ足を入れた。泳ぎ好きの僕、跳び込まないで居れようか。跳びこんだときの感じを何と云ってよいであろう。「ああ、大きい兄さん」と云うのであった。兄上の最大快楽は泳ぎとでも云おうか。この海、何年もここに鍛えた兄上の筋肉逞しい赤銅の身体をその砂浜上に思い浮かべて再び、「ああ、大きい兄さん」と祈り、呼び求むれども声はなし、姿はなし。我が涙は海水に、その滴は海水を沸かしかえさん熱さ。神よ、奇蹟は今なきかと祈れども、ああ。心ゆくばかり泳いだ。この間から泳ぎたい泳ぎたいと思っていた希望の達せられたこと。しかもそれが片瀬の海に於て。何たる本望ぞ。神様どうも有難とうございます」
1924/7/5「それからまた泳ぐ。実に愉快である。僕はどうしても泳ぎが好きだ。水の子である。河童である。水泳するたびに、泳ぎずきの長兄を思い出す。どんなに泳ぎたいことであろう」
1924/7/6「僕自身は誠に無力、而して力の絶大なるもの、人の動かすべからざる絶大なる力が僕をとらえ、僕を支配して下さった。それが一時にあらず、継続的である。故に僕の身体に大なる影響を及ぼし、僕を新たに生まれしめてくださるのである」
1924/7/14「いよいよ徴兵である。……貧弱な体格のため、或いは侮辱の言、或いは同情の語、或いは励ましの句を頂戴した。最後の断定は丁種不合格である。不忠不孝の壮丁は僕である。体格は丁種である己れの不節制より損じて、そして得たるものは丁種の体格であると思うときに、自分は生きている心地がしない」
1924/7/24「母上のこの世の旅に居らるる限り、その旅のなぐさめを与えるべきは僕である。故に全力をあげ全霊をこめて母上にお仕え申さねばならないのである。母上よ、ゆるし給え。古き辰雄は去れり。今より辰雄は新しくある。キリストによりて新しくあります」
1924/7/31「神よ、我が心霊を一変せしめ、兄の霊を注ぎて、辰雄は新しき辰雄ならしめ、常にあの政美兄上と共に在らしめ給え。そこに我、ゆたかなり、活発なり、沈着なるを得るのである。我に、幸に龍二兄上あり、彼と残るこの世の旅を、政美兄上の霊に導かれて歩まん。我等は皆、基督エス様の枝なり。アーメン」
1924/8「辰雄日記 1924 N0.5(1)高島鴻子おば様 召され給う〔1924年8月2日〕
1924/8/1「赤倉へ来てから初めて手紙が来た。母上様からである。誠に驚いたのは、高島様の伯母様が尿毒症で御重態との御事である。心から僕を愛して下さる伯母様が突然御重態と聞いて、驚愕措く能わずである。而して平素の僕の御無礼申し上げている罪を思って断腸の思いがした。……やがて僕は谷川の流れの岩の上に坐して、深き静かなる切なるお祈りに心も身も忘れてしまった。かかるお祈りは初めてである。伯母様に神癒あらんことを祈り奉った。母上のために祈り奉った。聖霊は僕に宿り給うて、そのとき僕は僕でなかった。自己は消滅した。自分の身体も心も自分のものでなかった。否、消えてなかった。ただ、主イエス基督のみ僕に在った。それが全部であった。十字架の愛が輝いていた。大なるアーメンの声が響いた。天然の谷川の水が和した。ああ僕の洗礼を受くべきは正にこの時であった。清冽氷の如き渓川に僕の身体はおどりこんだ。全身は不思議にもこの身を切る様な冷たき流れにひたりこんだ。頭からすっかり浴びた。全霊が清められた。これは洗礼の儀式でなかった。これは真実なる洗礼そのものであった。聖霊の御導きによりて僕は全く動かされたのであった」
1924/8/5「お昼の御飯のとき葉書が来ていた。この葉書、何の報せぞ。母上より。高島様の伯母様は遂に御許に召されたと。その意外、その突然、私達のお祈りはついに聴かれざりしか。深く主におたずねする。それは聴かれざりし祈りにして、最も聴かれた祈りであったのか我等は知らねども主の御心に誤りなし。神の深き御恵であったのか。「耐え忍びて汝らの生命を全うせよ」(ルカ伝21・19)との御言葉をよく遵りて、高島鴻子伯母様は御許へ往かれた。救われたる伯母様、この世の旅路を御心にかないて終わらせられた。まま様、幸なる哉。ああ美しかりしその御生涯。かの御病気を常にもたれて、つよくしっかり歩まれしまま様。今は御心によりて召された。誠に主はその召し給うときに於て誤り給わざりきと信ずる。まま様は歓喜と感謝と希望に満ちて、いさぎよく天国へ昇られたことと確く信ずる。今は聖国にあって曩に召されし聖徒等と楽しき面会をして居られるであろう。政美兄上もその一人であろう。御二人は、さぞ永遠の楽しき笑みにつき、み物語をして居られることであろう。……基督者の死は、死にして死に非ず。天国への門の通過なり。まま様の愛の御生涯の美わしかりしよ。「天に宝つめる者」はまま様にてありき。……基督者、兄上の血、まま様の血、その美しさ、その浄さ、その貴きこと、キリストの枝なる彼等の血にキリストの血あり。熱愛の血なり。皆、僕達のために。僕の祈りは悲しみより感謝へ、歓びへ、希望へとうつって行った」
1924/8/6「高島鴻子伯母様は1924年8月2日午前10時35分に召されたとのこと。2日、ああ、僕の夢は正に2日の晩であったのである。その夢は、ついに正夢、神の御報せであったのである。何たる不思議ぞ。奇跡は神のなし給うところ、我々の知り能わざるところ」
1924/9「辰雄日記 1924 N0.5(2)1924/9/1「汝貪る勿れ。政美は辰雄なり、辰雄は政美なり。勇みて進め、主の聖業のために。アーメン」
1924/9/2「彼大工は18才にして面貌は24、25。1日、米を1升、少ないときが8合。驚いた。飯と味噌汁があれば何も要らぬと云っている。粗食は健康をもたらす。菜食と浄き空気と運動と健全なる精神、それが彼を生んだ。育てたのである。……しずけきこの大自然を棄て去ることはまことに惜しくある。しかし、帰りなん。母上ぞ待ち給うなる。この赤倉の40日の効は必ず後に至りてあらわるると信ずる。神に栄光あれかし。アーメン」
1924/9/22「お墓詣りをしたのは、日が暮れてからのことであった。兄上の墓前に立ってお祈りすること多時。木星が炯々とその前で光っていた。兄上の霊はかの天上の木星に光っているが如く感ぜられた。兄上は3年。長き3年、苦しき3年。我々のために天に祈りつづけられた。……北京の兄上の霊を僕の信仰の真中につめこまれて、僕はお墓を出て来た。宛(あたか)も兄が再び来りし如く。政美に辰雄あり、辰雄に政美あり。忽同体である。天に祈る霊あり、地に働く体あり」
1924/10「辰雄日記 1924 N0.5(3)1924/10/10「入浴しに行ったのは今日の禍であった。湯桶につかっているときに突然、熱湯におそわれた。驚いて上って来たときはすでに頭部、肩の上部一帯、左右の腕にと、かぶったあとであった。背に火を負わせられるの思いがして、唸らざるを得なかった。……神よ、これ禍にして禍ならず。感謝すべき賜なり。神よ、この苦盃をして最も歓ばしきものとなさしめ給え」
1924/10/19「辰雄は、たおれかかりたる辰雄は、その根底に熱烈なる「光を望むの心」あるが故に、決してたおれず、次第次第に力を得て、やがては磐石の上に建設さられたる城の如くならん。神よ、救い給え」
1924/10/29「愚かな道を歩む勿れ。汝のうちにサタンあり、汝の四囲(まわり)にサタンあり。すべてのけがれより遠ざかれ、くだらぬ者どもがくだらぬ耽美に耽っている。それは僕の関すべきものではない。彼等は如何にあろうとも、如何に僕に対するとも、僕は厳然として千代に動かざる磐石である。そは僕の生命である」
1924/11「辰雄日記 1924 N0.5(4)1924/11/7「僕は思った。僕は毎日、宗教書を読まざれば生きて居られぬ人間であることを。そして、この種の書を繙いているときは、僕の最も楽しき時、純なる心のときの一つであることを。……純真なる基督の僕となりて一生を終えるに非ずんば我に生くる価値なし術なし。過去は如何にもあれ、我は此の如く貴き犠牲によって贖われたものなれば将来に於て必ず献身せん。愛と血とを人類の為に。今晩の願い聴かせ給え。アーメン」
1924/11/19「僕は誤解されている。桐寮の人々に、もと桐寮に居た人々に。学校の友達に、親類の人々に、誤解されている。また、僕を知らぬものがある。それは、内的変化があまりに急で、あまりに峻烈であるからである。今日の僕を、ある者は、英雄崇拝と云い、ある者は、かたいと云い、あるものは馬鹿にし、あるものは世事をしらぬお坊ちゃんとし、あるものは勉強家とし、あるものは、まだわかいなんて云う。誤解されること、それは僕にとって痛痒を感ずることでもなんでもない。誤解するものをして誤解せしめよ。知る人ぞ知る。ただ僕は黙っているばかりである」
1924/11「辰雄日記 1924 N0.5(5)1924/12/11「我を嘲笑して偽善者と云うものあり。それは冗談であるにせよ、我は誠にその語を快しとせず、……やっぱり信仰の足りないのを思った、泣きたくなった。……罪悪の数々はこれ、あわれむべき我が悪性のあらわれである。その悪性は如何にせば我が身体よりあとを絶たんか。ただ己れを棄つるにあり。絶対の神への献身にあり」
1924/12/28「目指すところへ来た。はじめどこが内村先生の家だかわからなかった。どれが「今井館」でどこから入ってよいのかわからない……。今日のは、青年学生、労働者のクリスマスなのである。讃美歌を歌い、祈祷あり、やがて自己紹介をやることになった。内村先生を残して畔上先生、塚本先生も皆された。信仰のことに関してや、色々と感想が出た。最後に内村先生のお話がある。先生をこんな目(ま)近く、また打ちとけて親しく話されるのをうかがったことがないのである。先生が最も今日強く言われたことは、"Boys, be ambitious!"〔少年よ、大志を抱け!〕と云うクラーク恩人の言を繰り返されたことと、"Stand up for Jesus"〔イエスのため起(た)て〕と "Stand up for Japan"〔日本のため起て〕、愛国心とであった。……今日この日を期して、我は一段と主のものとなりたるをおぼゆ。何より貴き宝とて、十字架の福音に勝るものなし。主よ、1924年のクリスマスを永遠におぼえしめ給え。1925年を更に更に、主のために用い給え」
1925/1「辰雄日記 1925 N0.6(1)1925/1/1「1925年の第一日の第一に、神を拝し、神に祈り、神のことを思う。去年を忘れ、新年の希望を神に祈り奉る。まことにまず感謝のことであった。……今年の願いと希望。第一に、神のこと、基督のこと。全能の神の紳士にして基督、罪の贖主の僕の生活をなすこと。旧約、新約聖書を完全に読了すべきこと。第二に、強健なる身体を鍛え上げること。第三に、語学の勉強に励むこと。独逸語の力をうんとつけること。英語の力も相当つけること。第四に、宗教書を読むこと。……益々、神のため、基督のため、同胞のため。母上を思い、兄上を偲べ。選ばれたる者、辰雄よ、使命は大なり、路は遠し。十字架によりて立てよ」
1925/1/5「「迎えらる可き者の我が家族、我が親類に我一人ならぬを祈りて。1918.2.11 政美」。之を読んだ僕は、どうして涙を浮かべないで居られようか。新約聖書の第1頁に書いてあった。……1918年と云えば大学3年のときである。同心町に居たとき。如何に苦しき祈りを捧げられしことよ。天の兄上よ、歓び給え、辰雄ここに在り。当時、兄上は孤独なりき」
1925/1/14「昨夜は、非常によい夢を見た。…… 兄上の云われるよう、『辰雄も信仰に入ってこんなになりましたよ』と。母上、武田の叔母に言われたのを聞いた。夢の中に居た僕はよろこんで兄上のこの言をそばで聞いていた。そして目が覚めて、更に嬉しく感じた。兄上は確かに天に居て、僕の現在を見給い、歓び居らるることを。兄上、見給う、見給う。喜び給う、喜び給う。ああ、我、争(いか)でこの信を棄てんや。兄上のため、それだけでさえ、この信仰は棄てられない。まして、我が霊魂の益々深く求むることなるに於てをや。この宝、此の幸、以て何に換え得べき」
1925/1/28「最後になぞの歌を書いた。我に三つの花あり。一つは揚げられて天にあり。今星となりて輝く、希望の光なり。二つの花は地にあり。我が歓びわが慰めなり、我が愛切なり。また一つの星あり、導きの光あり、真の光なり。やがて彼の星も此の星も、かの花もこの花も我もまた知らざる人々もその日来らば、主の許に永遠の歌を交さんこととて楽しけれ」
1925/2「辰雄日記 1925 N0.6(2)1925/2/2「右の太指未だ癒えず。神のよき誡をこれによりて、呼び起こし得るは感謝である」
1925/2/4「一体、僕が高等学校に入ったのはいつであるか。1922年、今より3年前である。入学、入寮、そして知らざる人と一室に入れられ、知らざる友に交じり、高校生活にふみ入らんとしたときに、第一信を僕に送られたかたは誰であるか。涙なり、今は亡き方、召されて天に在る方である。愛の遺言、福音の遺言となった。それを思い出して今日ここにしるし、彼女(ママサマ)の願いに答え、以て祈り奉る次第である。書簡中より、「辰雄様は御母様を御よろこばせ為る特権を持って居らっしゃいますこと、御覚えくださいまして兄様方の御あとを何卒しっかり御歩み下さいませ。染井でもどんなにかよろこんで居らっしゃるでしょう。本当にありがとう存じました。…… 高島鴻子」。信仰の未だなかりし僕と云えどもこの愛と神への感謝、そしてまた僕のことを神に祈られたこのお手紙を戴いて、ある力を感じなかったであろうか、ある愛の光を認めなかったであろうか。その後、決心あり、ゆるみあり、放縦あり、病あり、病治あり、休学あり、転宅あり、兄の結婚あり、神の霊のおとずれあり、大手町あり、再び転居あり、水戸帰趨(きすう)あり、進級あり、ゆるみあり、不信あり、病あり、休校あり、夏休みあり、水戸第2学期あり、暮あり、クリスマスあり、第2学期試験あり、第3学期あり、学年末而して来らんとす。ああ3年の過去、そこに無限の感慨あり。今までに此の如き3年をどこにも見出ださないのである」
1925/2/7「今日は僕の第22回の誕生日である。神は今日で丁度21年間のこの世の生を与え給うた。感謝である。兄上二人、姉一人。政美、三郎、愛子は先だって天国へ往った。地上には即ち龍二兄、富士子姉と僕とが残されて居る。神の招き給う日までこの旅路をあゆむ。父上は夙(つと)に去り給うた。母上はその時以来、奮闘以て僕達を育てて下さった。殊に僕が最も御恩を蒙って居る。母上は今、失明の身で居られる。これ僕のためである。僕の罪のためである。政美兄上、義の血を流して十字架を負い主に従い給うた。これ僕の為である。汝は貴き犠牲、主イエス・キリストによりて贖罪の恩恵を蒙りたるものなり」

小池政美日記

1917/7/20~12/31小池政美日記(1917)小池政美(辰雄の大きい兄さん)の日記。『羔』誌1~6号の「樅の日記」から抜粋したもの
1918/11/23~1918/12/21小池政美日記(1918)(同上)
1919/9/3~10/31小池政美日記(1919/9)小池政美の日記第6巻。政美の運命を決する結婚問題。その訣別は辰雄のその後の運命に大きく係わることになるとは!
1919/11/1~30小池政美日記(1919/11)(同上)
1920/5~12小池政美日記(1920)小池政美の日記。『曠野の愛』誌1951年9月、10月号から抜粋したもの。1918年12月「クリスマス前後」、1920年5月~12月「北京への路」等を掲載。